昼下がりの陽光が、桜洛の上空をぼんやりと包んでいた。春の光は柔らかく、瓦の隙間から差し込む日差しが、どこか物憂げな色をしている。だが、そんな日差しとは裏腹に、智子の心には霞がかかっていた。自分の足が、今どこを目指しているのか分からない――そんな不安を胸に、彼女は静かに歩いていた。
朝の炊き出しを終えた後、機織り仲間の厚意で借りていた古布屋の小屋を掃除していた時のことだった。小屋の引き戸が、音もなく開いたかと思うと、黒羽織を身に纏った男が二人、無言で入ってきた。言葉もなく、ただ一枚の文を差し出す。
「“招かれております。屋敷にてお話を”」
文に記されていたのは、その一言だけだった。差出人の名はない。ただ、文末に添えられていた、墨で描かれた小さな狐の印。
――まさか、あの時の男?
胸の奥が、不意にざわめいた。昨夜、反物で助けた、あの獣のような目をした男の顔が脳裏に浮かぶ。名乗りもしなかったが、あの男の目には、ただ者ではない気配が宿っていた。まるで、誰かの人生の糸を、容易く手繰れるかのような、冷たい意志が。
だが“招かれた”という以上、ただの偶然では済まされない。もし無視すれば――次はもっと面倒なことが起きるかもしれない。智子は文を何度も読み返し、悩みに悩んだ末、意を決して歩き出した。
指定された場所は、桜洛の中でも比較的静かな武家町の奥。ここは商人の往来も少なく、路地も広く整えられている。だが、町の整然さとは裏腹に、その屋敷はどこか異質だった。
門構えは古びていた。表札もなく、瓦にはところどころ苔が生えている。だが、内に覗く庭の枝ぶり、植木の剪定の仕方は妙に整っていた。不自然なほどに無駄がなく、美しすぎる直線と曲線が交互に並ぶ様は、まるで“よそおい”そのもののようだった。
――中には、何かが潜んでいる。
そんな直感が、智子の背筋をひやりと撫でた。獣が牙を隠して息を潜めているような、静かな警告。だがそれでも彼女は、戸を叩いた。断る選択肢など、最初からなかった。
案内されたのは、屋敷の奥――使われていないはずの織間だった。床には古い踏み機の跡が残り、天井からは細く日が差していた。その部屋の中央に、ひとりの女がいた。
猫背気味の背中。乱れた髪。袖をたくし上げ、無造作に腰帯を締めた姿。近づいてくるその気配に、智子は思わず身を固くする。
「……お前が、智子か」
その女――薫の声は、低く唸るようだった。言葉の一つ一つが、喉の奥から絞り出されるように響き、本能的に目を合わせてはいけないという警告が走る。だが、智子は一歩も引かず、深く頭を下げた。
「はい。ご指名と伺いました」
震える声を必死に抑えながら、言葉を投げる。薫はしばし黙っていたが、ふいに腕を組んで、数歩歩み寄ると、智子が背負っていた荷を指さした。
「お前、反物の選別はどんな順序でやる?」
唐突な問いに、智子は思わず口を開きかけてしまった。
「は?」
その瞬間、怒号が飛ぶ。
「何をぼんやりしてやがる。実技だ、実技!」
薫は語気を強めたかと思うと、壁に立てかけられていた編み籠を片足で蹴飛ばした。中から、太さも色もまちまちの糸束が、ざらざらと音を立てて床に転がり出る。
音のひとつひとつが、やけに響く。静まり返った室内に、糸が転がる音だけが残された。
「時間は一刻。役立たずなら、即刻切り捨てだ」
その言葉には、脅しでも演出でもない本気が滲んでいた。試されている――そう、はっきり分かった。ここは、実力のある者だけが残れる場所なのだ。
智子は、深く息を吐き、静かに膝を折った。言い訳も、質問も、一切しなかった。ただ、目の前にある糸束に指を伸ばした。
智子は、静かに指を動かし始めた。
まず手に取ったのは、最も古びた麻糸だった。ざらついた手触り、微かに土と湿気を吸った匂い。彼女はそれを光にかざし、撚りの弱さを確かめるように、目と耳を研ぎ澄ます。そしてそっと、指先で引くように弾いてみた。
「……駄目だ。鳴かない」
麻糸が発するはずの乾いた響きがない。それは、糸が既に死んでいるという証だった。彼女はそれを脇に除け、迷いなく次へと手を伸ばす。
次に選んだのは絹糸だった。指先に吸い付くような感触。そっと弾いた瞬間、小さな音が空気を震わせる。
「……鳴いた」
その一言は、自分に向けた確認だったが、それを聞いていた者がもうひとりいた。
後ろで黙って様子を見ていた薫が、わずかに眉を動かす。ほんの一瞬の変化だったが、智子は気づかぬふりをして作業を続けた。集中を乱すことなく、一本一本の糸に対して、対話するように、丁寧に手を動かしていく。
糸の素材、撚りの密度、染の乗り方――どれも布にしたときの仕上がりを大きく左右する要素だ。智子は表情を変えず、ただ目の奥にだけ集中の炎を宿し、ひたすら糸と向き合った。
