華やかな仮面舞踏会のざわめきが続く中――その喧騒とは対照的に、会場の一角では異様な静けさが支配していた。

 御簾に囲われた奥の一室。人払いされ、外界の音がわずかに届くのみのその空間では、長机に広げられた帳簿や書付が整然と並び、墨の香と灯明の明かりが漂っていた。

 その中央に座る女――奉行所書記の響子は、筆を走らせながら、眉間に深い皺を寄せていた。

 「……どうしても、合わない」

 机上の帳簿は、舞踏会にまつわる支出明細である。

 紅花染の仮面製作費、絹織の敷布料、酒肴の支出、楽団への謝礼――多くの項目が並ぶが、その中に明らかな不整合があった。

 「“貴賓接待費”……三重計上……金額も微妙に変えている……」

 筆の先で記された数字を辿り、対応する明細と首を突き合わせる。
 しかし、何度読み返してもその帳簿は、“重ねての水増し”を隠し切れていなかった。

 「やはり、これは……不当支出」

 小さく呟いたその言葉に、控えていた若い女官が息を呑んだ。

 「こ、響子様……それは……その、御上のお裁き次第では……」

 女官の頬はすでに青ざめ、手がわずかに震えている。

 だが響子は、その揺れにも一切表情を崩さなかった。

 「論理が通らぬ支出を、私は通さない」

 ぴしゃりと、帳簿を閉じる音が室内に響く。
 その音は、御簾の向こう側まで届いたのか、仮面舞踏会のざわめきの一角が一瞬だけ静まりかえった。

 ――外では、笑い声、楽の音、酒の香を運ぶ風。
 だが、この御簾の中では、静かに“宴の裏側”が暴かれようとしていた。

 「この項目……“宝玉褒章”?」

 響子の筆が止まり、目を細める。

 「“褒章”ではない。“包金”……賄賂だ」

 その一言に、場の空気が一変した。
 押し殺されたような沈黙が落ち、女官が震える声で問う。

 「……響子様、これを、どうなさいますか?」

 響子はゆっくりと立ち上がった。

 「私は、“正しさ”のためにここにいる」

 言葉は平坦だが、決して揺るがない。
 書状を手に取り、足を一歩、御簾の外へ踏み出す。

 その姿は、まるで薄絹を裂いて現れる“刃”のようだった。

 ――そして、舞踏会の最中。

 仮面をつけた貴人たちが華やかに舞い、絢爛な音楽と香の薫りが空気を満たす会場に、異変が起きた。

 静かに、しかし確かな意志とともに、舞台の一角――楽士たちの間を割って、一人の女が現れる。

 白地に灰青の袴。髪はきっちりと結い上げ、顔には仮面ではなく冷然たる表情。

 奉行所書記、響子である。

 「失礼いたします」

 第一声は決して大きくはなかった。
 しかし、その声には音楽を止めさせるだけの力があった。

 場内がざわめき、誰かが咳払いをする。

 「本舞踏会における支出の中に、重ねて不正と見られる項目がございます」

 響子は懐から一通の書状を取り出し、それを高々と掲げる。
 その動きはまるで、儀礼に則ったように整っており、誰もそれを遮ることができなかった。

 「“宝玉褒章”と称された金銀支出、三重不当。内規に照らし、正当な明細根拠なし。総額三千二百両」

 ざわっ、と人々の視線が一斉に動いた。
 誰かが扇子を落とす音が、異様なまでに大きく響いた。

 「用途不明確。支出責任者、出てください」

 沈黙。

 誰も動かない。
 貴人たちが互いに視線を交わし、仮面の奥で何を思うのか、微細な気配が交錯する。

 「……響子様、それはあまりに……この場で、申し上げることでは……」

 周囲の誰かが小声で諫めようとしたが、響子はその声すら意に介さず、淡々と続ける。

 「空気を読むより、事実を読む方が、わたくしの職分です」

 その言葉は、まるで場の天井に突き立つ一本の釘のように、強く、そして冷たく会場に打ち込まれた。

 その瞬間、舞踏会の空気が確かに変わった。

 楽の音は止まり、笑みは凍り、誰もが次の一手を測るように押し黙る。

 だが、響子だけは――最初からこの瞬間を予期していたかのように、ただ書状を読み上げ続ける。

 静かな、だが揺るぎない声で。

 この夜、ひとつの“正しさ”が、仮面の下の矛盾を白日の下にさらけ出していく。

 その光は弱くとも、確かにひとつの仮面を砕いた。