連日通ったら失礼になるかな。でも朔夜さんの目的を思えば私が来て話すことは迷惑ではないはず……今回のことも失敗したことを怒るような人ではないと思うし、多分大丈夫。

 また話を聞いてもらおう、くらいの軽い気持ちでいた。だから何も気負うことなくいつも通りに校舎に入り、三階の廊下の一番奥からひとつ手前のその教室を目指したけれど……階段を上り終えたくらいからだった。
 いつもは静かなはずの廊下で、何か聞こえてくる。 

 ……話し声?

 廊下についてすぐ聞こえてるくらいの声量だ。どうやら美術室から聞こえてきているみたいだけど、それにしてもだいぶ大きい。低めに響いてくる感じが男の人の声だけど、朔夜さんのものではない。

 え、何……? 誰か来てるの?

 確かに、朔夜さんが言うことを思い返せば、他にもここに来る生徒が居てもおかしくなかった。桃華先輩もその内の一人なのだから、通う内にこうして別の生徒と鉢合わせることもあるのだろう。

 どうしよう……今日はやめとく? なんか、だいぶ盛り上がってるみたいだし。

 けれど、家からここまで一時間半かけて来ている身としてはそう簡単に諦めたくない。早めに終わったりしないかな……と、悪いとは思いつつ閉じた扉に近づいて聞き耳を立ててみると、その声にすごく聞き覚えがあることに気がついた。

 ——瀬戸内君?

 そんなバカなと思う気持ちと、やっぱりなと思う気持ちの二つが同時に生まれる。だから朔夜さんのこと知ってたのかと思う納得感と、でも瀬戸内君ってこんなところに来るような人かな、という違和感。人に悩みを打ち明けたり相談したりするタイプじゃないと思う。

 じゃあ、何でここに? また桃華先輩が動き出したとか?

 何で?と、直接聞いても素直に教えてはくれない瀬戸内君だ。ここで彼の秘密を知ってやろうと、悪い心が生まれたのは仕方のないことだと思う。改めて聞き耳を立てると、思ったより切羽詰まったような彼の声が聞こえてきた。

「——おかしい。やっぱり他にいる」
「他に、ねぇ」

 それに返した落ち着いた声は朔夜さんだ。

「まぁ他にいてもおかしくないよね。だって“現実にする靴箱”って有名な噂なんだし」
「でも内容が俺に言ってるみたいだった。挑発的というか、危険だと思う」
「危険? 何が?」
「あいつがに決まってる、わかってるくせに白々しい。このまま放っておいて何かあったらどうするんだよ」
「それは困るよねぇ」

 苛立つ瀬戸内君と真剣に取り合わない朔夜さん、といった構図だろうか。話の内容的に手紙のことを言ってるらしい。瀬戸内君の言うあいつっていうのは多分私だと思う。私のことを心配して相談しにきてくれたのだろうか。

「あいつもここに通ってんだよな? だったらもう必要ないだろ。そろそろ終わらせろよ」
「でもそれがあの子の願いだしね。望み通りに付き合ってあげたいじゃない?」

 ……ん?

「でもそれで刺激されて今日の手紙のやつが動き出したらやばいだろ」
「そしたら君がそばで守ってあげればいい話だよ。それが君の役目でしょ?」
「それはおまえが作ったシナリオの中の話だろ! 今それとはもう別の動きが出てんだよ!」

 何? 何の話? おまえが作ったシナリオ……? おまえって、朔夜さんのこと?

「いい加減おまえの遊びに付き合うのもこりごりなんだよ。おまえのせいでこれ以上人が犠牲になるのは見てられない!」

 ——ガラッ

 思わず扉を開けると、瀬戸内君が勢いよくこちらに振り返り、ハッと息を呑む。私達の目があった。

「おまえ……」
「ねぇ、今の何の話?」
「…………」
「何の話ですか? どういうことですか? 朔夜さん」

 驚く瀬戸内君から朔夜さんへと視線を動かす。するとこんな状況だというのに、朔夜さんはいつものように笑顔を浮かべて静かにそこに座っていた。その、どんな時も変わらない態度と、闇の中から月明かりに照らし出されたような彼はまるで別の生き物のように美しく、全ての謎が集まって作られた存在のような異様な雰囲気を醸し出していた。動揺なんてものはひとつも見られず、今のこの状況ですら筋書き通りとでもいうような。
 ……筋書き通り?
 ハッとした私に、朔夜さんはにこりと笑いかけた。

