春彼岸。王都・桜洛の片隅――五つの公家と幕府が交錯するこの都市の、さらにその影とも言える貧民街の路地裏で、智子はひとり立ち尽くしていた。陽が沈みかけた空には、ぼんやりとした茜色が残り、瓦屋根の影が細長くのびていた。だが、その美しさとは裏腹に、ここは疲れと絶望が沈殿したような場所だった。

 持っているのは、背中に負った反物包みだけ。家財道具と呼べるものは一つもなく、残されたのは唯一、母が遺してくれた手織りの織機。いや、正確には、その織機さえ今はない。つい今朝、あの家の中から担ぎ出す前に、義母のきつい言葉が頭上に落ちてきたのだった。

 「もういい加減、役立たずは出てってちょうだい。あんたの糸で飯が食えるほど、この世は甘くないのよ」

 怒鳴るというより、吐き捨てるようなその声。耳の奥に焼き付いたように、その言葉が今も響いている。織機を大事に抱えて玄関を出るとき、智子は一言も返さなかった。泣きもせず、抗議もせず、ただ静かに背筋を伸ばした。それが彼女の選んだ態度だった。言葉で何を返しても、きっと意味はなかったから。誰かを責めることよりも、まっすぐ立っていることを選んだ。それが、智子にとっての“誠実”だった。

 風が吹いた。春の風。だが、ほんのわずかに冷たく、背中の反物包みの端をくすぐるように揺らした。布の摩擦が、頼りない音を立てる。寒さは凍えるほどではなかったが、吹きすさぶその空気は、むしろ心の奥底をそっと冷やしていくようだった。身を縮めて歩く人々の肩が、どこか重たく見えるのも無理はない。ここは、春の彩りにはほど遠い、暮れ泥む生活の底だった。

 足元の石畳は、ところどころ濡れていた。見上げれば、雲がまだ空を流れている。どうやら少し前に通り雨があったようで、細かい水たまりが街路にいくつも光を湛えていた。水面に反射する夕映えが揺らぎ、足を運ぶたびに、ぬかるみに足音が吸い込まれていく。智子は一歩一歩を確かめるように歩いた。

 周囲には、炊き出しの残り香が漂っている。味噌の香りに、焦げた魚の匂いが混じる――誰かが腹を満たした証が、かすかに街の隙間に残っていた。だが、それすらも今の智子にとっては遠い世界のようだった。空腹よりも先に、これからどこへ行けばいいのか、その見当すらつかないことの方が、心に重くのしかかっていた。

 そのときだった。

 細い路地の奥――智子の立っていた道の向こうから、突然、鋭く乾いた声が響いてきた。

 「やめろ……っ、下がれ!」

 若い男の声。だがその叫びには、ただの怒りや焦りではなく、どこか切迫した――命を削るような緊迫がこもっていた。

 智子は反射的に息をのんだ。足が止まり、身体が硬直する。次の瞬間には、いくつもの足音が石畳を打ち、激しい喧騒が夜の静けさを突き破って飛び込んでくる。

 怒号。武器の音。金属同士がぶつかるような甲高い音と、木が何かにぶつかる鈍い衝撃音。誰かが壁に叩きつけられたのか、低く響いた音が、まるで智子の背後で起きたかのように近く感じられた。

 ――逃げなきゃ。

 そう思った。明確な恐怖が、脳裏に浮かんだ。だが――それでも、智子の足は動かなかった。すぐに路地を曲がればいい。布をかばって身を引けばいい。けれども、どうしてか、足が地面に貼り付いたように動かない。

 代わりに、反射的に両腕で背中の反物包みを強く抱き締めていた。布が少し、くしゃりと音を立てた。命よりも、この布を大事にしているのではないか――そんな錯覚が、自分自身を不意に突き刺す。

