その朝、桜洛の港には、まだ春の霞が淡くかかっていた。だが、その朧げな光景をも一変させるように、黒々と巨大な影が港内に滑り込んできた。

 ――黒船。

 船体は鋼鉄の板で覆われ、甲板には銃列と大砲が整然と並ぶ。舳先には、獣のような意匠の飾りが鋭く突き出し、その存在だけで周囲の空気を張り詰めさせる威容があった。帆柱は桜洛の楼閣より高くそびえ、港の者たちは言葉を失って見上げた。

 その船の舳先、最も目立つ位置に一人の男が立っていた。

 名はアクセル・リューイン。北方連邦の外交官でありながら、その本質は密命を帯びた影の使者である。大陸の政界では“氷狼”の異名を持ち、冷静沈着な対話者として知られる彼の存在は、この異国の地でも異様な静けさを伴っていた。

 金に近い髪が朝の光に煌めき、氷のように澄んだ青い瞳が港の様子をじっと見据える。周囲でどれだけざわつこうとも、彼の表情はわずかにも揺れなかった。軍靴を揃え、ゆっくりとタラップを降りる。

「……礼法に従う」

 それだけを低く呟き、桜洛の石畳に足を踏みしめたその一歩。まるで刻んだ印のように、音を立てぬほどの静けさで降り立った彼の姿勢には、一分の隙もなかった。背筋はまっすぐに、肩の高さも呼吸も緩まぬまま、軍人ではなく外交官としての威厳を帯びていた。

 しかし、その無表情な仮面の奥には、張り詰めた緊張が潜んでいた。

 ――異文化との接触は、いつだって不測を呼ぶ。

 彼は過去に何度も国境を越え、対立を鎮め、協定を結んできた。だが日本――この閉ざされた国は、他のどこよりも読めない。無言の圧、形式の壁、文化の微細な差異。それらは時に刃より鋭く、失言一つで国の命運を分ける。

 そんな彼の背後に控えていたのは、通訳として同行する若き女性、エマ・バードン。彼とは正反対に、髪は明るい栗色で目は丸く、陽気で人懐っこい笑顔を浮かべていた。

「アクセルさん、思ってたよりずっと注目されてますよー。見てくださいよ、あの人、口ぽかーんって開けて――」

「静かに。足音を乱すな」

 低く、一刀両断のような声が返る。

「え、今の私の? そ、そんなに?」

「日本の庭は、土より音を聴くものだ。歩きは旋律と心得よ。ついてこい」

 言いながら彼は、港から城下町への道を進む。歩幅は常に一定で、草履の音も立てず、まるで長年この国に暮らしていたかのような所作であった。道端に咲いた野花を見つけると、一歩、立ち止まり、わずかに頭を下げる。その動きに、町の者たちは目を見張った。

「……なんて礼儀正しい外人さんだ」「異国の人にしては、静かで整ってるな」

 そんな囁きが、通りのあちこちで小さく起こる。

 彼が招かれた先は、幕府の外交庁。表向きには歓迎の儀式、だがその裏には、ある策略が隠されていた。

 ――拓巳の手によって仕組まれた、静かな仕掛け。

 黒船の来航も、異国の密使も、彼の掌の上で転がされる駒であるという意志。それを知る者はごくわずかだったが、確実にその“火種”は桜洛に投じられようとしていた。

 その夜、アクセルは桜洛城内の迎賓館に招かれ、形式張った酒宴に参加することとなった。

 長い木造の廊下を抜け、照明に照らされた大広間に足を踏み入れた瞬間、彼の身体はわずかに硬直する。――それは、言葉にならない「違和感」だった。空間に漂う香、器の並び、襖絵の流れ。すべてが秩序立ち、整っている。だが同時に、その整い方が過剰に思えたのだ。

 ――この席は、何かを試している。

 そう、彼は即座に悟った。

 重ねて出される膳、並ぶ酒器、周囲の目線。そして、その中心に置かれた一合の盃。漆塗りに金箔を施した雅な盃に、燗を利かせた日本酒が満たされる。

「……異国のお方にも、是非味わっていただきたい」

 老齢の藩主が穏やかに語りかけてくるが、その声の裏には明らかに“見極め”の意図がある。

 アクセルは、目を伏せてその酒を見つめた。白い湯気が、細い線を描いて立ちのぼる。その香りを鼻で嗅ぎ、彼は一拍、呼吸を置いた。

「……これは、文化の一部だな。飲む」

 周囲に流れる空気が、ぴりりと張った。

 彼は盃を手に取り、一口、口に含む。舌先に広がる香味は、彼の国の酒とはまるで違う。だが、その熱と、米由来の甘みの中に、言い知れぬ敬意があった。

 ゆっくりと喉を通し、再び盃を置く。

「……なるほど。時間をかけて発酵させるものだ。醸造に、魂を込める」

 誰に向けたわけでもない、その感想が、まるで場の空気を解いたかのように、ざわりと武士たちの輪に波紋を生む。

「……見ろ、飲んだぞ」「遠慮深いと思ったら、意外と肝が据わってるな」

 その夜、アクセルは酔いもしなかったし、陽気に振る舞うこともなかった。ただ、終始淡々と、しかし丁寧に膳を受け、器を持ち、言葉を交わした。日本人が礼と静寂に宿す価値を知り、敬意をもって臨んだ彼の姿勢が、徐々に場の温度を変えていった。

 それらの一部始終を、別室に控えていた密偵が記録し、密かに屋敷へ報告を届ける。

 夜が更けたころ、拓巳は屋敷の書斎でその報せを受け取っていた。

 窓辺に立ち、月の光を背に、文を読む。

「……北方の狼が来たか」

 その口元に、僅かに笑みが浮かぶ。

 政が、戦が、まだ静かに眠っているこの国の闇の底に、確かに火が灯った。それは誰もが気づかぬ、しかし避けがたく広がっていく熱だ。

「駒が揃いつつあるな」

 呟きとともに、彼の背で障子がゆっくり閉まる。

 その音は、まるで将が戦陣に踏み込むときの、最初の足音のようだった。