夜のとばりが、桜洛の空を深い群青に染めていた。
その静けさの下――城内の舞踏会場では、絹と金襴が織りなす幻想の光景が、まるで別世界のように広がっていた。
高天井の梁には、繊細な意匠が彫り込まれ、無数の灯籠がゆらゆらと揺れている。
その柔らかな明かりが、金糸を織り込んだ天幕や、舞踏台の縁を照らし出すと、まるで星々が舞い降りたようだった。
会場を歩く諸侯の夫人たちは、みな仮面をつけ、きらびやかな衣装をまとっている。
その顔には笑み。だが、笑みの裏にある思惑は、誰も読めぬ――それがこの夜の“しきたり”だった。
それは、貴族という仮面の上に、さらに“仮面”を重ねる夜。
名を捨て、身分を捨て、ただ“何者でもない者”として、己の影と戯れるための舞踏。
――その中心に、ひとりの女がゆっくりと歩み出た。
淡桃の十二単。その袖口には、淡銀の糸が波紋のように広がり、ほのかな光を拾って揺れていた。
顔には、牡丹の花を象った仮面――それは、華やかでありながらも、どこか物悲しさを帯びている。
「仮面姫」、智子である。
静かに、静かに歩を進めるその姿に、周囲の目が引き寄せられた。
足の運びは、僅かに硬い。
それは決して拙さからではない。緊張、そして責任の重み――彼女の背にのしかかるものの大きさが、そうさせているのだ。
(ばれたら、終わる……けど)
内心はざわついていた。
ひとたび正体が露見すれば、ただの平民の娘がこの場にいるなど、命さえ危うい。だが、智子はその不安を、ただ一つの思いで押し込めていた。
――約束した。薫にも、拓巳にも、そして自分自身にも。
“誠実に、役を演じる”。たとえ、それが仮初めのものであっても。
その意思だけが、彼女の背筋をまっすぐに保たせていた。
――
同じ頃、舞台の隅にある離れ、薄い簾の向こう。
そこでは、拓巳が静かに仮面を外していた。
黒地に金の筋が交差する、夜そのものを象ったような仮面。手にしたそれを机に置くと、彼の視線は、すぐに広間の光景へと注がれた。
鋭い眼差し。けれど、その目に映るのは、ただの社交の場ではない。
むしろ、この“仮面の舞踏会”こそ、情報と策略が蠢く戦場だった。
「北小路の大納言……妻の懐中に密書。
右近衛中将の妹……髪飾りが西方様式、外交経由品だな……ふん」
呟くたびに、拓巳の脳裏には、まるで地図のように人脈と書状、権力の線が浮かび上がってゆく。
その時――
「仮面姫の入場です!」
呼び声が広間に響き、全員の目が一斉に会場中央へと向けられた。
そこに立っていたのは、仮面の姫、智子。
中央の玉座脇に、凛とした姿で据えられたその存在に、会場が一瞬ざわついた。
「どこの姫だ?」「家名を聞いたこともないぞ……」
声を潜めたささやきが、広間の隅々まで波紋のように広がっていく。
だが――智子は、動じなかった。
その姿には、確かに品格があった。
笑わぬ口元、されど穏やかな視線。視線を合わせず、だが空気を乱さず、舞踏会の格式を尊重しながら、芯のある姿勢を貫いていた。
それは、まるで“光を纏う”というより、“闇の中から一筋の光が立ち上がった”ようだった。
(私は、誰のものでもない。けれど、誰かのためにここにいる)
その思いが胸に満ちた瞬間――
ふと、視界の端に黒い影が映った。
高台の欄干。そこに、ひとりの男の姿。
黒い裃、白い仮面。
鋭く整った立ち姿――拓巳だった。
智子は、わずかに首を傾けるように会釈を送った。
誰にも気づかれぬように。静かに。そっと。
拓巳は、それに応えぬまま、ただ視線をゆっくりと落とす。
(……よし、これで敵の配置も終わった)
心の中でだけ、確かに頷いた拓巳は、視線を南の奥座敷へと移す。
そろそろ、外交客の誘導が始まる時間だった。
