「こんばんは、小向さん」
「こんばんは……朔夜さん」

 今日も変わらず美術室に居た朔夜さんは、私がやって来るのをいつものように受け入れてくれる。まるで来るのがわかってたみたいに。

「どうだった? 瀬戸内君と話せた?」

 前回の話した内容を覚えていてくれたのだろう。

「はい。瀬戸内君が嘘をついてました。ストーカーとして私に嫌がらせをすることで私が苦しむ姿を桃華先輩に報告していたみたいです」
「そうなんだ。それで君はどう思ったの?」
「んー……その時は、ショックだなって思いました。騙されたって。二人とも私を気にかけてくれる人だと思ってたから、そうじゃなかったんだって」
「うんうん、なるほど。でも今の小向さん、そんなに悲しんでる感じが無いね。どうして?」

 確かに。言われてみればそれほど悲しくない。その時も思ったより悲しくは感じてなかったように思う。

「悲しいというか、がっかりの方が強かった感じですかね……悲しくなかったわけではないですけど。期待外れ、みたいな」
「期待外れ?」
「はい。私の願い、叶わないんだなって。瀬戸内君がストーカーかもしれないと思った時から私、期待しちゃってたんだと思うんです。この人が私の願いを叶えてくれる人なんだって。だって手紙でそう言ってたから」

 手紙の相談を先輩に持ちかけた時、次の手紙にそう書いてあったのだ。『君の願いを叶えてあげる』って。

「今までの全部がそのためだったんだって思ったんです。でも違った。現実は正反対。二人とも私のことを自分を慰めるために利用していただけだった」
「そっか……酷い話だね」

 同情するような瞳で私を見る朔夜さん。でもそれに違うのだと首を振る。だってまだこの話は終わりじゃない。

「だけど、瀬戸内君が言うには、二人だけじゃなくてもう一人居るらしいんです」
「……なるほど。つまり二人の協力者ってこと?」
「それが、なんとも複雑みたいで……教えてはくれないんです。言えないって言っていて」
「へえ?」

「言えない人ねぇ……」と、朔夜さんは興味でいっぱいにした目で私を見ながら呟く。「教えてくれなかったんだ」と。

「付き合わされてるって、思えば前からよく瀬戸内君がそのフレーズを言っていたと思うんです。でも桃華先輩のことかなって思ってて、だけどそれだけではないみたい。そうだ、手紙。手紙も瀬戸内君が入れてたんですけど、それも桃華先輩じゃなくて違う人が送り主みたいなんです」
「それって君の靴箱に毎日入ってる手紙のことだよね」
「そうですそうです。だから結局、ストーカーは瀬戸内君だったけどそうじゃなかったというか、二人で一人だったというか——そう、居るんです、もう一人」

 私のことをずっと見てくれている人。
 私の全てを知っていて、私の願いを叶えてくれる人。

「そんな人居なかったんだって思ってたところに知った事実で、私、嬉しくて」

 そう、私は今、とっても嬉しい。

「思えばずっと私のためにその人はメッセージをくれていたんです。始めはびっくりしたけど、今はもうこの人だって思いが強くて。だって私の周りに私を見てくれる人なんて居ないから」
「俺は?」
「さ、朔夜さんだって思ったりもしたんですけど、なんかそれは恐れ多いなって思い直したっていうか、瀬戸内君に止められたからかも……もしかしてそれも奴の作戦?」

 先輩は朔夜さんのせいでおかしくなったって瀬戸内君は言っていた。別にそれを信じたわけじゃないし元々先輩はおかしかったんだって思うから、朔夜さんは先輩の件に関してはきっかけに過ぎなかったって受け取り方をしている。
 でも先輩にその熱量の感情を向けられても素直な子、くらいの感覚でいる朔夜さんだから、私のことを見てくれて気にかけてくれていたとしてもそこまで大きな感情じゃないんだろうなと思ったから、だからやっぱり私には手紙の人しか居ないんだって思い直したけど……瀬戸内君の言葉が、暴露がなかったらそうは思ってなかったのかも。
 なんかどうしても朔夜さんと引き離したいみたいだったし。

