その廊下にストーカーが居ない、なんて考えたこともなかった。だって最初にその人影を見かけたのは私だ。それをストーカーだったと瀬戸内君に相談したのも私。
 その時の瀬戸内君はその人影がストーカーじゃないかもしれない可能性を指摘していた。それでもそっちに賭けなかったのも私で、ストーカーと話をすることを提案したのは瀬戸内君。
 その夜、校舎の窓に居るのを見つけたって、先に行くって瀬戸内君が走り出して、後を追った私は初めて美術室で朔夜さんに会って、その帰り、瀬戸内君は校門で待っていた。逃したんだって言ってた。次の時もそう。
 当然、そこに毎回ストーカーは存在しているものだと思っていたけれど——……

『どっちを信じる?』

 家に帰っても、ぐるぐるとその問いが頭の中を巡っていた。

 それは、あの時その場にストーカーが居たのか居なかったのか、どちらを信じる? ということ?
 つまり、瀬戸内君と朔夜さんのどちらが本当のことを言っているのか、ということ?

 でもストーカーは居たはず。だって最初に私が見たんだから。でもあの時は朔夜さんの存在を知らなかったから、もしかしたら偶然教室の前に居た朔夜さんだった可能性もある。だけど朔夜さんが私に見つかったことに気づいて走って逃げる? ……逃げたりしないと思う。そのまま歩き去るか、美術室に戻ると思う。
 じゃああの日の人影は? ストーカーじゃないとしたら、美術室の悪魔に会いにきた生徒がたまたま私を見つけて驚いて帰ったとか? でも次の日そんな話は誰もしてなかったし、プールの水死体の噂も嘘なわけだし……だけど全て完全に否定することは出来ないから、そうである可能性もある。

 ——じゃあ逆にもし、瀬戸内君が言っていることが嘘だとしたら。

 ストーカーは始めからそこに居なかったとしたら。
 瀬戸内君が見た校門の方へ行った人が居るという発言がそもそも全て嘘なのだとしたら。
 それなら簡単に物事の辻褄があう。だって始めの一回以外は瀬戸内君しか見てないんだから。本当は人影なんていなかった、でおしまい。
 でもそんな嘘をつく必要ある? ストーカーの存在を私に意識させたかった? なんで? 自分とストーカーは別の存在だと刷り込みたかったから? 

 ストーカーは実在している。でも夜の校舎に私達以外は存在しない。

 ——存在するものの中にストーカーが居るのだとしたら?

「ないない、あり得ない」

 何を言ってるんだろうと、夢から目覚めるために自分で自分の頬を叩きたいような気分だった。だって、そうなると自然とひとつの仮定が浮かび上がってきたけれど、絶対にそれはあり得ないものだったから。だって、

「瀬戸内君が私のストーカーなんて、そんなこと地球が逆回りするくらいあり得ない」

 本人にだってそんなこと言えない。とんでもない勘違い女として口も聞いて貰えなくなるだろう。俺のことを侮辱するのかって言われそう……いや、それは言い過ぎだろ、いい加減にしろ。
 なんて、心の中の瀬戸内君に言い返しながら、ベッドに潜って目を閉じる。

 瀬戸内君は怪しい。謎がある。そうは思っていたけれど、これはないだろう。だってそのせいで毎日私に付き合わされてあんなに迷惑そうにしてるんだから。そもそも私のこと嫌いすぎだろと思ってたくらいなんだから。
 まるで狙いを定めていたかのようなタイミングで瀬戸内君の謎に触れるあの人は、本当に何でもお見通しのようで怖かった。普通の人だと思ったのに、やっぱり違う? なんでこんなこと知ってるんだろう。
 嘘だと、揶揄われているのだと思えなかった。だってストーカーのことを私から彼に話したことはなかったから。なんでも知ってる人っていうのは本当なのかもしれない。だからこうやって関わっていくなかで、勝手に真実を知ってしまうことになるのかも。
 それはとても怖いことだと思った。怖いけど、でもそれが隠された真実に近づくってことなのかなとも思った。

 覚悟が必要なのかもしれない。
 現実を知る覚悟。私の願いを叶える覚悟。あの人は知っていて、その方向へ私を導いている。そんな気がする。
 彼は私の全てを知っている——それはとても恐ろしく、それと同時に、私にとって最後の希望でもあった。





