桜洛の空は、夏を前にして湿気を含んでどんよりと沈んでいた。雲は重たく垂れ込め、風もなく、空気さえ張り詰めたように動かない。明日は夏祭り――しかし、それはただの遊楽ではない。華やかな灯籠が並ぶ夜の裏側で、摂政家主催の仮面舞踏会が開かれる。そこには、拓巳の手が仕掛けた諜報の決定的な一手が潜んでいた。
そして、その舞台に立つ“仮初の姫”を飾る衣が、今この瞬間、仕立てられていた。
場所は屋敷の一角、風の通らぬ座敷の仕立て間。灯火は熾火のように小さく、照らすは裁ちばさみの鈍い光。夜も更け、既に四更を過ぎた頃。だが、その座敷にはなお針音が止まぬ。
「ほら、そこ違ぇ! 綴じ糸の角度が一分傾いてる! 織姫かぶれの素人仕事じゃ通らねぇぞ!」
怒声が響いた。振り返る間もなく、智子の手が慌ただしく動く。額には汗、指先は針で赤く染まっている。それでも止めることはできなかった。
「はい、すみませんっ!」
その返事は気迫に満ちていたが、声には疲労がにじんでいた。
窓の外では時折、涼しい風が吹き込むが、仕立て間にあるのは熱と緊張ばかり。吊るされた風鈴がひとつ、ちりんと鳴った。けれど、そのかすかな音が心を癒すことはなかった。むしろ、それが夜の深さを知らせる鐘のように響く。
時計もなく、眠る間もなく、ただ針を運び、布を整える――それが今夜のすべてだった。
「なぁ、智子」
不意に、薫が針を止めた。糸巻きの上で指が止まり、じっと布を見つめたまま、ぽつりと口を開く。
「お前さ、“姫様”やってる時、怖くねぇの?」
「怖いです」
智子は即答した。その答えには、何の躊躇いもなかった。
「でも、それ以上に……“裏切りたくない”人たちが、増えました」
返す言葉に嘘はなかった。誰かの思い、誰かの努力。それを無にするような振る舞いだけはしたくなかった。
薫がちらと視線を横に送る。張り詰めたままの眼差しの中に、微かに陰りが混じる。
「……あんた、前に言ってたよな。“叱られても、残るものがあるなら受け止めたい”って」
「はい」
静かにうなずく智子。指の動きは止まらず、繊細な刺し縫いが進められている。
「正直……私、叱るの怖ぇんだよ」
ぽつりと、薫が漏らした。
「器ちっせぇなって思われるし、相手が泣いたら落ち込むし、でも妥協したら全部台無しになんだよ、こっちも。だからさ……言い訳しねぇで叫ぶしかなくてさ……」
その言葉は、怒りではなく、嘆きでもなく。まるで誰にも聞かれたくなかった胸の奥の声のように、そっと漏れた。
智子は一瞬、手を止めて、微笑んだ。
「でも、薫さんの叱りって、“背中を押されてる”気がするんです」
「……マジ?」
「はい。薫さんの声には、まっすぐなものがあるから。私は、それに応えたいと思います」
照れたように鼻を鳴らす薫。だがその目は、ふっと緩んでいた。
次の瞬間、彼女は仕立て台の上に置かれた赤と金の布を指差した。
「なあ智子……これ、間に合うと思うか?」
「今夜を越えれば、明日には仕上がります」
「やってみせろ」
「はい!」
二人の目が合った。そこに、上下も主従もなかった。ただ、同じ頂きを見据える者同士の、静かで熱い誓いが宿っていた。
そして夜が明けた。
空の端が白み始める頃、織間に満ちていた灯りの色もわずかに淡くなる。灯火の代わりに差し込む朝の気配は、汗と疲れと共に衣の完成を告げた。
仕立て台の上に広げられたそれは、赤と金の十二単。
濃紅の地には極細の絹糸が緻密に織り込まれ、金糸の刺繍が陽を受けてかすかに煌めいた。襲(かさね)の配色は華美に過ぎず、かといって地味でもない。舞踏会の宵、仮面を纏った“仮初の姫”が放つべき存在感を、見事に映し出していた。
この衣には、数人の努力が重なっていた。
糸は未奈が改良した糸車で巻かれたもの。織地には智子の技が生かされ、帯には彼女自身の機織りによる光沢のある仕上げが施された。すべてが、ただの装飾ではなかった。敵を欺き、仲間を守るための“鎧”だった。
薫は、仕上げの一針を入れたあと、しばしそれを見つめていた。
徹夜の疲れが眉間に刻まれ、瞼は重く、肩は小さく震えていた。だが、その目だけは、確かに満足していた。
「これなら、あの場に立てる。……お前なら、見せられる」
その言葉には、怒鳴ることも皮肉もなかった。
ただ、静かに、真っ直ぐに、智子へと向けられた“信頼”が込められていた。
智子もまた、深く息を吸い、丁寧に一礼した。
「ありがとうございます。必ず、届けます」
