桜洛の城下から北へ離れた小路に、ひっそりと佇む酒肆「鳳来」。歴史を重ねた漆塗りの看板と、軒先に吊るされた古い杉玉が、かすかに夜風に揺れていた。雨が上がったばかりの石畳には、灯籠の明かりが反射し、まるで星屑のように煌めいている。

 その奥、薄明かりの届く個室にて、ふたりの男が向かい合っていた。

 ひとりは、黒羽織の裾を静かに整えて座る男――拓巳。その姿には一切の隙がなかった。目を伏せたままでも、張り詰めた空気の中心にいることがわかる。背筋はまっすぐに伸び、呼吸ひとつ乱れていない。

 もう一人は、摂政家の家老・中御門弾正。歳を重ねた身に羽織るは上質な絹だが、どこか油断のならぬ狐めいた眼差しを持つ男だった。長年の政において、言葉と沈黙の力を知り尽くした者の貫禄がそこにはあった。

「まさか、あの“黒狐”殿が、私などに酒席を持ちかけてこられるとはな」

 笑いながら盃を傾ける弾正。しかしその目は、微塵も笑っていなかった。笑みの皮をかぶった探針のような視線が、拓巳の一挙手一投足を伺っていた。

「互いに腹を割るには、肴よりも先に毒味が要りますからな」

 拓巳の声は柔らかく、しかし芯があった。手に取った杯の中の酒は、苦味が強いもので、喉に熱く流れ落ちる。

「……今夜は、建前抜きで語りましょう」

 そう告げた拓巳は、目を伏せたまま、盃を机に置いた。その指先すら、揺れがない。まるで自身がここに来ることを、ずっと前から決めていたかのように。

 弾正も盃を置き、口角だけをわずかに引き上げた。

「では私も遠慮なく申し上げる。貴殿の動き――どうにも“表向きの秩序”を乱しておられるようだ」

「秩序とは、誰にとってのものか。それが問題です」

 拓巳はゆっくりと視線を上げ、真正面から弾正を見つめた。その目に宿る光は冷たく、しかし底知れぬ深さを感じさせる。

「貴殿が仕えているのは誰だ? “民”か、“私”か。それとも、己か?」

 弾正の問いには、一切の容赦がなかった。長年の政務で培った詰問の言葉。それでも、拓巳の表情には微塵の動揺もなかった。

「答えはすべてに“否”です」

 拓巳の声は、低く静かに響く。

「私は、まだ見ぬ“かたち”に仕えている」

 その言葉に、弾正の目元の皺がゆるみ、笑みが消えた。

 無形のものに仕える――その宣言は、常人の理解を超える狂気にも映る。だが弾正は理解した。拓巳という男が、ただの策士や風見鶏ではないことを。

「……なるほど。やはり危険だな、あなたは」

「危険を恐れて遠回りするほど、我々に残された時間は長くありませんよ」

 弾正の手が、わずかに懐へと動いた。その動きに、拓巳はわずかに目を細めた。脅しではない。手の内を読んだだけのことだ。

「その手を使うなら、今が最後です」

 まるで死地での一言のように、静かに突きつけられた言葉。

「……これは脅しか?」

「選択肢の提示です」

 そして、拓巳は袖の内から一枚の巻物を取り出した。先日の仮面茶会で手に入れた、摂政家が裏で商家や諸侯と結んでいた婚姻密約と金銭授受の証拠。

 封はすでに解かれ、文面が露わとなっている。

 弾正の目が、それを認めた瞬間、わずかに見開かれた。長年、顔色ひとつ変えず政を渡ってきたこの男が、無意識に手元の盃を掴む。

「……これは、どこで手に入れた」

「“闇”の中に、“光”が差しただけです」

「……なるほど。あの娘か」

 弾正の言葉には、ほのかに侮蔑が混じっていた。だが、それに反応したのは拓巳ではなかった。部屋の空気そのものがわずかに張り詰めたのだ。

「彼女を“光”と見るか、“道具”と見るかは、あなたの心の鏡です」

 拓巳は立ち上がった。椅子の軋む音すらないほど静かに。腰を伸ばしたその姿は、やや逆光になり、顔が見えなくなる。

 そのまま、低く言葉を続けた。

「あなた方が選んだ秩序が、すでに腐り始めている。だから私は、次を“織る”。悪役でも構わない。誰かが“新しい裂”を織らねば、国はほどけてしまう」

 弾正は、机の下で静かに指を震わせていた。怒りか、恐怖か、それとも感嘆か。そのいずれとも言えないまま、彼は盃を手に取り、ゆっくりと持ち上げ――そして、畳の上で砕いた。

 それは敗北の証でも、敵意の表明でもない。

 ただ、自らが“引く”という意志を、言葉でなく示したということだった。

 割られた盃の破片が、酒に濡れて仄かに光った。室内は沈黙に包まれたまま、時間だけが静かに流れていく。

 弾正は、その破片をじっと見つめながら言った。

「……まこと、恐ろしい男だ。狐面など、飾りに過ぎぬ」

 その声音には、自嘲と敬意、そしてほんのわずかな敗北の苦味が滲んでいた。

 拓巳は振り返らず、しかし一言だけ返した。

「飾りではありません。私の顔は、もはや“素顔”でさえ仮面です」

 低い声が、まるで壁に染み込むように空間を満たす。蝋燭の灯がわずかに揺らぎ、その陰影が彼の背に映し出された。

 その背中は、夜を背負いながらも真っ直ぐだった。

 言葉は重く、だが無駄はなかった。それは、彼が闇を知るがゆえに“光”を信じる証であり、“悪”を自ら引き受ける覚悟そのものだった。

 弾正は目を細め、懐から新しい盃を取り出し、自ら酒を注いだ。

 その仕草は、決して敵意に満ちたものではない。むしろ、何かを終えた者の、静かな礼儀のようだった。

 拓巳は襖を開け、夜の空気を背に受けた。外の石畳にはまだ、微かに雨の残り香が漂っていた。

 その空気を一度深く吸い込んで、彼は歩き出す。

 足取りは迷いなく、ただまっすぐに「闇の先」へと。

 仮面はまだ、彼の顔にない。しかし――その表情は、誰よりも“仮面”に似ていた。

 鳳来の個室には、もうひとつの静けさが残されていた。

 それは、二人の策士が言葉と意志を交わした、ひとつの“分岐点”。

 やがてその夜の静寂は、政変前夜のざわめきの中へと、音もなく溶けていった。