 そして、次の瞬間。

 黒い影が視界を横切ったかと思うと、ひとりの男が、智子のほうへ転げるように倒れ込んできた。

 男は泥を跳ね上げたまま、地面を滑るように倒れ込む。その身体は思ったよりも軽やかで、無駄な動きがない。訓練された武士か、それとも――

 顔を上げた男と、智子の視線が交錯した。その目に映ったのは、血の気を失わぬ意志の光。若い。だがただの若者ではない。整った顔立ちに反して、鋭い眼光が闇を裂くようにこちらを見ていた。まるで獣がこちらを値踏みしているような――そんな錯覚に、智子の背筋がぞわりと震える。

 「……手を貸せ」

 男が低く、しかしはっきりとした声で言った。命令ではなく、懇願でもなく、ただ当然のことのように。

 その一言の直後、追ってくる足音が迫ってきた。複数人。刃物が風を切る音、わずかに光る金属。殺気に包まれて、空気が震えた。命が失われる予感――それを肌が察した。

 智子は、迷う間もなかった。

 反射的に、背中の包みから布の一部をほどいた。すっと腕を振ると、緋色の反物がひらりと宙を舞った。その鮮烈な色が、狭い路地の空間を一瞬で染め上げ、追っ手の目を覆い隠す。

 「こっちです、早く!」

 声が震えていたのは否定できない。それでも、智子の声ははっきりしていた。男は言葉を返さず、無言で頷くとそのまま布の陰に身を隠し、裏路地のさらに暗い影へと滑り込んだ。

 直後、数人の追っ手が駆けてきた。智子は布を抱き直し、顔を伏せてうつむいたまま動かない。まるで、そこに居るのがただの織物売りの娘であるかのように。その場の空気と同化するように、呼吸すらも殺した。

 男たちは布の鮮やかさに一瞬目を奪われたが、女が動かないと見るや、何も言わず通り過ぎていった。その気配が消えるまでの時間が、何倍にも引き伸ばされたように感じられた。

 しばらくして。

 「……助かった」

 物陰から男が現れた。髪に泥をつけ、着物の袖も破れていたが、その顔には余裕すら感じさせる笑みが浮かんでいた。

 智子はわずかに身を引いたが、男はすぐにそれ以上近づこうとはしなかった。適切な距離を保ったまま、冷静に彼女を見つめている。

 「名は?」

 その一言には、威圧も探りもない。ただ、純粋な問いだった。

 「……智子と申します」

 智子は答えるのをためらったが、嘘をつく理由もなかった。今夜のこの邂逅を運命と呼ぶには、まだ早すぎる――けれど、何かが確かに始まりつつあるという予感はあった。

 「智子。よく覚えておこう」

 男はそう言うと、懐から何かを取り出した。小さな金貨一枚。指先でひらつかせて見せる。

 「礼だ。受け取れ」

 金の輝きが、わずかな街灯の明かりを受けてきらりと光った。その煌めきには、まるで罠のような魅力があった。

 けれども智子は、首を横に振った。

 「いえ。私はただ、巻き込まれるのが怖かっただけです。それに――布を傷めたのは私ですから」

 その言葉に、男の手が止まった。目を細め、何かを計るように、じっと智子を見つめる。その目は、敵意も、侮りもない。ただ――興味があった。

 数秒の沈黙ののち、不意に男が笑った。

 「なるほど。お前……面白いな」

 口元だけで笑い、金貨を懐に戻す。気配が、ふっと軽くなる。まるで何かの儀式が終わったかのように。

 「また会うぞ、智子」

 そのまま背を向け、男は音もなく夜の帳へと消えていった。

 ――風のように現れて、風のように去った。

 彼が去ったあと、智子はしばらく動けなかった。抱えていた反物が、胸の中で温度を取り戻す。指先がかすかに震えていた。さきほどまでのやり取りが、現実だったのか、それすら怪しいように思えた。

 だが確かに、自分は何かを変えてしまったのだ。

 その晩、智子の胸に残ったのは、はじめて感じる確信だった。

 ――いま、自分は、とても大きな流れに足を踏み入れてしまった。

 それが善か悪か、まだわからない。けれど、もう戻れないことだけは、はっきりとわかっていた。