「朔夜さん……どういうことですか?」
恐る恐る訊ねる言葉を口にする。ここまできても微笑みを崩さない朔夜さんが何を考えているのかがわからなかったから。
だって今までずっと秘密にしてたはずなのに、そうやって瀬戸内君に協力させていたはずなのに、ここにきて勝手に瀬戸内君が全てを明かしてしまっているのに止めようともしないから。その静かな瞳で微笑みを浮かべて、じっと見ているだけだから。
そう、彼はずっと私達を見ている。私達のやり取りを、私の反応を見つめている。その目に焼き付けるように。
「瀬戸内君は俺の親戚でね。幼い頃から才能のある素晴らしい選手だったんだよ」
ついに、朔夜さんが口を開いた。その思い出を懐かしむような瞳には、幼い瀬戸内君への愛情すら感じさせられる穏やかさが窺えた。
「だから全部おさめたよ。一番近くで彼を支えてきた。その終わり方まで全てを見せてくれたよ。彼が俺の初めての作品だったんだ」
「初めての作品……」
「そう。でもね、終わってしまってからの彼は本当につまらなくて、何も生み出すものがなかったんだよ。だから残念だけど次を探すことにした。たまたま親の会社がスポンサーをしている関係で招待された競泳の大会についていったんだけど、そこで君を見つけたんだ」
朔夜さんの目がギラリと光り、こちらに向いた。その瞳は今まで向けられてきた経験のない感情をはらんでいるような力強さを持っていた。
「次は君だと思った。君が有名になるように根回ししたよ。君が激しい感情の中でどう足掻くのか見たかった。引退を選択した時は寂しかったなぁ。また同じ結末かって。でも君がこの高校に入学するって聞いて、運命だと思った。だってここは俺の母校だったから。ここには俺の美術室があったから」
「俺のって。家の財力使って私物化してんなよクソ御曹司が」
「君にも親族として恩恵があるんだからそんな風にいうのはよくないと思うけどね」
「人を無理矢理ここに入学させといてよく言うよ。俺も先輩もこいつにとって手駒でしかないんだよ。おまえとの繋がりがあるの知られて先輩はあんなになるまで利用されちゃったわけだし」
「違うよ。彼女は彼女で素敵だったんだよ。ただ、その鬱屈した心は小向さんと関わることでどの方向に進むのか興味があったけど」
「ほらな。先輩も俺もおまえも全部、こいつにとってはただのおもちゃ。言った通りだろ?」
だからやめとけって言ったのにと。俺は何度も忠告したぞと、瀬戸内君が私に憐れみの目を向ける。真実なんて知らない方がよかったのだと。
——でも、違う。
瀬戸内君は知らない。知らないのだ。
「でも、朔夜さんはまだ私のことを見てくれてる」
「……は?」
「今までの流れで言ったら、競泳をやめて新しい人生にも上手く立ち向かえなかった私の役目は終わり、私の絵は額縁から外されてこの床に捨てられてるはず。でも、朔夜さんはそうしないで今もまだ私を見てくれている。それはなんでだと思う?」
「…………」
瀬戸内君は答えない。わからないからだ。
「じゃあ今日私にこうして手紙の秘密をバラしたのは? 瀬戸内君が今全部話しちゃってるのに止めない理由は?」
「それは、だからこれで終わりにするつもりだからだろ。いい加減目を覚ませよ、信じたいのかもしれないけどこいつはさ、」
「この人は、今までの全てを私に明かすことで、今の私の反応も見てるんだよ」
「……は?」
「そしてここからまた私がどんな動きに出るか楽しみにしてくれてる。簡単に正体を明かさなかったのはそれが理由。全ての私をその目で見届けるため。だってそれが私の願いだから」
そうですよね、朔夜さん、と、彼に視線を送ると、うんと頷いてくれた。それで正解と。
そう。それを伝えるために今日ここで朔夜さんは全てを明かした。私に伝えるために。私が新しい明日を迎えるために。全ては私のためだったのだ。だって、
「始めの手紙を入れたのは私だから!」
——“現実にする靴箱”。その噂はよく耳にしていた。
『靴箱に入っていた手紙の内容が現実になるんだって』
『へー。なんでもいいの?』
『そう。例えば、好きな人の靴箱に付き合ってくださいって入れると付き合える、みたいな』
『こわ……』
『いや、おまじないみたいなもんよ? 叶わないと諦めて口に出せてない願いも、伝えてみたら案外叶っちゃうことあるよね、みたいなテンションらしい。だからどちらかというと絶対そうなるっていうより背中を押す系の話。ごめんねって伝えて仲直りとか、明日は晴れて一緒に出かける!ってお互い入れあって楽しんだり、そんなもん』
『なるほどね。それだったら確かに楽しそう。気持ち感じるもんね』
隣の席の二人が話すのを聞いて、そんなのがあるんだ、と思った。でも私の願いを人の靴箱に入れたとしても、引かれて嫌われるだけだと思った。だって私のことを見てください、なんて書かれた紙が突然入っていたら恐怖以外の何ものでもないだろう。
友達になってください? でも特別この人とって思うような人は居ないし、そこら辺の人と関わり合うようになってどうなるかわからないのも怖い……意識してくださいっていうのもそれこそ前の状態みたいになる未来が見える……ていうか入れる先のない手紙なんて意味ないよね……。
……いや、ちょっと待って。
逆は?
