夕暮れが迫るころ、拓巳の屋敷の一角にある織間へと、やけに陽気な足音が近づいてきた。木板の廊下を弾むように歩くその気配は、他の使用人たちとはまるで違う、まるで祭囃子の太鼓がそのまま歩いてきたかのような、賑やかさを含んでいる。

「こんにちはーっす! あれ、ここで織ってるって聞いたんだけど……!」

 勢いよく開かれた引き戸の向こうに現れたのは、背の高い、がっしりとした体つきの若者だった。日に焼けた額にはうっすらと汗がにじみ、肩には布包みがひとつ、ずしりと重そうに担がれている。だが、その顔はまるで夏の陽射しのように明るく、目が合えば反射のように満面の笑みを見せた。

「わたくし、広大っていいます。なんか、真之介様から“学びたがり”って紹介されまして!」

 そのひと声で、智子は思わず機から手を離し、体を起こして小さく会釈した。けれど広大はそれすら待たず、ずざっと畳に膝をつき、畏まった動作で頭を下げた。

「弟子にしてくだせぇ!」

「えっ、ええと……」

 驚きながらも、智子の声はどこか優しく、どこか頼りなげだった。予想外の訪問者と、唐突な願い。だが、広大はそんな反応にもめげず、むしろさらに前のめりになって、まっすぐに言葉を放つ。

「機織り、ずっと憧れてたんです! 不器用だけど、真面目だけが取り柄なんで!」

 真っ赤な顔をして、それでも臆せずまっすぐに伝えてくる言葉。その熱に、智子は戸惑いながらも、その奥にある真摯さに触れたような気がした。誇張でも下心でもない、ただ「学びたい」という一念だけが、彼の身体ごとここに連れてきたのだ。

「……なら、糸に触ってみてください」

 そう言って、智子が差し出したのは、未奈が特別に調整した糸車で繰った特注の絹糸だった。しっとりとした光沢と、繊細な弾力を持つその糸は、触れただけで温度を伝えるような、不思議な感触があった。

 広大は恐る恐る指先で糸に触れた。ごつごつとした手は、日々の肉体労働を物語っていたが、その指の動きは意外なほど繊細だった。そして、目を閉じる。しばらくの間、彼は一言も発さず、その柔らかさに集中していた。

「……すげぇ、やわらかい。なのに、ちゃんと芯がある……」

 ぼそりと呟かれた言葉が、静かな空間に落ちる。そして次の瞬間、彼の目尻に、きらりと光るものが浮かんでいた。

「……うわっ、ごめんなさい。なんか、こう、心にくるっていうか……」

「え?」

 思わず智子が身を乗り出す。まさか、絹糸に触れて涙を流す人が現れるとは、夢にも思っていなかったのだ。

「この糸、泣けます。うまく言えないんだけど……人がこめた想いが、ちゃんと“生きてる”気がして……」

 広大の目には、真っ直ぐすぎるほどの感情が浮かんでいた。技巧や理屈ではなく、感じたままを語るその姿に、智子の胸の奥もじんわりと熱を帯びる。

「……うれしいです」

 自然に、心からこぼれた言葉だった。けれど、それは誰にも言われたことのない、初めての肯定だったのかもしれない。

 その一言に、広大が顔を上げた。頬にはまだ涙の跡が残っていたが、彼はそれを拭うこともせず、くしゃりとした笑みを浮かべて言った。

「智子さん、やっぱりすごいっすよ! こんな糸、どうやって……!」

 智子は軽く首を振った。誇らしさよりも、むしろ恥ずかしさの方が勝っていた。けれどその奥には、初めて誰かに本気で伝わったという、小さな誇りの芽が宿っていた。

「いえ、私なんて、まだまだです。でも……織っているとき、誰かに届くといいなって、そう思ってました」

 その言葉に、広大は大きく頷いた。まるで子どもが宝物を見つけたかのような、素直な感動が全身から滲み出ている。

「届いてますよ! 胸に、ぐさっと!」

 その勢いのまま、広大は立ち上がり、棚に並ぶ糸巻きを見上げて、声を張り上げた。

「俺、ちゃんと学びます! この糸みたいに、人に届くもんを、自分の手で作れるようになりたい!」

 その声が織間中に響き渡った瞬間、すぐ隣の作業小屋から、苛立った声が飛んできた。

「うるさいっ! 織間で騒ぐなって、何度言わせんだ!」

 薫の怒鳴り声だった。だが、広大は少しも気にした様子を見せなかった。むしろ、さらに顔をほころばせ、反省の色をにじませながらもどこか晴れやかに笑っている。

「……はは、すみません。でも、なんか黙ってらんなくて……」

 智子はその様子を見て、ふっと小さく笑った。笑いながら、自分でも驚いていた。誰かと一緒に織り場に立つということ――それは自分だけでは織りあげられなかった感情や発見が、思いがけず現れる瞬間なのかもしれない。

 これまで、ひとりで機に向かうことが当たり前だった。家では誰も助けてくれなかったし、織りの意味も、価値も、説明しなければ伝わらないものだと思っていた。

 けれど、広大のまっすぐな感受性は、それらすべてを一瞬で超えてきた。彼は言葉よりも先に、糸の温もりに心を動かされ、その感動を全身で伝えてくれた。

 ――これが、“誰かと一緒に働く”ということなのかもしれない。

 ただ与えるのではなく、受け取り合い、響き合う。自分の手から生まれた糸が、誰かの胸に届き、そしてその誰かの情熱が、自分の背を押してくれる。

 自分だけでは生まれなかった感情が、他者との出会いで編まれていく――その温かさの始まりを、智子は確かに感じていた。