ぼんやりと、心に穴が空いたまま次の日も登校すると、校門には昨日と同じように桃華先輩が立っていた。私を見つけると大きく手を振ってくれたので、駆け足で桃華先輩の元へ向かう。

「おはようございます、桃華先輩」
「おはよう奈々美。大丈夫?」

 私を覗き込むのは、困ったような、心配したような表情をした先輩の顔。

「はい、大丈夫です。今日も登校中何もありませんでした」
「そうじゃなくて。瀬戸内となんかあった?」
「……え?」

 あ、もう先輩知ってるんだ。てことは瀬戸内君が昨日のことを報告したってこと……。

「……瀬戸内君、なんて言ってました?」

 昨日、帰ってからもずっと瀬戸内君の言葉が頭から離れなかった。冷静になった頭で思い浮かべると、どう考えても私の言ったことは最悪だったし、瀬戸内君の言ってることは正しくて、どうかしてるのは私の方だったと今では理解している。
 なんであんなことを言ってしまったんだろう。あの時の私は瀬戸内君も、その友達も、全部が気に入らなくて仕方なかった。だからあんなことを言ってしまった。瀬戸内君の友達に対して、私のストーカーかもしれない、なんて。

「怒ってましたよね? 絶対……」
「いや……まぁ、怒ってるというか、なんというか、」
「いいんです。そうですよね、そうなんです……」

 桃華先輩に伝えるくらいだ。そしてその桃華先輩が心配するくらいだ。きっともう瀬戸内君には許してもらえないだろう。
 ……そっか。今の私、許して欲しいと思ってるのか。

「……瀬戸内君に対して、なんでも言っていいって、言っても許してくれるって甘えがあったのかもしれません。というか、許してくれなくてもいいや、みたいな。別に仲良しこよししたくて一緒にいるわけじゃないんだし、向こうだってそういうスタンスだし、って」
「うん……」
「でも、それで私、勢いづいて関係ない人を傷つけるようなことまで言っちゃって、瀬戸内君の中の一線越えちゃったって思って、ていうかだから私、友達居ないんだなって……」
「ん? 友達?」
「わ、私って最低なんだなって。性格が悪い。態度に全部出てるって本当にそうだと思う。自分の気持ちを我慢出来ない。イライラのおさめ方もわからない」

 苛立ちとか、不満とか、どんどん胸に溜まっていくそれが爆発する瞬間に立ち会った。でも普段から私のそれは外に出ているのだと言われて、人からそんなことを言われるのは初めてで、そんな自分とどうやって向き合っていけばいいのかがわからない。
 わからなくて、怖い。

「どうしたらイライラをおさめられるようになるんだろう……」
「でもさ、それはあいつも一緒じゃん。そもそも奈々美がイライラするようなこと言わなきゃいいのにあんな態度なんだもん。瀬戸内だって悪いよ」
「でも瀬戸内君、友達には普通でした。あんな態度なのは私にだけだった」
「いや、私にもだけど……」
「友達にはちゃんと出来るのになんで私にはあんな酷いこと言うんだろうって考えたら、結局私に原因があるとしか思えなくて……」
「いや……んー……まぁ、あいつにも事情があるんだろうけどね……」

 どうしたものかと考える桃華先輩の様子を見て、やっぱり桃華先輩は先輩なのだと実感する。そうやって瀬戸内君に嫌な態度を取られても、事情があるんだろう、なんて考えられて、自分の中で解消できて、不満を爆発させたりなんてしない。
 私にはそれが出来ない。昔からそうだった。

「今までは全部泳いで解決してたんです。ムカついたらその全部をぶつける先があって、イライラも原動力になった。それが解決策だって考える間もなく、気付かないうちに。でも今はもう、その場所もない」
「…………」
「私、どうすればいいのか……」
「……なるほどね」