靴箱に入ってたら現実になるんだよね? もしこれが私の靴箱に入っていたんだとしたら? そういうことにして人に伝えてみたら?
『——叶わないと諦めて口に出せてない願いも、伝えてみたら案外叶っちゃうことあるよね』
「だから私は自分の靴箱に入ってたことにして先輩に相談したの。『君のこと、いつも見てるよ』って。そしたら次の日、返事があった。『君の秘密を知ってるよ。君の願いを叶えてあげる』って。あの時はすごくびっくりしちゃった。バレたと思って、一瞬怖くなっちゃったんだけど、瀬戸内君が言ってくれたよね? 願いが叶ってるって。これはそういうことかと思ったら、本当だったんだ!って思って。誰かに届いたんだ、私の願いが叶ったんだ!って。瀬戸内君も覚えてるよね?」
「……そういうつもりで言ったんじゃない。俺はあの時本気で心配して……」
瀬戸内君が複雑そうな、苦しそうな表情をする。
「始めのあれ、おまえが書いたやつだったんだな。てっきり俺はもう一人知らない奴が存在してんのかと思って、またそいつが動いたんだって思ったのに」
そして、
「本気で心配してたの、俺だけだったわけ」
そう、ぽつりと悔しそうに呟いた。
「小向さんの靴箱に手紙が入ってたって報告されて、君の字だってすぐにわかったから。俺が見てるのを伝えたくなった。新しい君が見られる気配に胸が高鳴ったなぁ……君は諦めなかった。前へ進もうとしていた。そんなの君だけだった。俺は今日までずっとずっと、君のことを一番に見てきたよ」
朔夜さんのその言葉は、何よりも私を受け入れてくれる言葉だった。ずっとずっと、ずっとずっと焦がれてきたあの強い視線。私の存在を受け止め、賞賛し、愛情を感じさせてくれるその瞳。
その目がずっと、恋しかった。
あぁ、やっと満たされる——そう思ったのに。
「やめろって、誘導されてる。思い出せ、おまえが注目されるよう動いただけじゃない。やめるきっかけ作ったのもこいつだぞ。こいつが全ての元凶なんだってわからないのか?」
瀬戸内君が、また騒ぎ出した。静かにしょんぼりしてたくせに諦めない。しつこい。そんなの今説明されたばかりなんだからわかってるに決まってるのに。
「もしこの先人生が上手くいってもまたこいつに邪魔される。新しい反応が見たいとかいう自分勝手な理由でな。それで飽きたら捨てられるんだ。その時あいつを信じたおまえの人生に何が残る?」
「何も残らないのかもね。でもさ、誰にも見てもらえないなら今だって何もないままだよ。そんなの一緒じゃん」
「そんなことない、俺はおまえを見てる。先輩だってあんなだけどおまえと新しくやっていきたいって言ってる」
それは瀬戸内君らしからぬ言葉だった。瀬戸内君は今、本気だ。本気でその言葉を言っていた。
俺はおまえを見てる、だなんて。
「……あのさぁ、わかってないの? 君たち二人はさ、私を通して自分のことを慰めてるだけだよね?」
「……は?」
訳がわからないと瀬戸内君が私を見る。心配してたの俺だけだったわけ、なんて言ってたけどさ、私にはその言葉の意味がわかってる。
「君は私を見てないよ。だって君は君と似た立場の私が同じ失敗をするのを見たくないだけだ。私が無事だったと安心して、私を守れた、自分の失敗は無駄じゃなかったって思いたいだけなんだよ。だから君は私を通して過去の自分を見てるだけで、本当の私を見てる訳じゃない。ずっと私のことが嫌いなのも、惨めな自分を見てるみたいだったからでしょ?」
「……そんなこと……っ、」
「ないって言える? じゃあなんで始めから言いなりにならないで私に事実を教えてくれなかったの? 何か言うことを聞かないとまずい理由があったんだよね? この高校に無理矢理入れられたって言ってたもんね。朔夜さんの許可がないとこうして話すこともできないんでしょ? そのルールを破るほどの熱量を君は私に持ってはいなかった。ただ、私を正しい方向へ導ける自分になりたかった、そうじゃない?」
「…………」
瀬戸内君はバツが悪そうに俯いた。図星だったのだ——可哀想に。きっと自分でも気づいていなかったのだろう。君は今、自分の新しい一面に出会ったのかもしれない。情けないと、自分を恥ずかしく思ったかもしれない。
——でも、私は知っている。君がいい人だということを。だから君は私にとって友達なのだということを。
