夏祭り当日、午後。

 桜洛城の城下を流れる水路は、まるで時が止まったかのように静けさを湛えていた。祭の準備に沸き立つ町の喧噪が嘘のように届かないその場所は、まさしく都市の“陰”だった。

 だが、その静寂の下――
 湿った石の影には、ふたりの男が潜んでいた。

 ひとりは、黒羽織に身を包んだ拓巳。
 もうひとりは、感情を排した無表情の剣士、光輝。

 ふたりの背には、苔むした護岸。前には、古びた水門。
 そしてその水門の奥には、かつて“非常時の退避路”として用いられたという抜け道が、今もひっそりと眠っている。

 「予定通り、裏口からの攪乱は“石火矢”で行く。爆薬は“響子と美鈴”から手に入れたものだ」

 拓巳が静かに口を開き、湿った石の上に地図を広げる。
 紙面には、微細な筆致で書かれた水路の構造と起爆位置。既に何度も確認されたものではあるが、今一度、最終確認が行われた。

 「少量で十分。開口部さえ開けばよい。民間に被害は……一切出させるな。騒ぎは必要だが、混乱は不要だ」

 光輝は、無言のまま頷いた。
 その表情には何の感情も宿らない。ただの任務、ただの作業――そう言わんばかりに。

 「配備は?」

 「西の橋脚下、隠匿完了。起爆は引き紐と同時、五刻半」

 「火気は不要だな」

 「風向きは?」

 「南南西、一定。煙は橋の反対側へ流れる」

 短い問いに、短い答え。

 会話は冷たく乾いていたが、そこに緊張も焦りもなかった。
 ふたりの間には、言葉を超えた“信頼”という不可視の線が、ぴんと張られていた。

 やがて光輝が、石の蔭から顔を上げた。
 そして、乾いた声で一言、呟く。

 「表情は必要ない。結果だけ渡せばいい」

 拓巳はその言葉に、わずかに唇の端を緩めた。
 その笑みに、驚きや皮肉の気配はない。ただ、どこか懐かしさを帯びた微笑だった。

 「まるで俺の台詞を、先に言われたようだな」

 光輝は反応を示さず、ただ荷包みを背負い直す。

 「お前が使う言葉は、感情を隠すための煙幕だ」

 「……そうかもしれん」

 拓巳は、濡れた地面に膝をついたまま天井の石を見上げ、ゆっくりと背を伸ばした。

 「だがな、光輝。“闇を使って光を通す”というのは、案外、疲れるものだ。
  時には、誰かが“火口”を担がねばならん。誰かが、汚れ役を」

 その言葉を聞いた光輝の顔には、やはり何の感情も現れなかった。
 ただ一言も告げぬまま、彼は背中の荷を担ぎ直し、視線を水門の向こうへと向ける。

 「俺が行く」

 「お前の動きの方が早い。だが……戻ってこい」

 拓巳の言葉は、命令でも懇願でもなかった。
 ただ、真っすぐな“期待”の投げかけだった。

 光輝はそれに応えることなく、足音を消すように、水門の下へと沈んでいく。
 水の気配に溶けるように、その姿は闇へと吸い込まれた。

 ――

 数刻後。

 陽が傾き始め、祭の準備が頂点に達した頃。
 桜洛城の城下町に、突如として破裂音が響き渡った。

 「――ッ!?」

 西の水路、その石壁が爆ぜるように砕け、白煙が舞い上がる。
 その場に居合わせた兵士たちが、叫びながら一斉に駆け出す。

 「侵入だッ! 裏口が破られたぞ!」

 瞬く間に城の周囲は騒然となった。
 だが、その場から遠く離れた高台――花町の外れにある楼閣の屋根上に、ひとりの男が静かにその光景を見下ろしていた。

 拓巳だった。

 羽織の裾が風に揺れ、その目には一切の焦りもなく、確信のみが宿っていた。

 「表情はいらぬ、結果をくれ」

 そう言ったのは、光輝だった。
 その言葉が、静かに拓巳の脳裏に蘇る。

 ――その“結果”は、確かに今、目の前で扉をひとつ開いた。

 城の裏門、そこに生じたほんの小さな裂け目。
 だが、それは政の体制に風穴を開ける、始まりの一撃だった。