六月の終わり、梅雨の名残を空にとどめた桜洛にて、一夜限りの仮面茶会が開かれる運びとなった。場所は南座。ふだんは芝居と講談の舞台として賑わう座敷が、この日ばかりは静寂と緊張に包まれていた。

 主催は摂政家の分家筋。招かれたのは、豪商、旧家の御曹司、名家の姫君、そして幕府の要人たち。彼らは一様に、笑みをたたえながらも互いの腹を探り合い、袖の内に隠した策を交差させていた。歌と舞の表向きの場の裏で、金と権力と陰謀がさや当てのようにすれ違っていた。

 その喧騒から隔てられた控えの間。薄い紙障子越しに、会場のざわめきが微かに響く中、智子はひとつの仮面を前に、静かに呼吸を整えていた。

 「準備はいいか?」

 控えの間に差し込む光の中、拓巳が仮面を差し出しながら、声をかけた。

 白と金の薄絹を重ねた、優雅で古雅な意匠の仮面。雅びやかでありながら、どこか儚げな印象を残すそれを手に、智子は静かに深く頷いた。

 「はい……」

 纏っていた十二単は、未奈が手配した糸を用い、広大が感涙を流しながら織り上げた“緋螺鈿織”。幾層にも重なる布が、照明の加減で淡く輝き、仮初の姫にふさわしい華やかさを与えていた。

 「姫として名乗るな。言葉数も控えろ。……だが、誠実であれ。偽りを見抜く目は、意外と民の側にある」

 拓巳の低く抑えた声に、智子はもう一度、息を深く吐き、胸の高鳴りを押し沈めるように仮面を手に取った。

 「心得ました」

 仮面を顔に当てた瞬間、鏡に映るのはもう、かつて貧家の織娘だった頃の自分ではなかった。細やかな訓練の積み重ねが、所作と気配を変えつつある――その自覚が、微かな勇気となって胸の奥に灯る。

 ――

 一方その頃、屋敷裏手の離れ茶房では、拓巳が密かに準備を進めていた。身にまとうのは黒羽織、軽装ながらその立ち姿は張り詰めた弓のような緊張感を漂わせていた。

 「裏に回ったぞ。あとは、お前が舞えばいい」

 拓巳の耳元で囁いたのは光輝。仮面の下に無表情を貼りつけたまま、任務完了を示すように短く頷いた。

 「感情は不要。成果だけ持ち帰れ」

 光輝はそれ以上何も言わず、音も立てずに天井の梁を伝って屋根裏へと姿を消した。

 ――

 仮面茶会の開幕とともに、中央の舞台へと緩やかに進み出た仮面の姫。その一歩が絨毯の上に落ちた瞬間、会場にざわめきが走った。

 その正体を知る者は、誰ひとりとしていない。だが、彼女の纏う気配と所作は、ただならぬ気品と気迫を帯びていた。

 一歩ごとに揺れる袖、緋の裾、仮面越しに伏せられた瞳。仮面の内側では智子が唇をきゅっと結び、周囲の視線の重みに耐えながら、舞姫としての振る舞いを丁寧に演じていた。

 その動きには、響寺で学んだ舞の型、夕貴との稽古で磨いた身体のしなやかさ、そして何より、己の“誠実さ”が息づいていた。

 ――

 時を同じくして、文書が仕掛けられた茶室では、慎重に選ばれた使いの者が、あらかじめ定められた段取り通り、文箱をそっと置いて立ち去った。

 智子は、会場の注目が他の演者に移ったのを確認し、舞姫の一挙一動として違和感なく、茶室へと移動する。

 そこで灯籠に照らされた文箱を見下ろしたとき、背後の欄間から微かな気配を感じた。

 視線を上げれば、そこには拓巳の姿。仮面越しに、彼は“左端”と手を動かし合図を送っていた。

 智子はそれに倣い、指先を滑らせて文箱の鍵を静かに外す。

 蓋を開けば、中には金の房を留めた和綴じの文書が数冊。智子は動揺を抑えながら刻印の形を目に焼きつけた。

 三つ巴の紋。そして、微かに香る墨の香。

 余韻を残さず蓋を閉め、姿勢を整え、何事もなかったように元の座へと戻った。

 ――誰も騒がない。だが、その一部始終を正確に目に収めた者がいた。

 拓巳、光輝、そして会場の片隅で静かに茶を飲んでいた真之介。

 任務は、確かに完了した。

 仮面茶会の翌朝、雨の余韻が残る城下の奉行所。

  奉行所記録課の一角に、眉間にしわを寄せた女が静かに筆を走らせていた。

 彼女の名は、響子。書記官として各家の出納帳、伺書、報告文書を取り仕切っている人物だ。

 感情よりも事実、空気よりも数字。

 そう評される彼女は、今日もまた“事件”の予感を帳簿から嗅ぎ取っていた。

 「……おかしい」
 机に並べられた三冊の帳簿。そのうちの一冊にだけ、微妙な出納のズレがある。

  銀十貫の“茶器購入”という名目が、繰り返し記載されていた。

 (四月分、五月分、そして昨夜――三度目)

 「使われた先は……“舞殿改修”?」

 響子は無言で書き写し、細かな金額を筆頭に書き出していく。

  筆の動きは速く、迷いがない。数字が列を成すうちに、使途不明金の網が浮かび上がる。

 ――

 そのころ、帳簿を管理する摂政家の若侍が、ふらりと記録課に現れた。

 「おう、響子殿。例の支出、問題ないよな?」

 響子は顔を上げた。

 「この“茶器代”について、使用者の確認印が不明です」

 「え? ああ、それは……まあ、口頭で通ってるっていうか……」

 「記録は口頭を残しません。帳簿の義務は、“後世に恥を残さないこと”です」

 響子の声は冷たい。だが、真っ直ぐで曇りがなかった。

 「これは、私費ではなく公金の流用に類します。三度の繰り返し。しかも全て、舞殿の改修名目にすり替えられている」

 「そ、それは……」

 「昨夜の仮面茶会。その会場は、その舞殿でしたね」

 部屋の空気が凍る。

 響子は立ち上がり、筆を手に侍の前へ出る。

 「公務の記録を汚す者には、いかなる権威も通じません」

 その場にいた同僚たちが息を呑む。

 響子の言葉は、刃のように鋭く、しかし理を外れない。

 「この帳簿は写しを取り、上申いたします。必要ならば、あなたのお名前も添えて」
 「……ッ、ちょっと待て、それは――」

 「もう、待ちません」

 その静かな断言に、場が沈黙した。

 やがて、侍は苦々しい顔で紙束を投げつけるようにして立ち去った。

 ――

 部屋が再び静かになる。

 同僚の一人が小声で言った。

 「……ああ、またやっちまったな」

 「でも、正論だった。完全に」

 「空気が読めれば完璧なんだけどなぁ、響子さん……」

 響子は聞こえないふりをして、帳簿の山に視線を戻した。

 誰かが言葉を濁すときほど、記録には真実が残る。

 それが、彼女がこの職を続けている理由だった。