夏を目前に控えた、重たく湿った空気が桜洛の街を覆っていた。午後の陽射しは薄雲に遮られながらもじわりと熱を運び、石畳は濡れたように照り返していた。
町の南端、かつて智子が身を寄せていた長屋――その一角に、ぽつりと小さな人だかりができていた。
「――あれ……あの娘じゃないか?」「ほら、あの、織り屋の……ずいぶん前に出ていった、あの……」
ささやき声が風に混じって届いてくる。子どもたちが様子をうかがうように塀の隙間から覗き込み、大人たちは遠巻きに目を細めていた。
智子はひとり、荷も持たずにその場に立っていた。肩には何も背負っておらず、両の手も空だった。ただ、その姿勢は崩れず、背筋だけが真っ直ぐに伸びていた。
目の前にあるのは、くすんだ木の戸。板が反って歪み、錠もかつてのまま錆びついている。彼女がかつて暮らしていた長屋の一角。織機と共にあった日々、辛酸を舐めた部屋。追い出された時の土の匂い、破かれた反物の裂け目――すべてが、身体のどこかに焼き付いていた。
(……なぜ、私はここへ戻ってきたのだろう)
自問は静かに胸の奥に沈んでいく。答えは出なかった。ただ、ある言葉だけが心の内に残っていた。
“私は、今、誠実でありたい”
それがすべてだった。
智子はそっと戸の前に進み、右手を上げた。拳を軽く握り、戸板を叩く。小さく、だが確かに響く音。その音が、幾重にも重なって過去の時間を呼び起こす。
しばらくの間、応答はなかった。内側からの気配もない。だが、やがてぎい、と戸がゆっくりと開いた。
現れたのは、年月を経てさらに皺の刻まれた顔。彼女の義母だった。
「……あんた、まさか……」
声には驚きと警戒、そして戸惑いが混じっていた。目が見開かれ、じっと智子の姿を見つめている。
智子は視線を外さず、懐から小さな布包みを取り出した。藍色の布に丁寧に包まれ、糸で結ばれたそれは、どこか神饌のように静謐な気配を帯びていた。
「これは……ここまで織らせていただいた布の利益です。半分は、ここに置かせてください」
その声は、決して強くはなかった。けれど、揺らぎもなく、まっすぐだった。
義母の目が、布包みと智子の顔を何度も往復する。
「……は?」
唖然としたような声。まるで、聞き慣れない言語を聞いたかのような反応だった。
智子は少しだけ顔を伏せ、呼吸を整え、もう一度口を開いた。
「私を育ててくれた年月があったのは、事実です。理不尽だった日もありました。でも、それでも、私はそれを“自分の道の一部”として受け止めます」
義母の指先が、戸口にかけられていた木柱を無意識に掴む。その手が、かすかに震えていた。
智子が差し出した布包みを、義母は躊躇いながらも受け取った。重みを確かめるように手の中で揺らし、しばし無言のまま包みを見下ろしていた。
「……嘘だろ。こんな、立派な……帯地まで仕立てて……」
掠れた声が戸口から漏れた。かつて見下していた“機織りの娘”が、いまやひとつの成果を手にして目の前に立っている。その事実が、義母の理解を追い越していた。
智子は、小さく息を吸って言葉を重ねる。
「私は、まだ何者でもありません。でも、自分の手で織ったものが、誰かに届くようになった。それだけは、誇れます」
言葉に力はなかった。けれど、そこに籠められた“想い”は、確かに相手に届くだけの熱を帯びていた。
義母の肩がわずかに揺れる。
「お前……何しに来たんだ。今さら、恨み言を言いにきたのか?」
その問いには、わずかに震える感情がにじんでいた。強く出ようとする意思と、動揺を隠しきれない弱さが、せめぎ合っていた。
智子はゆっくりと首を振った。
「私は、“恨み”を織って生きたくない。だから今日、ここで区切りをつけに来ました」
そして、静かに、深く頭を下げた。言葉にできない想いを、身体ごと地に沈めて表すように。
義母は何も言わなかった。ただ、戸の影に隠れたまま、そっと手を伸ばし、包みを引き寄せた。
その仕草には戸惑いと、わずかな諦念、そして――微かな感謝の色が混じっていた。
「……あんた、強くなったねぇ」
その一言は、褒め言葉ではなかったかもしれない。だが、責め言葉でもなかった。ただ、素直にこぼれ落ちた言葉だった。
智子は何も返さず、ゆっくりとその場を離れた。
小さな長屋の前を、石畳の上を、足取りはためらわなかった。けれど、胸の奥には確かに“ひとつの章が終わった”という実感があった。
(私は、まだまだ小さい。でも……誰かの“闇”に光を灯せる手でありたい)
そう思いながら、遠く、拓巳の屋敷のある方角へ歩を進める。
その背は伸びていた。胸を張るわけでもなく、誇示するようでもなく、ただ真っ直ぐに。己の意志だけが、それを支えていた。
――その時だった。
ふっと、背後で戸の音がした。ぎい、と小さな音が、雨上がりの空気に響く。
智子は、振り返らなかった。もう、振り返る必要はなかった。
