屋敷の織間では、夜の帳が下りてなお、わずかに残る灯のもとで糸車の音が止んでいた。
障子の向こうからは、静かな風の通る音すら聞こえぬ。どこか息を潜めたような空間の中、低く響いたのは、苦悶にも似た怒声だった。
「……なんで、こうなるんだよ……!」
その叫びと同時に、藍染の反物が無造作に、いや、怒りに任せて床へ投げつけられる。布の端が畳を滑り、重く沈むように音を立てた。
それを織っていたのは、薫だった。拓巳の屋敷に仕えて以来、“叱咤の化身”のように豪胆に振る舞ってきた女が、今は珍しく自分の織りに苛立ち、部屋中に怒気を漂わせていた。
巻きつけた筬(おさ)がわずかに狂い、柄が一筋、斜めにずれている。
わずか数厘、たった一筋の歪み。けれど、それが織物全体の構図を壊し、公の場での使用を許されない“欠陥”となるのは、職人ならば誰よりも理解していた。
「こんなんじゃ、出せねぇ。どうすりゃいいんだよ……っ」
その声には、悔しさと焦燥、そして誇りを傷つけられた苦しみが滲んでいた。
これまで誰にも見せたことのない表情だった。叱る側として、誰かに見せるべきではないと、自分でも思い込んでいたのだ。
そんな薫の様子を、部屋の隅からじっと見ていた者がいた。
真之介。控えめながらも信頼を集める男で、今夜も静かにそこにいた。
「……仕上げまで、あとどれくらい?」
その問いに、薫は肩越しに睨みつけた。
「あと四尺。だけど……直しても、時間が足りねぇ……っ!」
声が少し震えていた。だが、怒りに震えるのではない。もう少しで完成するはずだった。あと一歩のところでの失敗。それが、誰よりも己を責めていた。
「では、俺が代織の段取りをつけます。あなたは、最も集中できる時間帯に合わせて、修正に入ってください」
真之介の声は、変わらず穏やかだった。けれど、その言葉は確かな計画を含んでいた。
「は? あんた、何言って――」
「夜の三つ時でしょう。あの時間帯なら、屋敷も完全に静まり、誰にも邪魔されない」
唐突に言われた時間帯に、薫の動きが止まった。
それは、彼女が密かに“自分だけの時間”として織りに没頭していた時間だった。誰にも言っていない。まして、真之介に知られていたとは思わなかった。
「……知ってたのかよ」
振り返った薫の声は、わずかに気まずそうにかすれた。
「叱っている時、あなたは目に力がある。でも、夜に黙って織っていた時は――もっと深く、鋭い集中をしていた」
真之介の声は、まっすぐだった。
その語り口からは、彼がただ見ていたのではなく、ずっと“薫という人間”を観察し、理解しようとしてきたことが伝わる。
「俺も、失敗はあります。叱られたことも、何度もある。でも、叱られた分だけ、人は育ちます。あなたに叱られた智子も、未奈も、俺も――皆、少しずつでも前に進めています」
その言葉は、まるで炎を鎮める水のようだった。
だが、薫は唇を噛んだまま、ややそっぽを向いた。
「……誰も、叱られたい奴なんていねぇよ」
「それでも、あなたの言葉で火が点くなら、それはあなたの誇りになると思います」
またひとつ、言葉が胸に突き刺さる。
薫は拳を握った。指先が白くなるまで力を込め、それでも震えは止まらなかった。
「私だって……叱られりゃ、悔しいんだよ……」
低くつぶやいたその声は、誰に向けられたものでもなかった。自分の中の、弱さに向けての告白だった。
「誰も見てねぇと思っててもさ、ちゃんと見てくれてんだな……」
真之介は一歩だけ近づいた。けれど、それ以上は近づかない。距離の取り方もまた、彼の優しさだった。
そして、穏やかに笑った。
「見ていますよ。あなたが火を灯してくれたから、俺たちが歩けてるんです」
その言葉が、薫の張り詰めた感情の糸を、ふっと緩ませた。
「……あんた、ほんっとお節介だな」
苦笑混じりの声に、真之介は小さくうなずいた。
「よく言われます」
薫はため息を吐きながら、畳の上に落ちた反物を拾い上げた。手のひらで織目をなぞると、さっきまでの乱れた指使いが嘘のように、穏やかな所作に戻っていた。
「でもまあ……ありがとよ」
照れくさそうに吐き捨てるように言うその言葉は、本心だった。
彼女の手に戻った反物には、再び真っ直ぐな線が通り始めていた。
その織り目は――誰かに見られていたという、たしかな“証”を織り込むように、揺るぎなく整っていた。
