夜も更け、桜洛の城内は静まり返るように見えていた。だが実際には、あちこちで目に見えぬ気配が蠢き、幾つもの闇が交錯していた。
その一角――蔵書室。
ここは千冊を超える巻物と帳面が整然と並ぶ、まさに政の記憶庫。静寂の中に墨の香が漂い、畳に積もる微かな埃さえ、歴史の重みを語っているようだった。そんな場に、ふたつの影が忍び込んでいた。
「ここか……あの巻物があるとすれば」
呟いたのは真之介。控えめな佇まいの男だが、その目には明らかな決意の光が宿っていた。今夜ばかりは、躊躇も遠慮も捨て、慎重かつ素早く動いている。
手にする書簡には、わずか数行の指示が記されていた。
――“内府直達文書”を抑えよ。内容は“献上品搬送路”と“賄賂帳”。
それが、今夜の“的”だった。
政変の鍵を握るこの証拠。だが、それを探すだけでは意味がない。記録し、確保し、証として残さなければならない。
そしてその筆写を担うのは――
「……既にここにあるわ」
その声と共に、棚の上から影のように降りてきた女がいた。
美鈴。
長い黒髪をきっちりと結い上げ、まるで仏像のように一切の表情を浮かべない彼女は、すでに三本の巻物を手にしていた。
音は、一切しなかった。
まるで巻物たちの方が、音を立てぬように彼女に従ったかのように。
「美鈴殿……もう、位置を?」
思わず問いかける真之介。
「二刻前に全て記憶しておいた。あとはあなたの“目”で、間違いがないか確認して」
その声は静かだったが、言葉の節々には確かな自負と、わずかな緊張が滲んでいた。
灯りは最小限。火は使えない。用意されていたのは、透光硝子で作られた小型の光板だけだった。硝子の中で微かに光が揺れ、真之介の顔を白く照らす。
彼は巻物を受け取り、素早く開いた。慎重に、だが確実に。
「この筆写帳、君が?」
横に置かれた筆写帳の罫線は、巻物の幅にきっちりと揃っていた。しかも、余白には時刻や参照項目の欄まで加えられている。
「ええ。巻物の幅に合わせて罫線を。余白には時刻を記す欄も加えてある。……その方が、後で証拠として通るでしょう?」
淡々と語る美鈴。その口調に感情はなかったが、言葉の奥には冷静な判断と周到な準備が覗いていた。
それは、彼女が長い年月をかけて築き上げた“戦わぬ者の戦術”だった。
筆の音が、静かに響き始める。
真之介は、慎重に、しかし淀みなく書き写していく。
紙に触れる筆先の感触。薄墨の匂い。緊張の中に、奇妙な落ち着きがあった。
ふと、美鈴の横顔に目をやる。彼女の瞳は僅かに細められ、揺るぎない集中がそこにあった。
その気配には、単なる緊張だけではない、ある種の“慣れ”があった。
それが、かえって真之介の中に疑問を生んだ。
「……こういう任務、慣れてるのかい?」
「あなたがたほどじゃないわ。でも、私には“無駄なく済ませる”というだけの強みがある」
その言葉に棘はない。だが、情も見せない。
それが、美鈴という女の“防壁”だった。常に冷静で、常に整っていて、どんな状況にも揺れない。
だが、その防壁の奥には、今夜だけはかすかに温度があった。
それは、筆を動かす真之介の姿を、彼女がほんの一瞬見つめたからだ。
その証拠に、筆写が終わったあと――ほんの束の間、美鈴は筆を置き、小さく息を吐いた。
それは、普段の彼女からは考えられないほど“隙”を含んだ動作だった。
しかし、そこには緊張からの解放というより、静かな感情の揺れがあった。
「……あなたの書き方、好きよ。字に、“心配り”があるから」
その言葉は、ごく自然に、あまりにさりげなく紡がれた。
真之介は、一瞬だけ手を止め、思わず顔を上げる。
だが、そこにあるのはいつも通りの美鈴の横顔――無表情で、整った姿。
それでも、その言葉は確かに“彼女の心”から出たものだった。
どんな偽りも、どんな仮面も、今の美鈴には必要なかった。
「ありがとう」
真之介は、照れたように、だが誠実に微笑んで小さく答えた。
蔵書室の空気は、わずかに和らいでいた。
それでも、ふたりはすぐに緊張を取り戻す。
やがて、最後の筆跡を整えた真之介は、巻物と写しの帳をそれぞれ包み、慎重に懐に収めた。
「これが、誰かの手に渡れば、政は変わる。……その一歩だ」
「でも、渡す相手を間違えれば、火種になる」
美鈴の冷静な言葉に、真之介はゆっくりと頷いた。
だからこそ、これを誰に託すかも、ふたりの“判断”にかかっていた。
――扉が、わずかな音を立てて閉まる。
そのときには、もう彼らの姿も、気配も、そこにはなかった。
残されたのは、精緻な筆で写し取られた“真実”の帳だけ。
それは、仮面舞踏会という幻想の夜において、唯一、現実の光を帯びた“武器”だった。
