夜の王都・桜洛――。
仮面茶会の余韻は、まだ町のあちこちに燻っていた。提灯の灯りがぼんやりと揺れる通りには、酒に酔った商人たちの笑い声と、駕籠を待つ足音が混じっている。音のない時間と、終わりかけた賑わいの隙間に、夜は密かにその本性を覗かせていた。
だが、その静けさの裏でなお動き続ける者がいた。
――拓巳の密偵、凌。
黒装束に身を包み、足音ひとつ立てぬまま屋根から屋根へと渡ってゆく。その姿は、まるで夜そのものの化身であるかのようだった。月影を避けるように、影をつたい、隙間を縫うように進む。普通の者であれば気づくはずもない、だが彼には見えていた。
背後に漂う気配。
(……ひとり、いや、ふたりか。動きに統一感がない。浮き足立っている……新参の刺客。未熟だ)
目を動かさず、首も振らず、ただ風の流れと瓦のきしみに神経を預ける。そんな彼の脳裏には、すでに数通りの誘導ルートと仕留め方が展開されていた。
何も言わず、何も見せず――。
凌はそのまま進路を変え、城下の裏路地へと滑り込む。石畳が濡れている。雨の痕を踏まぬよう、慎重に、しかし淀みなく歩を運ぶ。
すると、後ろから音が増える。気配が強まった。
ひとりは刀を抜いていた。刃の重さに腕が振られている。もうひとりは、仕込み鎖。だが間合いを測れず、鎖の先がわずかに石壁をかすめた。
(――素人め。隠れる技術も、詰めの覚悟も足りない)
凌はわざと石につまずくような素振りを見せ、足を止めた。足元で草の葉が揺れる。まるで、ここが最後の場であるかのように。
「……待っていたのか?」
陰からの気配が一瞬躊躇う。
刺客の一人が身を乗り出しかける。その瞬間、凌の声が再び闇に響いた。
「いや、選んだのだ」
それは予告ではなかった。宣告だった。
仕込み鎖が振るわれるよりも早く、凌の足が一閃した。地を滑るように姿勢を低くして間合いに入り込み、壁を蹴って跳躍。黒い影が宙を舞い、刹那、肘が刺客の喉元を正確に撃ち抜いた。
ごぼっ、と息が詰まる音。地面に音もなく崩れ落ちる一人目。
もうひとりが慌てて刀を振るった。が、その目の前には誰もいない。
「なっ……!」
空振り。空間。沈黙。
気配すらない――それが逆に恐怖を煽る。
次の瞬間、その男の背後から、低い声が落ちてきた。
「……策も、技も、半端だ」
刀の柄を掴んだ右手を後ろから極められ、骨の鳴る音とともに壁へと押し付けられる。反撃も、叫びも許さぬ手際。
「拓巳様の敵ならば、こうは終わらせない」
吐き捨てるような言葉。だが、そこに激情はなかった。ただ、任務を遂行する冷徹な精度だけがあった。
男の意識が遠のくのを確認すると、凌は静かに縄を取り出し、二人を厳重に縛り上げた。口元には布をかぶせ、呻きも漏らさせない。
――そして。
数刻後。拓巳の屋敷裏、苔むす石道の脇に立つ灯籠の下で、凌は姿勢を正して報告を終える。
「任務、完了しました」
淡々とした声には、勝利の高揚も誇りの響きもない。ただ、成すべきことを終えた者の静けさだけが漂っていた。
「二名。刺客。身分証は偽装。手口から見て、摂政家配下の私兵と推察します」
報告を受けた拓巳は、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……奴ら、牙を剥いたか。ならば、こちらも抜かねばならんな」
その言葉は、静かな怒りを含んでいた。だが、同時に冷静な算段も滲む。
「悪くない。こちらの駒も仕上がりつつある」
「次の指示を」
凌はすぐに次の任務を受ける構えを見せる。だが、拓巳はわずかに目を伏せ、手を振った。
「……待て。今宵は休め」
その一言に、ほんの一瞬だけ間が空いた。
凌は、それが自分に向けられた“配慮”であることに気づいたが、表には出さなかった。ただ、深く一礼し、静かに言葉を返す。
「承知」
その背中はぶれることがなかった。だが、誰よりも柔軟に、主の思惑を先読みして動く――それが、密偵・凌の在り方だった。
感情を隠し、姿を潜め、言葉を削ぎ落とし、それでも誰よりも人の心の裏側を読む。
静かな夜の戦いは、今もなお、闇の中で息を潜めて続いている。