障子の向こうからは、静かな風の通る音すら聞こえぬ。どこか息を潜めたような空間の中、低く響いたのは、苦悶にも似た怒声だった。
「……なんで、こうなるんだよ……!」
その叫びと同時に、藍染の反物が無造作に、いや、怒りに任せて床へ投げつけられる。布の端が畳を滑り、重く沈むように音を立てた。
それを織っていたのは、薫だった。拓巳の屋敷に仕えて以来、“叱咤の化身”のように豪胆に振る舞ってきた女が、今は珍しく自分の織りに苛立ち、部屋中に怒気を漂わせていた。
巻きつけた筬(おさ)がわずかに狂い、柄が一筋、斜めにずれている。
わずか数厘、たった一筋の歪み。けれど、それが織物全体の構図を壊し、公の場での使用を許されない“欠陥”となるのは、職人ならば誰よりも理解していた。
「こんなんじゃ、出せねぇ。どうすりゃいいんだよ……っ」
その声には、悔しさと焦燥、そして誇りを傷つけられた苦しみが滲んでいた。
これまで誰にも見せたことのない表情だった。叱る側として、誰かに見せるべきではないと、自分でも思い込んでいたのだ。
そんな薫の様子を、部屋の隅からじっと見ていた者がいた。
真之介。控えめながらも信頼を集める男で、今夜も静かにそこにいた。
「……仕上げまで、あとどれくらい?」
その問いに、薫は肩越しに睨みつけた。
「あと四尺。だけど……直しても、時間が足りねぇ……っ!」
声が少し震えていた。だが、怒りに震えるのではない。もう少しで完成するはずだった。あと一歩のところでの失敗。それが、誰よりも己を責めていた。
「では、俺が代織の段取りをつけます。あなたは、最も集中できる時間帯に合わせて、修正に入ってください」
真之介の声は、変わらず穏やかだった。けれど、その言葉は確かな計画を含んでいた。
「は? あんた、何言って――」
「夜の三つ時でしょう。あの時間帯なら、屋敷も完全に静まり、誰にも邪魔されない」
唐突に言われた時間帯に、薫の動きが止まった。
それは、彼女が密かに“自分だけの時間”として織りに没頭していた時間だった。誰にも言っていない。まして、真之介に知られていたとは思わなかった。
「……知ってたのかよ」
振り返った薫の声は、わずかに気まずそうにかすれた。
「叱っている時、あなたは目に力がある。でも、夜に黙って織っていた時は――もっと深く、鋭い集中をしていた」
真之介の声は、まっすぐだった。
その語り口からは、彼がただ見ていたのではなく、ずっと“薫という人間”を観察し、理解しようとしてきたことが伝わる。
「俺も、失敗はあります。叱られたことも、何度もある。でも、叱られた分だけ、人は育ちます。あなたに叱られた智子も、未奈も、俺も――皆、少しずつでも前に進めています」
その言葉は、まるで炎を鎮める水のようだった。
だが、薫は唇を噛んだまま、ややそっぽを向いた。
「……誰も、叱られたい奴なんていねぇよ」
「それでも、あなたの言葉で火が点くなら、それはあなたの誇りになると思います」
またひとつ、言葉が胸に突き刺さる。
薫は拳を握った。指先が白くなるまで力を込め、それでも震えは止まらなかった。
「私だって……叱られりゃ、悔しいんだよ……」
低くつぶやいたその声は、誰に向けられたものでもなかった。自分の中の、弱さに向けての告白だった。
「誰も見てねぇと思っててもさ、ちゃんと見てくれてんだな……」
真之介は一歩だけ近づいた。けれど、それ以上は近づかない。距離の取り方もまた、彼の優しさだった。
そして、穏やかに笑った。
「見ていますよ。あなたが火を灯してくれたから、俺たちが歩けてるんです」
その言葉が、薫の張り詰めた感情の糸を、ふっと緩ませた。
「……あんた、ほんっとお節介だな」
苦笑混じりの声に、真之介は小さくうなずいた。
「よく言われます」
薫はため息を吐きながら、畳の上に落ちた反物を拾い上げた。手のひらで織目をなぞると、さっきまでの乱れた指使いが嘘のように、穏やかな所作に戻っていた。
「でもまあ……ありがとよ」
照れくさそうに吐き捨てるように言うその言葉は、本心だった。
彼女の手に戻った反物には、再び真っ直ぐな線が通り始めていた。
その織り目は――誰かに見られていたという、たしかな“証”を織り込むように、揺るぎなく整っていた。



