夜も深まり、仮面舞踏会は中盤を迎えていた。

 西の来賓席――異国の賓客たちが色とりどりの羽織や紋付きの装束に身を包み、料理の前に黙したまま座っていた。
 赤毛、金髪、濃い肌。瞳の色も言葉も異なる面々は、口元に箸を添えるも、動きはぎこちなく、酒盃の扱いにも困惑が見られた。

 会場の主賓たる彼らは、幕府の新たな交易同盟の交渉対象でもある。
 にもかかわらず――彼らの通訳は不在、案内役もいない。
 曲水の宴を模した礼法、複雑な所作の意味も分からず、手持ち無沙汰のまま時間だけが過ぎていた。

 重い沈黙と、次第に濃くなる戸惑い。

 そんな緊張を切り裂くように、突如、帳の隙間から勢いよく飛び込んできた者がいた。

 「お待たせしましたああああっ! エマ・フジモト、参上っ!」

 和装アレンジの短袴に身を包み、元気な声とともに登場したのは、少女――エマだった。

 その手には、何やら分厚い小冊子が数十部。

 「こちら、“舞踏会でのふるまいマニュアル”! 日英対訳・四コマ漫画付きッス!」

 その場にいた者たちが一斉に注目する中、冊子の表紙には“宴であわてないために!”と手描きの文字。
 表紙の下には、ちょんまげ姿の武士が泣き笑いしている漫画が印刷されていた。

 その光景を見た外交官アクセルの顔が、引きつる。

 「エマ……まさか、それを……!」

 「うん! 刷ったよ! 五十部!」

 軽やかに返事をしながら、エマは席の間を軽快に走り抜け、冊子を一人一人に配っていく。
 「その箸の使い方、アウトです!」の吹き出しに、隣のコマでは武士が顔を赤らめ、左手で箸を持っていて叱られている。

 一瞬の静寂。

 だが、次の瞬間――

 「Oh, this is... funny. And helpful!」
 「I see, so the third bow is for the moon god. Interesting...」

 ――笑いとどよめきが、西の席を包み込んだ。

 困惑していた外国の客たちの顔が、みるみるうちにほころび始める。
 絵と短い文で構成された冊子は、文化の壁を越えて彼らに“今この場を楽しむ”方法を教えていたのだった。

 アクセルは、思わず溜め息をついた。
 まったく、予定外のことばかり起こる。

 だが、次の瞬間には毅然と立ち上がり、杯を手に取った。

 「諸君。日本の舞踏会へようこそ」

 それは、流暢な日本語での歓迎の辞。

 そして、盃に注がれた濃い琥珀色の酒を、ひと口。

 その瞬間――彼の眉が僅かに動いた。
 強い。だが、クセになる香り。

 「……まろやかで、良い香りだ」

 毅然と述べ、ゆっくりと飲み干す。

 その所作に、拍手が起こった。
 異文化を持ち寄るこの宴において、“共に盃を酌み交わす”ことこそが、最大の理解のしるし。

 エマは、にんまりと満足げな顔で言った。

 「よし、私たちの任務は成功だね!」

 「……はしゃぎすぎるな、エマ」

 と、アクセルが釘を刺すが、エマは「はーい!」と明るく返し、次の列に走り出す。

 「つまみ食い禁止ッスよー! それはお供えの“月見団子”ですッス!」

 列席の賓客たちが笑い、彼女の漫画パンフレットを覗き込む。
 エマの背中を見て、アクセルはしばし黙した後、小さく笑った。

 (こういう“無茶”が通るのも、今夜が最後かもしれん)

 そう思いながら、彼は盃をそっと置いた。
 腰に佩いた、細身の刀に手を添える。

 ――これは、ただの舞踏会ではない。
 国と国の狭間で交わされる、静かなる謀略の一夜。

 だが、その裏でひとりの少女が描いた漫画が、思わぬ形で“和”を繋ごうとしていた。