 先輩は頷くと、考え込むように口を閉じる。そして、

「わかるよ」

 と、染み込むような声色で、じっと私の目を見て告げた。それは同じような経歴を持つ桃華先輩だからこその返ってきた一言で、桃華先輩はわかってくれるのだと信頼した瞬間でもあった。——だから、

「ねぇ奈々美。この学校って“現実にする靴箱”の他にも何個か噂があるんだけど、知ってる?」

 なんて、全然関係の無いことを言い出した先輩に、パチンと目の前でシャボン玉が弾けたような驚きを感じる。

「? 噂……ですか?」
「そう。例えば、“プールの水死体”」
「す、水死体……」

 一切聞き覚えのない上に、やけに物騒というか、恐ろしい単語が飛び出してきて、思わず一歩後ずさる。

「怖い話ですか……?」

 そう。私は怖い話が大嫌いだった。幽霊とか死体とか、そういうものが大の苦手な私が恐る恐る訊ねると、先輩はにこっと笑った。

「プールが使われる今ぐらいの時期になると、夜、プールに水死体が浮かぶらしいよ」
「!」
「その死体が過去に殺された時の再現をしてるとかで、激しい水飛沫が上がることもあるんだって。本当だと思う?」
「え? ど、どうだろう……わからないです」
「ね。わからないよね。だから確かめたらいいと思う」

 ……はい?

「た、確かめる……とは?」
「噂の真相。今日の夜、瀬戸内と学校のプールで確かめてみて」
「…………」

 今、なんて言いました?と、信じがたい言葉を言われた気がして、真顔で桃華先輩のにこにこ顔と向き合う。何かの間違いですよね?と。間違いだと言ってくれ、と。
 けれど桃華先輩の意思は固いようで、その笑顔は崩れない。
 だ、駄目だ。ちゃんと断らないと……!

「で、でも、夜に学校に忍び込むなんて無理です」
「入らなくても外から覗くだけでいいんじゃない?」
「でも私一人で夜にそんな怖いこと、で、出来ません!」
「ね、危ないもんね。だから瀬戸内も一緒に行けば大丈夫」
「でも瀬戸内君とは今険悪で……」
「大丈夫、私からもちゃんと言っておくから。今日の帰りも瀬戸内は来るし。だってそういう約束でしょ?」
「……それは、そうですけど……」

『——何? 次はストーカーなんて大丈夫だから送らなくていいとか言い出す? それでもし何かあったら俺のせい?』

 昨日あんな風に言ってたから、多分今日も帰りは送ってくれるんだと思う。先輩の言う通り、そういう約束だからって。
 ……でも、夜の話に関しては違う。来る訳ないし、お願いなんて出来るわけがない。だって瀬戸内君はすごく怒ってた。あんな風に怒るなんて思わなかったし、怒らせてしまった私がどんな顔してお願い出来るというのだろう……!

「や、やっぱり無理です!」

 ごめんなさい!と、跳ね除けるように断ると、先輩の動きがぴたりと止まり、笑顔がすっと消えた。

「無理なの?」
「!」
「本当に? 奈々美にお願いしてるんだけど、出来ないの?」
「……!」

 すっと背筋が凍りつく。——出た。
 身に覚えがあるそれに、勝手に姿勢が正されて、身体の側面にあわせた腕は指先まできっちり揃えられる。きちんと顔を上げると、口は勝手に動いていた。

「出来ます。やります!」

 まさか、ここであの怖い桃華先輩が出てくるとは……先輩の言うことは絶対である。
 私の返事を受けた桃華先輩はまた、にこりと笑顔を見せてくれてほっと息をついた。先輩とは小学生ではなく、中学生からの知り合いなのだ。これが体育会系の定めである。

「よし。じゃ、教室行こっか」
「……はい」
「大丈夫大丈夫! 瀬戸内にも私から言っとくし!」
「……はい、ありがとうございます」

 もう、運命は決まってしまった。私はやるしかない。