次は――エマとアクセルの出番だ。
その静けさの下――城内の舞踏会場では、絹と金襴が織りなす幻想の光景が、まるで別世界のように広がっていた。
高天井の梁には、繊細な意匠が彫り込まれ、無数の灯籠がゆらゆらと揺れている。
その柔らかな明かりが、金糸を織り込んだ天幕や、舞踏台の縁を照らし出すと、まるで星々が舞い降りたようだった。
会場を歩く諸侯の夫人たちは、みな仮面をつけ、きらびやかな衣装をまとっている。
その顔には笑み。だが、笑みの裏にある思惑は、誰も読めぬ――それがこの夜の“しきたり”だった。
それは、貴族という仮面の上に、さらに“仮面”を重ねる夜。
名を捨て、身分を捨て、ただ“何者でもない者”として、己の影と戯れるための舞踏。
――その中心に、ひとりの女がゆっくりと歩み出た。
淡桃の十二単。その袖口には、淡銀の糸が波紋のように広がり、ほのかな光を拾って揺れていた。
顔には、牡丹の花を象った仮面――それは、華やかでありながらも、どこか物悲しさを帯びている。
「仮面姫」、智子である。
静かに、静かに歩を進めるその姿に、周囲の目が引き寄せられた。
足の運びは、僅かに硬い。
それは決して拙さからではない。緊張、そして責任の重み――彼女の背にのしかかるものの大きさが、そうさせているのだ。
(ばれたら、終わる……けど)
内心はざわついていた。
ひとたび正体が露見すれば、ただの平民の娘がこの場にいるなど、命さえ危うい。だが、智子はその不安を、ただ一つの思いで押し込めていた。
――約束した。薫にも、拓巳にも、そして自分自身にも。
“誠実に、役を演じる”。たとえ、それが仮初めのものであっても。
その意思だけが、彼女の背筋をまっすぐに保たせていた。
――
同じ頃、舞台の隅にある離れ、薄い簾の向こう。
そこでは、拓巳が静かに仮面を外していた。
黒地に金の筋が交差する、夜そのものを象ったような仮面。手にしたそれを机に置くと、彼の視線は、すぐに広間の光景へと注がれた。
鋭い眼差し。けれど、その目に映るのは、ただの社交の場ではない。
むしろ、この“仮面の舞踏会”こそ、情報と策略が蠢く戦場だった。
「北小路の大納言……妻の懐中に密書。
右近衛中将の妹……髪飾りが西方様式、外交経由品だな……ふん」
呟くたびに、拓巳の脳裏には、まるで地図のように人脈と書状、権力の線が浮かび上がってゆく。
その時――
「仮面姫の入場です!」
呼び声が広間に響き、全員の目が一斉に会場中央へと向けられた。
そこに立っていたのは、仮面の姫、智子。
中央の玉座脇に、凛とした姿で据えられたその存在に、会場が一瞬ざわついた。
「どこの姫だ?」「家名を聞いたこともないぞ……」
声を潜めたささやきが、広間の隅々まで波紋のように広がっていく。
だが――智子は、動じなかった。
その姿には、確かに品格があった。
笑わぬ口元、されど穏やかな視線。視線を合わせず、だが空気を乱さず、舞踏会の格式を尊重しながら、芯のある姿勢を貫いていた。
それは、まるで“光を纏う”というより、“闇の中から一筋の光が立ち上がった”ようだった。
(私は、誰のものでもない。けれど、誰かのためにここにいる)
その思いが胸に満ちた瞬間――
ふと、視界の端に黒い影が映った。
高台の欄干。そこに、ひとりの男の姿。
黒い裃、白い仮面。
鋭く整った立ち姿――拓巳だった。
智子は、わずかに首を傾けるように会釈を送った。
誰にも気づかれぬように。静かに。そっと。
拓巳は、それに応えぬまま、ただ視線をゆっくりと落とす。
(……よし、これで敵の配置も終わった)
心の中でだけ、確かに頷いた拓巳は、視線を南の奥座敷へと移す。
そろそろ、外交客の誘導が始まる時間だった。
次は――エマとアクセルの出番だ。