「帰るぞー」

 今日も瀬戸内君は迎えにきてくれる。いつも通りにめちゃくちゃだるそうにしながら。それは何も変わらない毎日の日課だった。
 それにいつもとは違い、「私のためにいつもありがとう」と、声をかけてみた。すると瀬戸内君は、眉根を寄せながら嫌そうに、「本当にな。いつ終わらせてくれる?」と答えてくる。うん。想定内だ。

 朔夜さんに会って話してからたくさん考えた。どうするべきなのかって。
 瀬戸内君の言う通り、騙されたままの方が幸せなこともあると思う。でも、私の願いは騙されたままでは叶わないのだと思えば、その勇気が湧いてきた。

 ——『どっちを信じる?』

 必要なのは覚悟。真実を知り、現実を変える覚悟。
 今日その一歩を踏み出すのだと決めていた。

「じゃあいつ終わると思う?」

 いつものように靴箱へ先に向かう瀬戸内君の背中に覚悟と共に問いかけた。私の問いに、先ほどのやりとりをただの挨拶のようなものだと思っていた瀬戸内君は、少し驚いたような顔で振り返ると、

「……おまえが満足したらじゃね?」

 じっと私を見つめてそう答える。だから、

「じゃあ終わりにしよう。もう大丈夫」

 そう、瀬戸内君に告げて彼の背中を追い越した。すると慌てて追いかけてくる足音が聞こえてくる。瀬戸内君のものだ。瀬戸内君は私の隣に並ぶと、らしくない、慌てた様子で訊ねてきた。

「おい、急に何? どうした」
「別に。特に被害もないし、もういいかなって思っただけ」
「頼まれてんだよ、放り出せないって言ってんじゃん」
「桃華先輩にだよね? 聞いてみたら、私の好きなようにしてみたらいいって言ってくれたよ。瀬戸内君に伝えとくって。応援してるって」
「は? 本当に?」

 ありえない、そんなはずないと顔に書いてあるような瀬戸内君のその反応。

 ……そうなんだ。

 かまをかけただけだった。本当は桃華先輩になんて聞いてない。でも、もしかしてと思ったから。

「あれ?『マジ? やったー!』って顔じゃないね。せっかく解放されたのに。なんで? 私の面倒みるの、嫌々やってたんだよね?」
「…………」
「その反応はさ、そんなこと桃華先輩が言うはずないってことかな。桃華先輩が私から瀬戸内君を離す訳ないって、そう言い切れる理由があるってこと?」
「…………」

 瀬戸内君は何も答えない。きっと、全部当たりなのだ。

 そもそもなんで瀬戸内君が私の側に居るのかというと、それは先輩に私をストーカーから守るよう頼まれたから。でも私を恨んでいた先輩がそんなことしてくれるのかなと疑うと、もしかしたら瀬戸内君はストーカーから守ること以外の何か別の役割の為に私の側に居るよう頼まれたのかもしれないと思いついた。

 そうすると、ぼんやりと他の道筋が見え、答えが出てきたのだ。どっちを信じる?の答えが。私の現実の答えが。

「もしかしてさ、先輩とグルだったんじゃないの?」
「……は?」
「私をストーカーから守る為、なんて言いながら、君と先輩には別に他の思惑があった。違う? だから今、俺は何も言われてないぞって顔してるんだよね? でもそうだよ、それで正解。別に私、先輩にそんなこと言ってないし言われてないもん。あの先輩に話しかけに行くわけないじゃん」
「…………」

 瀬戸内君は黙って私を見つめていた。それは核心をつかれた犯人の、まるで悪事が明るみになって何も言えない時の反応に似ていた。
 やっぱりそうだったんだ。だったら先輩の人間性を話しても驚かなかったのもわかるし、美術室の悪魔がどんな存在なのかももちろん、初めから理解していただろう。噂の全容も、それが存在しなかったことすらも受け入れているようなあの時の反応の答えも、これだ。

