夜明け前の桜洛。まだ空が紫色の薄明に沈んでいる時刻、王都の外れにある屋敷の一室にて、男は静かに帳面をめくっていた。
黒い烏のような羽織を纏い、仄暗い灯火のもと、目を細める男の名は――拓巳。
彼はこの国の表舞台には出ない存在だ。だが幕府の高官ですら、彼の名前を聞けば背筋を伸ばす。民の間では〈黒狐〉の異名でささやかれる謀略家。その男が、今、指先に止まったように視線を落としていたのは、一枚の布切れだった。
緋色の反物の端。それは、昨夜、自分を救った女の持ち物。
「……あれを織ったのが、あの女か」
拓巳は囁くように言った。
帳面の裏から姿を現したのは、長身痩躯の青年――密偵の凌だった。無言でひざまずくと、拓巳は顔を上げずに告げた。
「調べろ。名は智子。貧民街の織師らしい」
「は」
「どうやら、面白い才を隠している」
拓巳は思案げに顎をさすりながら、独り言のように続ける。
「あの緋の艶。織りの精度。もしあれを、女一人で仕上げたとすれば……」
声が低くなる。まるで自分の脳内にある盤面に、新たな駒が加わったことを確かめているようだった。
「宮中を欺ける」
凌が小さく眉を動かした。
「つまり――」
「そうだ。仮初の姫を仕立てる。機織り娘を装うには、素材としては上出来すぎる」
拓巳はようやく帳面を閉じ、立ち上がった。
「摂政家に食い込むには、従来の手では足りん。だが……“彼女”を使えば、まだ知らぬ角度から、奴らの腹を割ることができる」
「それほどまでに、価値が?」
拓巳はふっと笑う。だがその笑みは冷たい。まるで、この世すべてが自分の駒であるかのような――冷静で、傲然たる策士の顔。
「価値は、俺が決める」
短く、鋭く。拓巳の声は氷を走らせる。
「ただし――あの女が、自らの価値を裏切らぬ限りにおいて、だ」
凌は黙して頭を垂れた。どんな判断であれ、主の命には従う。それが彼の生き方だ。
拓巳は反物をそっと袖にしまい、背を向けた。
「今度こそ、役に立ってもらうぞ――“光の織り手”」
その瞳の奥には、夜よりも深い闇があった。
闇の奥で、狐が笑うような気がした。
「価値は、俺が決める」
その言葉は、室内に満ちた空気すら切り裂いた。拓巳の声音には一片の迷いもなかった。人の可能性を見抜く鋭さ、そしてそれをどう使うかを即断する冷静さ――その両方が、彼を〈黒狐〉たらしめていた。
しばしの沈黙ののち、拓巳は静かに付け加えた。
「ただし――あの女が、自らの価値を裏切らぬ限りにおいて、だ」
一拍置かれたその言葉には、冷たい期待と、非情な見切りの両方が込められていた。誰もが使えるわけではない。役に立たぬ駒は、迷わず捨てる。それが拓巳の流儀だった。
凌は黙したまま、深く頭を垂れた。彼にとって、主の命はすべてだった。感情や私情は持ち込まない。ただ従い、ただ遂行する。感情を殺して生きることに、迷いはない。それが、影に生きる者の宿命だ。
拓巳は反物をそっと手に取り、まるで繊細な宝物のように袖の内へ滑り込ませた。指先は一瞬だけその艶を惜しむように触れ、そして何もなかったように背を向けた。
「今度こそ、役に立ってもらうぞ――“光の織り手”」
その呟きは、ささやきではあったが、深く、遠くまで響く力を秘めていた。まるでその名を宿命へ刻みつけるかのように。
彼の瞳の奥には、夜よりも深い闇があった。静謐で、濁りのないその闇は、どこまでも冷たく、だが燃えるように執念を孕んでいた。人を欺き、利用し、裏切り、時に救い、時に破滅へ導く――その全てを含み込んだ深淵。
ふと、静まり返った部屋の中で、風が襖を揺らした。