「もしかしたら瀬戸内君は、手紙の人と私をひきあわせようとしてるのかも……そう指示されたとか? だって美術室に行くなってしつこいし」
「ふっ、しつこいんだ」
「そうなんです。利用されてるぞって言うんです。そうしていたのは自分達なのに」
「まぁ、俺も君たちを利用してはいるよ。前に言った通り絵を描くためにここに居るわけだし」
「でも騙してたわけではないじゃないですか。ちゃんと話してくれたし、聞けば色々教えてくれるし」

 あいつとは違う!と、一生懸命説明する私に、朔夜さんはいつも以上に笑っていた。どうやらそんな私の反応をみるのが面白いらしくて、さすがの私も恥ずかしくなって口を閉じる。

「あぁ、ごめんね。バカにしてたとかじゃないよ」
「わかってます」
「と、言いつつ納得いってないね。なんだろ、微笑ましいっていうのかな……もっとクールな感じの子だと思ってたからかな」
「クール……」

 でも、そうかもしれない。

「朔夜さんはなんか、落ち着いてて話しやすい感じがします。だからかな。私、面白い人間ってわけでは無いですし……」
「そうかな」
「そうです。だって嫌われてばっかりだし、この学校に来ても友達の一人も作れない、誰にも見られない存在なんです」

 誰にも否定されない、誰にも知られない新しい人生を始めるつもりでここに来て、誰も私を知らないことの現実を理解した。その人生に何の価値もなかった。
 でも過去に戻りたいわけでもない。先輩から告げられた事実を知って、知っていた以上に辛い現実を知って、もうこれ以上、同じことを繰り返したくないと思った。過去に戻りたくはないし、過去を繰り返したくもない。
 でも、今のこの現状は違う。違うのだ。

「桃華先輩と瀬戸内君に高校に入って関わるようになってから、二人を信頼する内に、段々と人の目とか友達とかそういうのがあんまり気にならなくなってたんですけど……まぁ、それも全部作り物だったので、結局といったところです」
「もう瀬戸内君は友達じゃないの?」
「……どうなんでしょう、わかりません。この間までは言い切れたんですけどね。今はよくわからないです」
「そっか」

 うんと一つ頷いて、朔夜さんが言う。「寂しいんだね」って。

「寂しい……? 私が?」
「そう。始めからずっと、君は寂しかったんだ。気づいてなかったみたいだね」
「…………」
「だから誰かに見て欲しくて、手紙の主の存在に縋ったんだ。その寂しさを埋めてくれる、理解してくれる人を探していたんだよ」

 朔夜さんが私の感情の答えを今、優しい声色にのせて教えてくれた。私は今、寂しくて、だから誰かに見て欲しいと願っているのだと。
 ——本当に?
 私のこの思いは、本当にそんなに可愛いものなの?

「寂しいのは、確かにそうです。でも、」

 ——違う。そんなもんじゃない。

「私のこれは、そんな熱量のものじゃない」

 競泳の選手として有名だったあの頃の私が巻き込まれた、様々な激しい感情の渦。その渦中に立ち続けることが私には出来なかった。精神的にも、身体的にも参ってしまってそこから逃げ出したのだ。
 今だってもうあの熱量で否定されるなんてこと、一生味わいたくないと思う。あの選別し、粗探しする人間の目。そこに居るだけで不快だと露わにする目。今でもたまに夢に見るくらいだ。
 でもその一方で同じくらいの熱量の別の感情を持った人々も存在していた。その人たちから向けられた、私を崇め、讃えるような目。称賛と敬愛に溢れたあの目。
 あの目に見られる感覚だけが忘れられず、あの感情を向けられる瞬間に今なお焦がれている。
 私を見て。
 私はここに居る。
 あの日、惜しまれながら引退した私。
 でも、私の物語は、人生はまだ続いている。
 可哀想で可愛い私が今ここに居ることに、何で誰もきづかないの!
 ——ずっとずっと、心の中で叫んでる。誰も気づかないで。そんな気持ち消えてなくなってしまえ。バレるのが怖い。また同じことにはなりたくない。だから関われない。普通の人との関わり方なんてもうわからない。だけど、

 誰か、気づいて。

「私の願いを叶えられるのは手紙の人だけです。私の思いにきっと、その人は答えてくれる。手紙が入っていて、その人の存在を知って私の願いは叶ったと思ったのに、私、どんどん欲張りになってるんです」

 あぁ、どうしても、

「手紙の送り主が誰か知りたいんです。朔夜さんは知っていますか?」