「例えば……そう。先輩に私のこと監視して報告するよう頼まれてたとか。先輩は私が悩んで苦しむ姿を見たかったみたいだから。手紙の相談をしに来た私に先輩がそれを思いついて、私と同い年で元々知り合いだった瀬戸内君を利用することを考えた。そうじゃない?」
「…………」
「先輩から聞いてたんなら私のことを始めから知ってたのも嫌ってたのもちゃんと繋がるし、何でも瀬戸内君と一緒に行動するよう言われたことも納得できる。逃げ出さないか見張ってたんだよね? それでさ、私が苦しむように、もっと思い悩むように、嫌がらせのいっかんで君は守る振りをして別の存在として刷り込みながら、ストーカーの役割もしていた。違う? だって夜の校舎に私達以外の人間は居なかったんだから。ストーカーがいたっていうのは、君の嘘だったんだよね?」
「っ!」

 ——どうやら、これも正解らしい。
 初日の私が見た人影も瀬戸内君だったのだとしたら何もおかしくない。むしろ理屈が通る。あの日私が泳ぎに来るのを瀬戸内君は知っていたのだから。それ以外に私が一度も人影を見ていないのは、隣に本人が居たからだ。
 桃華先輩とグルだと仮定して、“私のストーカーなんだから私のことが好きな人間なんだろう”という前提を崩してみると、答えはあっさりと出た。
 これも全て、朔夜さんの言葉があったから。そのおかげで、もし瀬戸内君が私のストーカーをするとして、その理由は?の先にある、でも私のこと好きじゃないし、あり得ない、と、考えるのを止めてしまった答えに辿り着くことが出来たのだ。

 ストーカーの正体は、瀬戸内君だった。

「……おまえさ、それ、一人で辿り着けたと思えねーんだけど」

 そして、瀬戸内君は瀬戸内君で、今のやり取りだけでその存在を察したようだ。

「行ったな? 美術室」
「……行ったけど、何?」
「やめとけって言ったはずだけど。真相なんて知らなくていいって」
「でも私はこの真相に辿り着いて良かったと思ってる。何を信じればいいのかがわかったから。私のことを見てるストーカーなんて居なかった。私を気にかけてくれる人なんて居なかった。そういうことだよね?」
「…………」

 瀬戸内君は答えない。それを肯定の沈黙だと受け取った。
 虚しさ一色に、心が染め上がる。

「もういい。わかった」

 結局、そういうことなんだ。

「私のことを気にかけてくれるのは、私のことをわかってくれるのはもう、美術室のあの人だけ、」
「それは違う!」

 すると突然、遮るように瀬戸内君が否定の声を上げる。初めてのことに思わず言葉を引っ込めて瀬戸内君を見ると、真っ直ぐにこちらを見つめる彼の視線が突き刺さった。

「おまえの言ってることは正しい。でも、苦しめようだなんて思ってない。それだけは本当。本当だからさ、だからおまえ、それだけはやめろ」

 それは真摯な態度だった。そして初めて見た、瀬戸内君の必死な形相。彼の訴え。

「あいつを信じるのだけは絶対にやめろ!」
「……何で?」
「騙されてるんだよ、あいつに。利用されてる」
「でもそれは君と先輩も同じだよね。私を騙して自分の都合に利用して、それを隠してた。でもさ、君達と違ってあの人は本当のことを教えてくれたよ。君達とは違う信じられる人だよ」
「だからっ、そうして先輩もおかしくなったんだってなんでわかんないんだよ!」

 ——そうして先輩もおかしくなった、だって。
 何言ってんだろこの人。

「違うよ。先輩は元からそういうおかしさを隠してた人だったんだよ。知ってるでしょ? だってあの人、私のこと始めからずーっと嫌ってたんだよ?」

 そう本人から面と向かって言われたのだ。気づいてなかった。先輩はもちろん、他の仲間にも嫌われていたなんて。自分がどれだけたくさんの人に嫌われてきたのかなんて、今更知らされてもどうにもならない。

「知りたくなかった。でも、知らなかったら今もずっと私は呑気に先輩のことを信頼してた。君のことも」

 その現実の方が辛いから、だから、知ることが出来てよかったと思う。もう騙されない。騙されたまま、夢なんてみない。

「結局、私は誰にも見られてないんだ」

 ……本当はもうこれでいいかもって、少し思えてたのに。