「私もね、ちゃんとわかってるの。朔夜さんとのこの関係は、悪魔に魂を売るようなものだって。何かの代わりに何かを得ているんだって。そういうことを言ってくれてるんだよね? 信じた先で失敗して何かを犠牲にすることのないように忠告してくれてるんだよね? わかってるの。ちゃんと伝わってるよ、瀬戸内君」
だけど、
「私ね、これからも朔夜さんに見てもらえる人でいたいの。だって朔夜さんほど熱い熱量で私を見てくれる人はいないってわかったから。願いを現実にしてくれる人なんていないってわかったから。私の願いはいつも私を見てくれる人に出会うこと。私を肯定し続けてくれる人に出会うこと。その為に手紙を書いて、それは現実になったの」
そう。あの日からずっと、私の願いは現実になった。叶えられたのだ。現実にする靴箱によって。
「ずっとずっと、これからも朔夜さんに見てもらうために。そのために前を向いて新しい毎日を示せる人になりたい。朔夜さんの心を満たし続ける存在になりたい。そんな思いが、私を明日に向かわせる力をくれるから。だから——瀬戸内君」
「……何」
「君には、そんな私を支える存在であって欲しいの」
例えば桃華先輩と瀬戸内君の関係のように。
例えば朔夜さんと瀬戸内君の関係のように。
きっと、君から見た私は友達ではないだろうから。
「君のこと、人として信じてるから。もう今までみたいになんていられないかもしれないけど、でもそれが私と君の今日までがあった答えだと思うから。だからお願い。もしそこまで強い気持ちで私を助けたいと思うなら、私の願い、叶えてくれる?」
「…………」
暫しの間、考え込んだ瀬戸内君はじっと私を睨みつけていた。が、小さく溜め息をつくと、諦めた顔をして言った。
「いいよ、叶えてやる」
そして、
「ただし友達としてだ」
そう、その単語を口にした。あり得ないと切り捨てるしかなかった、その言葉を。
「……友達?」
「そう。そもそもおまえ、友達がなんなのかもよくわかってねーだろ」
「そんなこと、」
「ないって言える? ずっとあいつに操作された人間関係の中を生きてきたのに? そう言い切れるのか?」
「…………」
それに、私は反論することが出来なかった。
幼い頃から私生活を犠牲にしながら競泳に打ち込んできて、気づけば色んな視線の中にいた私。
尊敬されるか、疎まれるか、そんな感情しか向けられてこなかった私。
友達と呼べる人は居た。幼い頃の話だ。でも競泳を切り離した先に今、近しい距離にそう呼べる人物は居なかった。残らなかった。それを瀬戸内君は始めからずっと見抜いている。
だから私にとって、何かの仕組みの枠組みの外側にあっても、利用価値がなくなっても互いに友達だと思いあえる相手が居ることは、奇跡にも近いものだった。
「対等な人間として、友達ってのがなんなのか俺が教えてやる。それでまた考えろ、本当におまえにとって悪魔みたいなこいつの存在が必要なのかどうか。答えが出るまで付き合ってやる。ちゃんと、最後まで」
「……なんで?」
「だっておまえは、俺の親族が生んだ被害者で、惨めな俺の人生の中で出会った捻くれ者で性格悪くて大嫌いな、だけど慰める為に利用するくらい自分に似てる、自分を重ねた、本気で助けたいと思った——俺の友達だから」
「…………」
——俺の友達だから。
そんなこと、瀬戸内君に言われる日が来るなんて。
それが、私達の今日までの答えになるなんて。
そうか、私、価値のない私でも認めて、受け入れて欲しかったんだ。私を肯定し続けてくれなくてもいい。駄目な奴だとわかってても私を心の中に存在させてくれて、自分のことのように私のことを心配して、考えてくれる人に出会いたかった。
そんな友達が、欲しかったんだ。
「……ありがとう」
そう言うと、瀬戸内君は困ったように笑った。「俺、おまえのありがとう苦手なんだよな」と。
それを、美術室の悪魔はにこにこ笑って見つめていた。新しい私の明日が始まるこの瞬間を、目に焼き付け、絵にする為に。
きっとその絵は明るく、とても美しいものになるのだろう。それが一人じゃない私の、明日からの人生なのだと思った。
それはつまり、願いが今、この場で現実になったということ。
『君のこと、いつも見てるよ』
靴箱に入れた私の願いは、ついに本当の形で叶ったのだ。



