夜の屋敷は静まり返り、庭の木々すら風を止めたようだった。遠くで一羽の夜鳥が鳴き、すぐに黙る。広い屋敷の中で、蝋燭の灯だけがわずかに揺れていた。

 智子はその灯の中、織間の隅に小さく座っていた。畳の上には、織りかけの布がそっと膝に載せられている。淡い朱の緋糸が、月のない夜の灯りにぼんやりと浮かび上がっていた。

 だが、その手は動かない。糸を操る指は、布の端で止まり、彼女の意識は、机の上に置かれたひとつの巻物へと吸い寄せられていた。

 それは、数日前、智子が仮面の姫として潜入した茶会で密かに目にした――あの文箱に納められていた密書の写し。

 薄紙の巻物は、一見すればよくある宮中の報告書や貴族家の往復書状にも見える。だが、未奈が過去に作成した偽の密書と同じような封の構造が施されていた。緻密すぎる書き方、妙に整いすぎた文字列。まるで“読み解かれること”を前提にした罠のようだった。

 しかし、これは紛れもなく本物――拓巳が直接手に入れた、“敵の心臓部”そのものだった。

「……ここ、糸目が……逆……?」

 智子は、巻物の端に指先を添えた。紙の質感を読み取るように、ゆっくりと撫でる。その所作はまるで布の織り傷を探すような、静かで繊細なものだった。

 彼女の視線は文字ではなく、文字の“揃い方”に向けられていた。

 織物を織る者の目は、布の目の乱れを直感で捉える。縦糸と横糸が交差する微かなずれ。それは文章においても、同様だった。

 そのとき、背後の障子が音もなく開いた。

 足音もなく現れた影。それは、黒の羽織を羽織った拓巳だった。灯に照らされたその顔は、静かな夜の色を帯びていた。

「見抜いたか。早いな」

 その低い声に、智子は肩をわずかに動かしただけで答えた。驚きの色は見せない。けれど、その眼差しには、ある種の緊張があった。

「これ、普通の文ではありません。“鏡文字”と“左右交差の文型”……それに、紙の裏が微かに透けて見えます」

 彼女は紙を両手で裏返し、灯の角度を変えながら静かに紙の裏から透かして読もうとする。

「こうすれば……見えてきます。“秋の十夜、金砂の間にて、双印を揃う”」

 その言葉に、拓巳の表情が少しだけ変わった。ほんのわずか、目の奥に何かを見つけたような鋭さが走る。

「それで、どう解釈する」

 問いかけに対し、智子は少し息を詰めるようにして言葉を探した。何かに触れてしまったという予感が、胸の内をざわめかせていた。

「摂政家が、裏で商家と通じて……大名家との婚儀の裏口入学を――」

 言葉が途中で止まる。智子の視線が、紙の末尾へと吸い寄せられていた。

 そこに、小さな印があった。黒一色の狐の輪郭。鋭く描かれたひと筆の印――それはまさに、“黒狐”の異名を取る者の象徴だった。

「……これ、あなたの印ですか?」

 問いかけた声には、かすかな困惑が滲んでいた。だが、それ以上に“恐れ”があった。

 もしこれが、拓巳自身の意思によって残されたものだったのなら――彼が本当に、陰謀の中心に立っていたのなら――。

 だが、拓巳は目を伏せ、低く笑った。乾いた笑いではない。どこか、過去を悔いるような、重い響きだった。

「いや。俺の名を騙った“誰か”のものだ」

 その声に嘘はなかった。

 けれど、そこに含まれた事実は、もっと重かった。

「だが、この密書の価値は大きい。“誰が俺の名を使ったか”を突き止めることで、連中の腹の底に手を入れられる」

「……使われるんですね。名前を、そして――私を」

 智子の声は、静かだった。恨みや怒りはなく、ただ、確かめようとするような響きがあった。

 拓巳の手が、ふと止まった。

 静けさが数拍の間、部屋を満たす。

 そして、彼は正面からその事実を告げた。

「そうだ。俺は“使う”。目的のために、人も言葉も状況も。そうしてきたし、これからもそうする」

 淡々とした口調。その声に、ためらいはない。

 だが――その瞳の奥に宿った揺らぎは、智子の目にははっきりと見えた。

 彼が心のどこかで、答えを恐れていたこと。人を使うことの代償を、誰より知っていること。そして、それでも“使わねばならぬ”と覚悟してきたこと。

 智子はそっと巻物を閉じた。そして静かに立ち上がる。灯の明かりに照らされた横顔は、柔らかさの中に揺るぎのない意志を宿していた。

「なら、私は……自分の意思で、使われます」

 その言葉に、拓巳がわずかに目を見開く。

 だが、すぐに彼は悟ったように静かに瞼を閉じ、そして再び智子を見た。

「あなたの言葉に流されるんじゃない。私の“光”が、必要とされる場所で灯ることを、自分で選ぶんです」

 それは宣言だった。

 誰かに従うのでも、抵抗するのでもない。“誠実”でありたいと願う智子の、強い選択だった。

 しばし沈黙が続いた。

 拓巳はわずかに口元を緩めた。滅多に見せぬ、その微笑は――どこか、安堵に近いものだった。

「……ふしぎな女だ。だが、だからこそ」

 それ以上は言わず、彼は背を向けた。

 だが、その背中には、以前にはなかった“信頼”の色が、わずかに滲んでいた。

 そして智子の中にもまた、闇に踏み込みながらも“自分を見失わぬ覚悟”が、確かに、静かに、灯りはじめていた。