仮面茶会の翌朝。空にはまだ重たい雲が残り、町の石畳には昨夜の雨が名残をとどめていた。人々の声もどこか湿り気を帯び、早足で通りを行き交う町民の傘の音が、ぱたぱたと地を打っていた。
その静かな城下の一角に、奉行所の白壁が黙然と佇んでいた。なかでも記録課と呼ばれる一室には、薄い障子越しに淡い光が差し込んでいる。湿気を含んだ空気の中で、筆が紙をすべる音だけが、規則正しく続いていた。
その音の主は、響子――この奉行所で出納帳、伺書、そして膨大な報告文書を取り仕切る、記録課の書記官である。
机の上には帳簿が三冊、きっちりと直角に揃えて並べられていた。彼女の眉間には深いしわが刻まれ、筆を握る右手には一切の無駄がなかった。
響子は、数字で人間の“素”を見る。
そこに感情はいらなかった。帳簿に並ぶのは、言い訳の利かない“記録”であり、最も偽りの入りにくい真実だった。
その彼女が、今、手を止めて呟く。
「……おかしい」
乾いた声でつぶやくと、視線は三冊の帳簿のうち一冊へと注がれた。
銀十貫――茶器購入という名目が、奇妙な間隔で三度、記載されている。四月、五月、そして昨夜。どの記述も、使途の欄には「舞殿改修」と記されていた。
(使途と一致しない。支出元も不明確。しかも、繰り返し)
響子は筆先を紙に落とす。淡々と、しかし容赦なく、数値を抽出し、抜き出し、並べていく。算木を並べるような冷静さと、まるで狩人が罠を仕掛けるような集中力が、彼女の背中に漂っていた。
室内の空気が少しずつ張り詰めていくなか、その静寂を破る足音が近づいてきた。
簾をかき上げて入ってきたのは、摂政家の若侍。昨夜の宴席に同席していた人物のひとりだった。
「おう、響子殿。昨日の支出、特に問題なかったよな?」
響子は表情を変えずに、帳簿の一ページを開いて差し出した。
「“茶器購入”に関する項目に、使用者の確認印がありません」
「え? ああ、それは……まあ、口頭で通ってるっていうかさ」
「記録は、口頭を残しません」
響子の返答は静かだったが、まるで冷水を浴びせるように鋭かった。
「帳簿の義務は、“後世に恥を残さないこと”です。これは、私費ではなく、公金の流用に類します」
その一言で、侍の表情が一瞬、強ばる。
「三度繰り返されています。名目はすべて“舞殿改修”。だが、昨夜の仮面茶会、その会場は……その舞殿でしたね?」
言葉が止まった。室内の空気が、ふっと冷えたように感じられた。
響子は席を立ち、筆を持ったまま侍の正面へと歩み出る。
「公務の記録を汚す者には、いかなる権威も通じません。あなたが誰であろうと、記録には記される」
その瞬間、記録課にいた者たちの間に、沈黙が走った。息を詰める音、紙をめくる手が止まる気配。すべてが、響子の言葉の刃に貫かれていた。
「この帳簿は写しを取り、上申いたします。必要であれば、あなたのお名前も添えて」
「な、なんだと……ッ、それは……!」
「もう、待ちません」
静かに、それでも確固たる口調で言い切った。
侍はしばし唇を噛んでいたが、やがて吐き捨てるように紙束を机に叩きつけ、無言のまま部屋を後にした。
残されたのは、湿気を含んだ紙の匂いと、まだ微かに揺れる障子の影。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……ああ、またやっちまったな」
「でも、正論だった。完全に」
「空気が読めれば完璧なんだけどなぁ、響子さん……」
その声が聞こえていても、響子は何も言わなかった。
ただ、視線を再び帳簿に戻し、筆を走らせる。誰かが言葉を濁すときほど、記録は真実を語る――それが、彼女がここにいる理由だった。
その静かな城下の一角に、奉行所の白壁が黙然と佇んでいた。なかでも記録課と呼ばれる一室には、薄い障子越しに淡い光が差し込んでいる。湿気を含んだ空気の中で、筆が紙をすべる音だけが、規則正しく続いていた。
その音の主は、響子――この奉行所で出納帳、伺書、そして膨大な報告文書を取り仕切る、記録課の書記官である。
机の上には帳簿が三冊、きっちりと直角に揃えて並べられていた。彼女の眉間には深いしわが刻まれ、筆を握る右手には一切の無駄がなかった。
響子は、数字で人間の“素”を見る。
そこに感情はいらなかった。帳簿に並ぶのは、言い訳の利かない“記録”であり、最も偽りの入りにくい真実だった。
その彼女が、今、手を止めて呟く。
「……おかしい」
乾いた声でつぶやくと、視線は三冊の帳簿のうち一冊へと注がれた。
銀十貫――茶器購入という名目が、奇妙な間隔で三度、記載されている。四月、五月、そして昨夜。どの記述も、使途の欄には「舞殿改修」と記されていた。
(使途と一致しない。支出元も不明確。しかも、繰り返し)
響子は筆先を紙に落とす。淡々と、しかし容赦なく、数値を抽出し、抜き出し、並べていく。算木を並べるような冷静さと、まるで狩人が罠を仕掛けるような集中力が、彼女の背中に漂っていた。
室内の空気が少しずつ張り詰めていくなか、その静寂を破る足音が近づいてきた。
簾をかき上げて入ってきたのは、摂政家の若侍。昨夜の宴席に同席していた人物のひとりだった。
「おう、響子殿。昨日の支出、特に問題なかったよな?」
響子は表情を変えずに、帳簿の一ページを開いて差し出した。
「“茶器購入”に関する項目に、使用者の確認印がありません」
「え? ああ、それは……まあ、口頭で通ってるっていうかさ」
「記録は、口頭を残しません」
響子の返答は静かだったが、まるで冷水を浴びせるように鋭かった。
「帳簿の義務は、“後世に恥を残さないこと”です。これは、私費ではなく、公金の流用に類します」
その一言で、侍の表情が一瞬、強ばる。
「三度繰り返されています。名目はすべて“舞殿改修”。だが、昨夜の仮面茶会、その会場は……その舞殿でしたね?」
言葉が止まった。室内の空気が、ふっと冷えたように感じられた。
響子は席を立ち、筆を持ったまま侍の正面へと歩み出る。
「公務の記録を汚す者には、いかなる権威も通じません。あなたが誰であろうと、記録には記される」
その瞬間、記録課にいた者たちの間に、沈黙が走った。息を詰める音、紙をめくる手が止まる気配。すべてが、響子の言葉の刃に貫かれていた。
「この帳簿は写しを取り、上申いたします。必要であれば、あなたのお名前も添えて」
「な、なんだと……ッ、それは……!」
「もう、待ちません」
静かに、それでも確固たる口調で言い切った。
侍はしばし唇を噛んでいたが、やがて吐き捨てるように紙束を机に叩きつけ、無言のまま部屋を後にした。
残されたのは、湿気を含んだ紙の匂いと、まだ微かに揺れる障子の影。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……ああ、またやっちまったな」
「でも、正論だった。完全に」
「空気が読めれば完璧なんだけどなぁ、響子さん……」
その声が聞こえていても、響子は何も言わなかった。
ただ、視線を再び帳簿に戻し、筆を走らせる。誰かが言葉を濁すときほど、記録は真実を語る――それが、彼女がここにいる理由だった。