けれど、その目には、ほんのりと光が宿っていた。
町の南端、かつて智子が身を寄せていた長屋――その一角に、ぽつりと小さな人だかりができていた。
「――あれ……あの娘じゃないか?」「ほら、あの、織り屋の……ずいぶん前に出ていった、あの……」
ささやき声が風に混じって届いてくる。子どもたちが様子をうかがうように塀の隙間から覗き込み、大人たちは遠巻きに目を細めていた。
智子はひとり、荷も持たずにその場に立っていた。肩には何も背負っておらず、両の手も空だった。ただ、その姿勢は崩れず、背筋だけが真っ直ぐに伸びていた。
目の前にあるのは、くすんだ木の戸。板が反って歪み、錠もかつてのまま錆びついている。彼女がかつて暮らしていた長屋の一角。織機と共にあった日々、辛酸を舐めた部屋。追い出された時の土の匂い、破かれた反物の裂け目――すべてが、身体のどこかに焼き付いていた。
(……なぜ、私はここへ戻ってきたのだろう)
自問は静かに胸の奥に沈んでいく。答えは出なかった。ただ、ある言葉だけが心の内に残っていた。
“私は、今、誠実でありたい”
それがすべてだった。
智子はそっと戸の前に進み、右手を上げた。拳を軽く握り、戸板を叩く。小さく、だが確かに響く音。その音が、幾重にも重なって過去の時間を呼び起こす。
しばらくの間、応答はなかった。内側からの気配もない。だが、やがてぎい、と戸がゆっくりと開いた。
現れたのは、年月を経てさらに皺の刻まれた顔。彼女の義母だった。
「……あんた、まさか……」
声には驚きと警戒、そして戸惑いが混じっていた。目が見開かれ、じっと智子の姿を見つめている。
智子は視線を外さず、懐から小さな布包みを取り出した。藍色の布に丁寧に包まれ、糸で結ばれたそれは、どこか神饌のように静謐な気配を帯びていた。
「これは……ここまで織らせていただいた布の利益です。半分は、ここに置かせてください」
その声は、決して強くはなかった。けれど、揺らぎもなく、まっすぐだった。
義母の目が、布包みと智子の顔を何度も往復する。
「……は?」
唖然としたような声。まるで、聞き慣れない言語を聞いたかのような反応だった。
智子は少しだけ顔を伏せ、呼吸を整え、もう一度口を開いた。
「私を育ててくれた年月があったのは、事実です。理不尽だった日もありました。でも、それでも、私はそれを“自分の道の一部”として受け止めます」
義母の指先が、戸口にかけられていた木柱を無意識に掴む。その手が、かすかに震えていた。
智子が差し出した布包みを、義母は躊躇いながらも受け取った。重みを確かめるように手の中で揺らし、しばし無言のまま包みを見下ろしていた。
「……嘘だろ。こんな、立派な……帯地まで仕立てて……」
掠れた声が戸口から漏れた。かつて見下していた“機織りの娘”が、いまやひとつの成果を手にして目の前に立っている。その事実が、義母の理解を追い越していた。
智子は、小さく息を吸って言葉を重ねる。
「私は、まだ何者でもありません。でも、自分の手で織ったものが、誰かに届くようになった。それだけは、誇れます」
言葉に力はなかった。けれど、そこに籠められた“想い”は、確かに相手に届くだけの熱を帯びていた。
義母の肩がわずかに揺れる。
「お前……何しに来たんだ。今さら、恨み言を言いにきたのか?」
その問いには、わずかに震える感情がにじんでいた。強く出ようとする意思と、動揺を隠しきれない弱さが、せめぎ合っていた。
智子はゆっくりと首を振った。
「私は、“恨み”を織って生きたくない。だから今日、ここで区切りをつけに来ました」
そして、静かに、深く頭を下げた。言葉にできない想いを、身体ごと地に沈めて表すように。
義母は何も言わなかった。ただ、戸の影に隠れたまま、そっと手を伸ばし、包みを引き寄せた。
その仕草には戸惑いと、わずかな諦念、そして――微かな感謝の色が混じっていた。
「……あんた、強くなったねぇ」
その一言は、褒め言葉ではなかったかもしれない。だが、責め言葉でもなかった。ただ、素直にこぼれ落ちた言葉だった。
智子は何も返さず、ゆっくりとその場を離れた。
小さな長屋の前を、石畳の上を、足取りはためらわなかった。けれど、胸の奥には確かに“ひとつの章が終わった”という実感があった。
(私は、まだまだ小さい。でも……誰かの“闇”に光を灯せる手でありたい)
そう思いながら、遠く、拓巳の屋敷のある方角へ歩を進める。
その背は伸びていた。胸を張るわけでもなく、誇示するようでもなく、ただ真っ直ぐに。己の意志だけが、それを支えていた。
――その時だった。
ふっと、背後で戸の音がした。ぎい、と小さな音が、雨上がりの空気に響く。
智子は、振り返らなかった。もう、振り返る必要はなかった。
けれど、その目には、ほんのりと光が宿っていた。