そしてそれが、明日の政を動かす“光”となる。
その一角――蔵書室。
ここは千冊を超える巻物と帳面が整然と並ぶ、まさに政の記憶庫。静寂の中に墨の香が漂い、畳に積もる微かな埃さえ、歴史の重みを語っているようだった。そんな場に、ふたつの影が忍び込んでいた。
「ここか……あの巻物があるとすれば」
呟いたのは真之介。控えめな佇まいの男だが、その目には明らかな決意の光が宿っていた。今夜ばかりは、躊躇も遠慮も捨て、慎重かつ素早く動いている。
手にする書簡には、わずか数行の指示が記されていた。
――“内府直達文書”を抑えよ。内容は“献上品搬送路”と“賄賂帳”。
それが、今夜の“的”だった。
政変の鍵を握るこの証拠。だが、それを探すだけでは意味がない。記録し、確保し、証として残さなければならない。
そしてその筆写を担うのは――
「……既にここにあるわ」
その声と共に、棚の上から影のように降りてきた女がいた。
美鈴。
長い黒髪をきっちりと結い上げ、まるで仏像のように一切の表情を浮かべない彼女は、すでに三本の巻物を手にしていた。
音は、一切しなかった。
まるで巻物たちの方が、音を立てぬように彼女に従ったかのように。
「美鈴殿……もう、位置を?」
思わず問いかける真之介。
「二刻前に全て記憶しておいた。あとはあなたの“目”で、間違いがないか確認して」
その声は静かだったが、言葉の節々には確かな自負と、わずかな緊張が滲んでいた。
灯りは最小限。火は使えない。用意されていたのは、透光硝子で作られた小型の光板だけだった。硝子の中で微かに光が揺れ、真之介の顔を白く照らす。
彼は巻物を受け取り、素早く開いた。慎重に、だが確実に。
「この筆写帳、君が?」
横に置かれた筆写帳の罫線は、巻物の幅にきっちりと揃っていた。しかも、余白には時刻や参照項目の欄まで加えられている。
「ええ。巻物の幅に合わせて罫線を。余白には時刻を記す欄も加えてある。……その方が、後で証拠として通るでしょう?」
淡々と語る美鈴。その口調に感情はなかったが、言葉の奥には冷静な判断と周到な準備が覗いていた。
それは、彼女が長い年月をかけて築き上げた“戦わぬ者の戦術”だった。
筆の音が、静かに響き始める。
真之介は、慎重に、しかし淀みなく書き写していく。
紙に触れる筆先の感触。薄墨の匂い。緊張の中に、奇妙な落ち着きがあった。
ふと、美鈴の横顔に目をやる。彼女の瞳は僅かに細められ、揺るぎない集中がそこにあった。
その気配には、単なる緊張だけではない、ある種の“慣れ”があった。
それが、かえって真之介の中に疑問を生んだ。
「……こういう任務、慣れてるのかい?」
「あなたがたほどじゃないわ。でも、私には“無駄なく済ませる”というだけの強みがある」
その言葉に棘はない。だが、情も見せない。
それが、美鈴という女の“防壁”だった。常に冷静で、常に整っていて、どんな状況にも揺れない。
だが、その防壁の奥には、今夜だけはかすかに温度があった。
それは、筆を動かす真之介の姿を、彼女がほんの一瞬見つめたからだ。
その証拠に、筆写が終わったあと――ほんの束の間、美鈴は筆を置き、小さく息を吐いた。
それは、普段の彼女からは考えられないほど“隙”を含んだ動作だった。
しかし、そこには緊張からの解放というより、静かな感情の揺れがあった。
「……あなたの書き方、好きよ。字に、“心配り”があるから」
その言葉は、ごく自然に、あまりにさりげなく紡がれた。
真之介は、一瞬だけ手を止め、思わず顔を上げる。
だが、そこにあるのはいつも通りの美鈴の横顔――無表情で、整った姿。
それでも、その言葉は確かに“彼女の心”から出たものだった。
どんな偽りも、どんな仮面も、今の美鈴には必要なかった。
「ありがとう」
真之介は、照れたように、だが誠実に微笑んで小さく答えた。
蔵書室の空気は、わずかに和らいでいた。
それでも、ふたりはすぐに緊張を取り戻す。
やがて、最後の筆跡を整えた真之介は、巻物と写しの帳をそれぞれ包み、慎重に懐に収めた。
「これが、誰かの手に渡れば、政は変わる。……その一歩だ」
「でも、渡す相手を間違えれば、火種になる」
美鈴の冷静な言葉に、真之介はゆっくりと頷いた。
だからこそ、これを誰に託すかも、ふたりの“判断”にかかっていた。
――扉が、わずかな音を立てて閉まる。
そのときには、もう彼らの姿も、気配も、そこにはなかった。
残されたのは、精緻な筆で写し取られた“真実”の帳だけ。
それは、仮面舞踏会という幻想の夜において、唯一、現実の光を帯びた“武器”だった。
そしてそれが、明日の政を動かす“光”となる。