その姿は、ある意味で祈りにも似ていた。沈黙のなかで、無言の対話を重ねながら、彼女は少しずつ、“ここにいる理由”を織り上げていった。
しばらくのあいだ、薫は何も言わずにその様子を見ていた。腕を組んだまま、口元に何かを抑えるようにしている。だがその目は、明らかに何かを測っていた。
やがて、約束の一刻が過ぎた。
床の上には、智子が選別した糸束が、まるで一枚の織物のように整然と並んでいた。無駄がなく、順序も理にかなっている。理屈ではなく、手と眼で見極めた、確かな選別。
薫はそれを見て、ふっと鼻で笑った。
「叱っても、動じねえ顔しやがって」
その言葉には、かすかに皮肉が混じっていた。だが、その奥にある感情は――怒りではなかった。
智子は答えない。言い返すことに意味はない。ただ、淡々と作業を終えた責任だけを背負って、手を膝に置く。
薫は数歩、智子に近づくと、静かに呟いた。
「……やりやがったな」
その声は、まるで火種に火が入ったようだった。目の奥に、焔に似た光が宿っていた。試すために与えられた条件を、智子は文句も言わずに乗り越えた。しかも、確かな腕で。
「お前……ほんとに一人で織ってたんだな、あの布」
薫の声には、感嘆とも賞賛ともつかない響きがあった。認めたくないが、認めざるを得ないという屈し。だが、それは薫自身がずっと欲していたものだった――言い訳のいらない、本物の職人。
智子は、少しだけうつむいたまま、静かに頷いた。
「名だけの姫じゃ務まらねぇ。だが、お前の糸には芯がある」
それは評価であると同時に、宣告でもあった。この先に待つのは、装いだけで済む役割ではない。誤魔化しも、逃げ道も通用しない世界。
薫はくるりと踵を返し、乱暴に襖を開けた。その背中が、夕陽の光を切り取って、鋭く陰を落とす。
「ここは、腕さえあれば残れる。叱られて泣く奴は去れ。だが、叱られて燃える奴は――」
そこで一拍、言葉を切った。だが振り返らなかった。智子の答えを待たずに、そのまま奥へと消えていった。
襖が閉まる音が、部屋の空気を落ち着かせるように響いた。
智子はゆっくりと息を吐き、作業台に置いた糸束の上に、そっと両手を添えた。あたたかくも冷たくもないその感触が、なぜか心に落ち着きをもたらした。
ここで、自分はまだ、何かを織れるかもしれない――
その思いが、胸の奥にほんのわずかに芽生えた。
外の光が、薄く差し込む。その光の先で、確かに新しい道が、今静かに開き始めていた。
朝の炊き出しを終えた後、機織り仲間の厚意で借りていた古布屋の小屋を掃除していた時のことだった。小屋の引き戸が、音もなく開いたかと思うと、黒羽織を身に纏った男が二人、無言で入ってきた。言葉もなく、ただ一枚の文を差し出す。
「“招かれております。屋敷にてお話を”」
文に記されていたのは、その一言だけだった。差出人の名はない。ただ、文末に添えられていた、墨で描かれた小さな狐の印。
――まさか、あの時の男?
胸の奥が、不意にざわめいた。昨夜、反物で助けた、あの獣のような目をした男の顔が脳裏に浮かぶ。名乗りもしなかったが、あの男の目には、ただ者ではない気配が宿っていた。まるで、誰かの人生の糸を、容易く手繰れるかのような、冷たい意志が。
だが“招かれた”という以上、ただの偶然では済まされない。もし無視すれば――次はもっと面倒なことが起きるかもしれない。智子は文を何度も読み返し、悩みに悩んだ末、意を決して歩き出した。
指定された場所は、桜洛の中でも比較的静かな武家町の奥。ここは商人の往来も少なく、路地も広く整えられている。だが、町の整然さとは裏腹に、その屋敷はどこか異質だった。
門構えは古びていた。表札もなく、瓦にはところどころ苔が生えている。だが、内に覗く庭の枝ぶり、植木の剪定の仕方は妙に整っていた。不自然なほどに無駄がなく、美しすぎる直線と曲線が交互に並ぶ様は、まるで“よそおい”そのもののようだった。
――中には、何かが潜んでいる。
そんな直感が、智子の背筋をひやりと撫でた。獣が牙を隠して息を潜めているような、静かな警告。だがそれでも彼女は、戸を叩いた。断る選択肢など、最初からなかった。
案内されたのは、屋敷の奥――使われていないはずの織間だった。床には古い踏み機の跡が残り、天井からは細く日が差していた。その部屋の中央に、ひとりの女がいた。
猫背気味の背中。乱れた髪。袖をたくし上げ、無造作に腰帯を締めた姿。近づいてくるその気配に、智子は思わず身を固くする。
「……お前が、智子か」
その女――薫の声は、低く唸るようだった。言葉の一つ一つが、喉の奥から絞り出されるように響き、本能的に目を合わせてはいけないという警告が走る。だが、智子は一歩も引かず、深く頭を下げた。