まるでその闇の中で、一匹の狐がくすりと笑ったように思えた。
黒い烏のような羽織を纏い、仄暗い灯火のもと、目を細める男の名は――拓巳。
彼はこの国の表舞台には出ない存在だ。だが幕府の高官ですら、彼の名前を聞けば背筋を伸ばす。民の間では〈黒狐〉の異名でささやかれる謀略家。その男が、今、指先に止まったように視線を落としていたのは、一枚の布切れだった。
緋色の反物の端。それは、昨夜、自分を救った女の持ち物。
「……あれを織ったのが、あの女か」
拓巳は囁くように言った。
帳面の裏から姿を現したのは、長身痩躯の青年――密偵の凌だった。無言でひざまずくと、拓巳は顔を上げずに告げた。
「調べろ。名は智子。貧民街の織師らしい」
「は」
「どうやら、面白い才を隠している」
拓巳は思案げに顎をさすりながら、独り言のように続ける。
「あの緋の艶。織りの精度。もしあれを、女一人で仕上げたとすれば……」
声が低くなる。まるで自分の脳内にある盤面に、新たな駒が加わったことを確かめているようだった。
「宮中を欺ける」
凌が小さく眉を動かした。
「つまり――」
「そうだ。仮初の姫を仕立てる。機織り娘を装うには、素材としては上出来すぎる」
拓巳はようやく帳面を閉じ、立ち上がった。
「摂政家に食い込むには、従来の手では足りん。だが……“彼女”を使えば、まだ知らぬ角度から、奴らの腹を割ることができる」
「それほどまでに、価値が?」
拓巳はふっと笑う。だがその笑みは冷たい。まるで、この世すべてが自分の駒であるかのような――冷静で、傲然たる策士の顔。
「価値は、俺が決める」
短く、鋭く。拓巳の声は氷を走らせる。
「ただし――あの女が、自らの価値を裏切らぬ限りにおいて、だ」
凌は黙して頭を垂れた。どんな判断であれ、主の命には従う。それが彼の生き方だ。
拓巳は反物をそっと袖にしまい、背を向けた。
「今度こそ、役に立ってもらうぞ――“光の織り手”」
その瞳の奥には、夜よりも深い闇があった。
闇の奥で、狐が笑うような気がした。
「価値は、俺が決める」
その言葉は、室内に満ちた空気すら切り裂いた。拓巳の声音には一片の迷いもなかった。人の可能性を見抜く鋭さ、そしてそれをどう使うかを即断する冷静さ――その両方が、彼を〈黒狐〉たらしめていた。
しばしの沈黙ののち、拓巳は静かに付け加えた。
「ただし――あの女が、自らの価値を裏切らぬ限りにおいて、だ」
一拍置かれたその言葉には、冷たい期待と、非情な見切りの両方が込められていた。誰もが使えるわけではない。役に立たぬ駒は、迷わず捨てる。それが拓巳の流儀だった。
凌は黙したまま、深く頭を垂れた。彼にとって、主の命はすべてだった。感情や私情は持ち込まない。ただ従い、ただ遂行する。感情を殺して生きることに、迷いはない。それが、影に生きる者の宿命だ。
拓巳は反物をそっと手に取り、まるで繊細な宝物のように袖の内へ滑り込ませた。指先は一瞬だけその艶を惜しむように触れ、そして何もなかったように背を向けた。
「今度こそ、役に立ってもらうぞ――“光の織り手”」
その呟きは、ささやきではあったが、深く、遠くまで響く力を秘めていた。まるでその名を宿命へ刻みつけるかのように。
彼の瞳の奥には、夜よりも深い闇があった。静謐で、濁りのないその闇は、どこまでも冷たく、だが燃えるように執念を孕んでいた。人を欺き、利用し、裏切り、時に救い、時に破滅へ導く――その全てを含み込んだ深淵。
ふと、静まり返った部屋の中で、風が襖を揺らした。
まるでその闇の中で、一匹の狐がくすりと笑ったように思えた。



