桜洛の城下町から北へしばらく歩いたところに、ひっそりと佇む一軒の古書屋があった。

 昼間は町の子らが物珍しげに表紙をめくり、大人たちがかつての軍記物に目を細める静かな店。だが今、その戸口は固く閉ざされ、通りを歩く者の誰一人として中に人がいるとは思わない。人通りも絶えた真夜中の裏通りに、ただ一つ――帳場の灯だけが、ほのかに揺れていた。

 その光のもとにいたのは、美鈴。

 薄藍の着物に小袖を重ね、襟元はきちんと整えられている。所作に隙はない。何も知らぬ者が見れば、夜な夜な帳面を整理する地味な書店主。だが、その実――彼女は拓巳に仕える密偵のひとりであり、摂政家の出納官という仮面を被りつつ、政の裏側を記録という形で握る者だった。

 今宵の任務は、摂政家側近の手帳の“複写”。

 それは、凌がわずか十数刻前、敵の注意を逸らした隙に“現物”を奪取し、美鈴の元へと送り届けたもの。持ち出しが許されない機密文書ゆえ、手元に置いておける時間はわずか一刻。

 美鈴は黙ったまま、用意していた特製の筆と極細の和紙を取り出し、帳場の灯の位置を何度も微調整する。火の芯を削り、反射板の角度を指先で探るように調整。影を極限まで薄くし、筆の運びを妨げぬ光源だけを残した。

 その光の中、手帳が開かれる。

 筆を取る瞬間の彼女は、もはや人ではなく、一種の機構であった。手の甲から指先にかけて、まったく揺れない。墨は滲まず、線は途切れない。時間を知るための砂時計が、すぐ脇に置かれている。

「……制限時間は一刻。筆の滑りに集中」

 声に出さずとも、自らの呼吸に合わせるように、心で律する。

 手帳の中身には、細かな金銭の出納がびっしりと記されていた。贈答品の内容と、誰が誰に何を渡したか。何月何日に誰がどこに出入りしたか。官位と名前。血筋と金額。

 そして――要所、要所に。

 “黒狐”の名があった。

(……我々の動きは、すでに水面下で囁かれている)

 脳裏を一瞬、緊張がかすめる。だが美鈴の眉は動かない。視線すら乱さない。ひとつの表情が狂えば、筆圧が変わる。筆圧が変われば、線が揺れ、複写が破綻する。

「感情は無用。正確な複写こそ、すべてを繋ぐ」

 それが美鈴の矜持だった。彼女がこれまで潜り抜けてきた任務の数、そのすべてにおいて、同じ姿勢を貫いてきた。

 時折、手帳の中にある文の内容があまりにも露骨に“悪意”と“買収”の形を取っていても、美鈴は一度たりとも筆を止めたことはない。彼女が記録に求めるのは、真実だけ。判断も、憤りも、誰かの感想も、そこには挟まれない。

 写し取りの最中、外の静寂がふっと乱れた。

 聞こえてきたのは、一度だけの猫の鳴き声。

(……合図)

 美鈴は表情を変えずに、わずかに頷く。猫を装ったのは、監視役の広大。彼が“相手の気を逸らしている”ことを意味する音だった。

 残り五分。砂時計の粒が最後の線を超える頃、美鈴は最後の一筆を滑らせた。筆を離す瞬間、吐く息さえ無音。音のない勝利。

「完了」

 写し終えた和紙を折り目ひとつつけずに綴じ、素早く防湿紙に包み込む。手帳の原本は慎重に元の綴じ方と開き方に戻し、全く同じページ順、折れ目に合わせて封じた。

 そして、彼女は何事もなかったかのように、帳場に戻り、脇に置いた茶器を取り上げる。まるで、ただ書物の整理をしていたかのように――

――

 夜半を過ぎた頃、拓巳の屋敷の書院。

 灯籠の明かりに照らされた机の上に、写し取られた手帳が開かれる。

「……見事な仕事だ」

 ページを捲る拓巳の声に、美鈴はぴくりとも反応を見せなかった。

「私情は挟んでおりません。ただ、命じられた通りに」

 その声音も平坦で、感情の色はない。

 だが、拓巳はふと指を止め、一頁の中央をゆるやかになぞった。

「ここに載っていた名前のひとつ――“智子”とある。なぜ、お前はその名を伏せなかった?」

 その問いに、美鈴の視線が一瞬、揺れた。

 ほんのわずか。光の加減で気づくかどうかの揺らぎ。

「記録に、改竄はありません。……それだけです」

 明快で、誤魔化しのない答え。

 拓巳は黙って彼女の瞳を見つめた。数瞬。何かを探るように。そして、ふっと一つ、息を吐いて頷いた。

「感情を押し殺す。それもまた、誠実の一形だ」

 美鈴は何も言わなかった。

 その目に感情の色はない。だが、彼女の筆が記した記録は、誰よりも正確に、そして誰よりも静かな熱を宿していた。

 たとえ誰にも伝わらずとも、正しきものを、正しきままに――。

 それが、彼女にとっての「戦」だった。