「はい。ご指名と伺いました」
震える声を必死に抑えながら、言葉を投げる。薫はしばし黙っていたが、ふいに腕を組んで、数歩歩み寄ると、智子が背負っていた荷を指さした。
「お前、反物の選別はどんな順序でやる?」
唐突な問いに、智子は思わず口を開きかけてしまった。
「は?」
その瞬間、怒号が飛ぶ。
「何をぼんやりしてやがる。実技だ、実技!」
薫は語気を強めたかと思うと、壁に立てかけられていた編み籠を片足で蹴飛ばした。中から、太さも色もまちまちの糸束が、ざらざらと音を立てて床に転がり出る。
音のひとつひとつが、やけに響く。静まり返った室内に、糸が転がる音だけが残された。
「時間は一刻。役立たずなら、即刻切り捨てだ」
その言葉には、脅しでも演出でもない本気が滲んでいた。試されている――そう、はっきり分かった。ここは、実力のある者だけが残れる場所なのだ。
智子は、深く息を吐き、静かに膝を折った。言い訳も、質問も、一切しなかった。ただ、目の前にある糸束に指を伸ばした。
智子は、静かに指を動かし始めた。
まず手に取ったのは、最も古びた麻糸だった。ざらついた手触り、微かに土と湿気を吸った匂い。彼女はそれを光にかざし、撚りの弱さを確かめるように、目と耳を研ぎ澄ます。そしてそっと、指先で引くように弾いてみた。
「……駄目だ。鳴かない」
麻糸が発するはずの乾いた響きがない。それは、糸が既に死んでいるという証だった。彼女はそれを脇に除け、迷いなく次へと手を伸ばす。
次に選んだのは絹糸だった。指先に吸い付くような感触。そっと弾いた瞬間、小さな音が空気を震わせる。
「……鳴いた」
その一言は、自分に向けた確認だったが、それを聞いていた者がもうひとりいた。
後ろで黙って様子を見ていた薫が、わずかに眉を動かす。ほんの一瞬の変化だったが、智子は気づかぬふりをして作業を続けた。集中を乱すことなく、一本一本の糸に対して、対話するように、丁寧に手を動かしていく。
糸の素材、撚りの密度、染の乗り方――どれも布にしたときの仕上がりを大きく左右する要素だ。智子は表情を変えず、ただ目の奥にだけ集中の炎を宿し、ひたすら糸と向き合った。
その姿は、ある意味で祈りにも似ていた。沈黙のなかで、無言の対話を重ねながら、彼女は少しずつ、“ここにいる理由”を織り上げていった。
しばらくのあいだ、薫は何も言わずにその様子を見ていた。腕を組んだまま、口元に何かを抑えるようにしている。だがその目は、明らかに何かを測っていた。
やがて、約束の一刻が過ぎた。
床の上には、智子が選別した糸束が、まるで一枚の織物のように整然と並んでいた。無駄がなく、順序も理にかなっている。理屈ではなく、手と眼で見極めた、確かな選別。
薫はそれを見て、ふっと鼻で笑った。
「叱っても、動じねえ顔しやがって」
その言葉には、かすかに皮肉が混じっていた。だが、その奥にある感情は――怒りではなかった。
智子は答えない。言い返すことに意味はない。ただ、淡々と作業を終えた責任だけを背負って、手を膝に置く。
薫は数歩、智子に近づくと、静かに呟いた。
「……やりやがったな」
その声は、まるで火種に火が入ったようだった。目の奥に、焔に似た光が宿っていた。試すために与えられた条件を、智子は文句も言わずに乗り越えた。しかも、確かな腕で。
「お前……ほんとに一人で織ってたんだな、あの布」
薫の声には、感嘆とも賞賛ともつかない響きがあった。認めたくないが、認めざるを得ないという屈し。だが、それは薫自身がずっと欲していたものだった――言い訳のいらない、本物の職人。
智子は、少しだけうつむいたまま、静かに頷いた。
「名だけの姫じゃ務まらねぇ。だが、お前の糸には芯がある」
それは評価であると同時に、宣告でもあった。この先に待つのは、装いだけで済む役割ではない。誤魔化しも、逃げ道も通用しない世界。
薫はくるりと踵を返し、乱暴に襖を開けた。その背中が、夕陽の光を切り取って、鋭く陰を落とす。
「ここは、腕さえあれば残れる。叱られて泣く奴は去れ。だが、叱られて燃える奴は――」
そこで一拍、言葉を切った。だが振り返らなかった。智子の答えを待たずに、そのまま奥へと消えていった。
襖が閉まる音が、部屋の空気を落ち着かせるように響いた。
智子はゆっくりと息を吐き、作業台に置いた糸束の上に、そっと両手を添えた。あたたかくも冷たくもないその感触が、なぜか心に落ち着きをもたらした。
ここで、自分はまだ、何かを織れるかもしれない――
その思いが、胸の奥にほんのわずかに芽生えた。
外の光が、薄く差し込む。その光の先で、確かに新しい道が、今静かに開き始めていた。