そう言って、彼女は完成した衣をそっと抱き上げた。その手は、疲れていても震えていなかった。胸の奥にあるものが、確かにそれを支えていたから。
夏の祭の朝が、ゆっくりと始まろうとしていた。
そして、その舞台に立つ“仮初の姫”を飾る衣が、今この瞬間、仕立てられていた。
場所は屋敷の一角、風の通らぬ座敷の仕立て間。灯火は熾火のように小さく、照らすは裁ちばさみの鈍い光。夜も更け、既に四更を過ぎた頃。だが、その座敷にはなお針音が止まぬ。
「ほら、そこ違ぇ! 綴じ糸の角度が一分傾いてる! 織姫かぶれの素人仕事じゃ通らねぇぞ!」
怒声が響いた。振り返る間もなく、智子の手が慌ただしく動く。額には汗、指先は針で赤く染まっている。それでも止めることはできなかった。
「はい、すみませんっ!」
その返事は気迫に満ちていたが、声には疲労がにじんでいた。
窓の外では時折、涼しい風が吹き込むが、仕立て間にあるのは熱と緊張ばかり。吊るされた風鈴がひとつ、ちりんと鳴った。けれど、そのかすかな音が心を癒すことはなかった。むしろ、それが夜の深さを知らせる鐘のように響く。
時計もなく、眠る間もなく、ただ針を運び、布を整える――それが今夜のすべてだった。
「なぁ、智子」
不意に、薫が針を止めた。糸巻きの上で指が止まり、じっと布を見つめたまま、ぽつりと口を開く。
「お前さ、“姫様”やってる時、怖くねぇの?」
「怖いです」
智子は即答した。その答えには、何の躊躇いもなかった。
「でも、それ以上に……“裏切りたくない”人たちが、増えました」
返す言葉に嘘はなかった。誰かの思い、誰かの努力。それを無にするような振る舞いだけはしたくなかった。
薫がちらと視線を横に送る。張り詰めたままの眼差しの中に、微かに陰りが混じる。
「……あんた、前に言ってたよな。“叱られても、残るものがあるなら受け止めたい”って」
「はい」
静かにうなずく智子。指の動きは止まらず、繊細な刺し縫いが進められている。
「正直……私、叱るの怖ぇんだよ」
ぽつりと、薫が漏らした。
「器ちっせぇなって思われるし、相手が泣いたら落ち込むし、でも妥協したら全部台無しになんだよ、こっちも。だからさ……言い訳しねぇで叫ぶしかなくてさ……」
その言葉は、怒りではなく、嘆きでもなく。まるで誰にも聞かれたくなかった胸の奥の声のように、そっと漏れた。
智子は一瞬、手を止めて、微笑んだ。
「でも、薫さんの叱りって、“背中を押されてる”気がするんです」
「……マジ?」
「はい。薫さんの声には、まっすぐなものがあるから。私は、それに応えたいと思います」
照れたように鼻を鳴らす薫。だがその目は、ふっと緩んでいた。
次の瞬間、彼女は仕立て台の上に置かれた赤と金の布を指差した。
「なあ智子……これ、間に合うと思うか?」
「今夜を越えれば、明日には仕上がります」
「やってみせろ」
「はい!」
二人の目が合った。そこに、上下も主従もなかった。ただ、同じ頂きを見据える者同士の、静かで熱い誓いが宿っていた。
そして夜が明けた。
空の端が白み始める頃、織間に満ちていた灯りの色もわずかに淡くなる。灯火の代わりに差し込む朝の気配は、汗と疲れと共に衣の完成を告げた。
仕立て台の上に広げられたそれは、赤と金の十二単。
濃紅の地には極細の絹糸が緻密に織り込まれ、金糸の刺繍が陽を受けてかすかに煌めいた。襲(かさね)の配色は華美に過ぎず、かといって地味でもない。舞踏会の宵、仮面を纏った“仮初の姫”が放つべき存在感を、見事に映し出していた。
この衣には、数人の努力が重なっていた。
糸は未奈が改良した糸車で巻かれたもの。織地には智子の技が生かされ、帯には彼女自身の機織りによる光沢のある仕上げが施された。すべてが、ただの装飾ではなかった。敵を欺き、仲間を守るための“鎧”だった。
薫は、仕上げの一針を入れたあと、しばしそれを見つめていた。
徹夜の疲れが眉間に刻まれ、瞼は重く、肩は小さく震えていた。だが、その目だけは、確かに満足していた。
「これなら、あの場に立てる。……お前なら、見せられる」
その言葉には、怒鳴ることも皮肉もなかった。
ただ、静かに、真っ直ぐに、智子へと向けられた“信頼”が込められていた。
智子もまた、深く息を吸い、丁寧に一礼した。
「ありがとうございます。必ず、届けます」
そう言って、彼女は完成した衣をそっと抱き上げた。その手は、疲れていても震えていなかった。胸の奥にあるものが、確かにそれを支えていたから。
夏の祭の朝が、ゆっくりと始まろうとしていた。