仮面茶会の余韻は、まだ町のあちこちに燻っていた。提灯の灯りがぼんやりと揺れる通りには、酒に酔った商人たちの笑い声と、駕籠を待つ足音が混じっている。音のない時間と、終わりかけた賑わいの隙間に、夜は密かにその本性を覗かせていた。
だが、その静けさの裏でなお動き続ける者がいた。
――拓巳の密偵、凌。
黒装束に身を包み、足音ひとつ立てぬまま屋根から屋根へと渡ってゆく。その姿は、まるで夜そのものの化身であるかのようだった。月影を避けるように、影をつたい、隙間を縫うように進む。普通の者であれば気づくはずもない、だが彼には見えていた。
背後に漂う気配。
(……ひとり、いや、ふたりか。動きに統一感がない。浮き足立っている……新参の刺客。未熟だ)
目を動かさず、首も振らず、ただ風の流れと瓦のきしみに神経を預ける。そんな彼の脳裏には、すでに数通りの誘導ルートと仕留め方が展開されていた。
何も言わず、何も見せず――。
凌はそのまま進路を変え、城下の裏路地へと滑り込む。石畳が濡れている。雨の痕を踏まぬよう、慎重に、しかし淀みなく歩を運ぶ。
すると、後ろから音が増える。気配が強まった。
ひとりは刀を抜いていた。刃の重さに腕が振られている。もうひとりは、仕込み鎖。だが間合いを測れず、鎖の先がわずかに石壁をかすめた。
(――素人め。隠れる技術も、詰めの覚悟も足りない)
凌はわざと石につまずくような素振りを見せ、足を止めた。足元で草の葉が揺れる。まるで、ここが最後の場であるかのように。
「……待っていたのか?」
陰からの気配が一瞬躊躇う。
刺客の一人が身を乗り出しかける。その瞬間、凌の声が再び闇に響いた。
「いや、選んだのだ」
それは予告ではなかった。宣告だった。
仕込み鎖が振るわれるよりも早く、凌の足が一閃した。地を滑るように姿勢を低くして間合いに入り込み、壁を蹴って跳躍。黒い影が宙を舞い、刹那、肘が刺客の喉元を正確に撃ち抜いた。
ごぼっ、と息が詰まる音。地面に音もなく崩れ落ちる一人目。
もうひとりが慌てて刀を振るった。が、その目の前には誰もいない。
「なっ……!」
空振り。空間。沈黙。
気配すらない――それが逆に恐怖を煽る。
次の瞬間、その男の背後から、低い声が落ちてきた。
「……策も、技も、半端だ」
刀の柄を掴んだ右手を後ろから極められ、骨の鳴る音とともに壁へと押し付けられる。反撃も、叫びも許さぬ手際。
「拓巳様の敵ならば、こうは終わらせない」
吐き捨てるような言葉。だが、そこに激情はなかった。ただ、任務を遂行する冷徹な精度だけがあった。
男の意識が遠のくのを確認すると、凌は静かに縄を取り出し、二人を厳重に縛り上げた。口元には布をかぶせ、呻きも漏らさせない。
――そして。
数刻後。拓巳の屋敷裏、苔むす石道の脇に立つ灯籠の下で、凌は姿勢を正して報告を終える。
「任務、完了しました」
淡々とした声には、勝利の高揚も誇りの響きもない。ただ、成すべきことを終えた者の静けさだけが漂っていた。
「二名。刺客。身分証は偽装。手口から見て、摂政家配下の私兵と推察します」
報告を受けた拓巳は、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……奴ら、牙を剥いたか。ならば、こちらも抜かねばならんな」
その言葉は、静かな怒りを含んでいた。だが、同時に冷静な算段も滲む。
「悪くない。こちらの駒も仕上がりつつある」
「次の指示を」
凌はすぐに次の任務を受ける構えを見せる。だが、拓巳はわずかに目を伏せ、手を振った。
「……待て。今宵は休め」
その一言に、ほんの一瞬だけ間が空いた。
凌は、それが自分に向けられた“配慮”であることに気づいたが、表には出さなかった。ただ、深く一礼し、静かに言葉を返す。
「承知」
その背中はぶれることがなかった。だが、誰よりも柔軟に、主の思惑を先読みして動く――それが、密偵・凌の在り方だった。
感情を隠し、姿を潜め、言葉を削ぎ落とし、それでも誰よりも人の心の裏側を読む。
静かな夜の戦いは、今もなお、闇の中で息を潜めて続いている。