「ね? 瀬戸内はいい奴だから、上手くいった」
「……それって、」

 つまり、

「手紙の主は、朔夜さんだったってこと……?」

 上手くいったと言うのだから、それは間違いなく作戦のことを言っているのだろう。私がお願いして、朔夜さんが立てた、手紙の送り主を知るために瀬戸内君を利用した作戦。私のために朔夜さんが考えた、手紙の人を知るための方法。
 その私の質問に、朔夜さんはうんと頷いた。
 確かに、頷いたのだ。

 ——嘘でしょ? そんなことってある?
 ずっとずっと会いたいと思ってた、私を見てくれていた人が、朔夜さんだったなんて。そんな、そんなお話みたいなこと——、

「おい! 騙されんな!」
 
 歓喜がみるみる膨らんでいく心の中に、大きな声が割り込んでくる。瀬戸内君だ。
 彼は思い切り嫌な顔をしていた。

「おまえは利用されてんだって言ってんだよ。騙されてんだ! 何喜んでんだよバカが」
「ばっ、バカ?!」

 言いすぎだろと、完全に喜びへ向かっていた思考からいつもの対瀬戸内君へと切り替わる。
 
「喜ぶに決まってんじゃん! だって私ずっと会いたかったんだもん、手紙の人に!」
「はぁ? つまりおまえのストーカーってことだぞ? わかってんのか? こいつが俺にあのキモい手紙書いて届けさせてた張本人ってことなんだぞ?」
「わかってるよ。だって誰が書いてるのか知りたいって相談したのは私だもん。会いたかったの、私のことをずっと見てくれてる人に。だから今日私が書いた手紙を靴箱に入れて瀬戸内君が動くのを待ったんだけど、瀬戸内君が誤魔化すから上手くいかなくて。でもまさかこんな展開になるなんて……」

 考えもしない秘密の暴き方だった。なんてドラマティックなんだろう! 心配した瀬戸内君がここに来ることで、鉢合わせした私が真実に辿り着けるなんて。

「全部朔夜さんはわかってたんですね、こうなるって。でもなんで教えてくれなかったんですか? 手紙の送り主が自分だって。私、否定したりなんてしないのに」
「こいつの気持ち悪ぃ趣味のせいだよ」

 瀬戸内君だ。朔夜さんに聞いたのに、なぜかわざわざ横から入ってくる。何なんだろう本当にもう。

「反応見られてんの。わざわざこいつが用意したイベントに遭遇したおまえがどんな反応するのか見たいんだよこいつは」
「反応……そっか、絵を描くことが趣味だから。だから簡単に教えてくれておしまいにはならなかったんだ。そっか、それなら納得です」
「いーや、わかってないね。全然わかってない、おまえは何も」

 そう言うと、瀬戸内君は美術室の隣にある準備室に繋がる扉に手をかけた。
 開かれると、そこにはぎっしりと何枚もの絵が描き途中のまま置き去りにされていた。けれどその中にある数枚だけが、額縁に入れられ壁に飾られている。
 キラキラと輝く水飛沫の中を泳ぐ姿。表彰台で誇らしい表情でメダルをかかげる姿。仲間に支えられ涙を流す姿。そして、たった一人見送られることなく賑やかなプールを去る姿。

「……これって、」

 人々の視線から避けるように俯いて歩く姿。誰も居ない教室で一人取り残されたように自分の席に座る姿。自分の靴箱の前で手紙を食い入るように見つめる姿。真っ暗なプールに浮かぶ表情のない死体のようなその姿。

「全部……私?」
「そうだよ。これがこいつの気色悪い趣味」

 そう言うと、瀬戸内君は置き去りにされた中の一枚を私に見せる。そこには一人で校舎裏に居る桃華先輩の姿があった。

「こいつは人の人生のターニングポイントを全ておさめたいんだよ。だから目をつけられた人間はそれを強いられるんだ」
「それって……?」
「人生の節目を迎えさせられるってこと。おまえさ、自分の人生に起こったこと全部、自然と生まれたことだって思ってる?」
「……え、何が言いたいの?」

 朔夜さんの趣味が絵を描くことだって話だったはずが、いつの間にかだいぶズレてきた気がする。なんで私の人生の話? ていうかなんで競泳の選手時代の私の絵が? 桃華先輩と……あれ?

「これ……」

 柔道着に身を包んだこの人は、

「それは俺。でももうやめた。やめざるを得なかった。意味わかるか?」
「…………」
「俺もおまえと同じ。華やかな時代から失意のどん底まで経験させられた。こいつのせいで」

 瀬戸内君が指差す先、そこには朔夜さんが佇んでいた。