一度疑ってしまうと気になって仕方なくて、心がそわそわ、ざわざわしてしまう。前だったらこんな時は桃華先輩に相談しに行っていただろうけど、今は当然そんなことする気にはなれなかった。
 でも、だからといって瀬戸内君本人に相談することもできない……だってもう気にしない方がいいって言われてるから。何か隠していたとしてすんなり教えてくれるわけがないだろうし、まだそんなこと考えてんのかよと誤魔化されておしまいだと思う。

 知らない方がいいこともある。でも、知りたくなってしまう。瀬戸内君のことも、美術室の悪魔のことも。それがどういう結末を呼び寄せることになってしまったとしても、そんな悪い予感がしていたとしても、探って暴こうとしてしまう。そんな人間の性を自分に感じる……無駄な探究心ってやつが私の中にも存在していた。
 結局私はどうしたらいいんだろう。

 ——よし。こんな時こそ一度泳いでスッキリしてしまおう!

 と、いうことで。夜のプールに今夜、私一人でやってきた。
 瀬戸内君に言ったら止められるだろうと思ったから、今夜のことは誰にも言っていない。まだストーカーの件が解決していないけど、実際には特に被害にあってないのと、私の全てを知っているようなその人のことを存在として認めつつあったから、だからもういいやと思った。
 現れたら現れたで確認したいことがあったし、会ってみたいとも思ってる。今のところ瀬戸内君しかその人に会えていないけど。
 どうせ私の周りは謎だらけだ。瀬戸内君でさえそう。だったらもう、みんな同じだ。同じ私の身の回りの人間で、桃華先輩と同じ、どんな気持ちで私と接してるのかわからない存在。その謎が解きたいと感じてしまうのも仕方のないことだ。

 着替えを終えて水に入ると冷たさに頭が冴えた。
 ——なんでこんなに知りたいんだろう。
 泳ぐ内に空っぽになった頭の中に、自分の心が現れる。
 ——私は今、自分が価値のある人間なのかが知りたい。

 一通の手紙から始まったこの物語は、私の願いを叶えるために進んでいる。それは着々と望んだ方向へ向かってる。誰にも言っていない、私の秘密。

 私の存在はここでも価値があるのか、それが知りたい。

 そう思うと、無意識に第二美術室のある廊下の窓を見上げていた。
 秘密を暴く悪魔がいる、その教室。そこに行けば何でもわかるらしい。

「…………」

 だったら、行くしかない。
 泳ぐうちに水に流されて心に残ったのは自分の本心で、迷うことなくプールを上がると着替えを済ませて校舎へと向かった。入り口に着くとそこに鍵はかかっていなかった。つまり、

「居るんだ」

 今日もそこに、美術室の悪魔は存在している。
 階段を登り終えて廊下を進むと、一番奥から手前にあるその扉を開いた。

「こんばんは、小向さん」
「……こんばんは」

 そこには、にっこりと微笑む美術室の悪魔の姿があった。
 

「来ると思ったよ。知りたいこと、他にもあるもんね」

 彼はそう言って、いつものキャンバスの前に座っている。今日もそこに絵は描かれていない。私は前回と同じ椅子に座ると、早速話を始めた。

「桃華先輩と話しました。あなたの言ってることはあっていて、私は先輩に嫌われてた。でも、今はもう許したって、新しい関係でやっていこうと言われました」
「そうなんだ。よかったね」
「よかった……まぁ、そうか、そうですね」

 よかったと言われると複雑だけど、でも、確かに。私と先輩の関係性としては一件落着という感じなのだろう。あとは時間が経って丸くなるのを待つだけ、なのかも。

「あの、桃華先輩の状況こと、知ってたんですか?」
「状況って?」
「あなたに夢中というか、信じきるようになっちゃってる、みたいな……」
「あぁ、うん。まぁ、そうだね。彼女、素直な良い子だよね」
「素直な良い子って……」
「彼女の心は彼女のものだから、そこに特に拘りはないよ。そういう人なんだな、くらい。それよりもさ、君だよ」

 すると、グッと興味と好奇心を込めた瞳で前のめりに私を見る綺麗なその人に、身体がギュッと縮こまり、防御態勢をとった。いつものさらりとした感じと違う。

「今日は何だかびくびくしてないね。覚悟してきてる感じがある。なんで?」
「し、知りたいことがたくさんあったので」
「そうだね。たくさんあると思う。何から聞く? 何でもいいよ」
「何でも……」
「うん。だから俺は“美術室の悪魔”って呼ばれてるんだよ」

 爛々と輝く目で見つめながら楽しそうにそんなことを言うこの人に、それも知ってるんだ、と思った。自分が噂される存在だということを。悪魔のような、非常識な存在だということを。

「なんでここに居るんですか? この学校の生徒……というか、高校生でもないですよね?」

 だから、流れのままにそう訊ねていた。怒るかなとか、失礼かなとか、そんなことはこれっぽっちも思わなかった。

「瀬戸内君——友達は、不審者だって言ってました」
「不審者って言われちゃったか」
「でも校舎には鍵が無いと入れないはずですよね? 鍵を持ってるなら学校関係者ってことなのかなとも思うんですけど、でも夜の美術室に居る理由がわかんないし、絵を描きにきてるわけでもなさそうだし」

 ちらりと白いキャンバスに目をやる。何も描かれてないのはいつもと同じだ。

「あなたは何者ですか?」

 そう訊ねると、彼はうんうんと頷いた。それで正解とでもいうように。

「俺の家族がこの学校の関係者なんだ。だから特別に鍵をもらってる。見たいものがあるんだ」
「見たいもの?」
「見たことない一面、っていうのかな。その人の全部、みたいなものを絵におさめたくて、だから無理言ってお願いしてここに居場所をもらった。そうして噂を作って流すと人が来るようになったよ。でも最近は新しいものが見れてないから、絵も進んでない」
「はぁ……なるほど。つまり人物画を描くためってことですか? 高校生くらいの?」
「そうだね。その頃が一番いろんな面を見せてくれる頃だから」

 そう言われると、普通ではないなと思いつつも、何だか納得してしまった。
 無理言って夜の学校で描くのも昼間は大学に通ってるとか、仕事があるからとかかもしれないし、噂を聞いて忍び込んできた子にこうして対面で心の内を晒してもらえれば、きっと普段見えない部分も見えてくるはずだ。その内の一人が桃華先輩だったのなら、桃華先輩がこの人に全てを話していたことにも納得ができる。
 どんな理由があるのかと身構えた分、あっさり告げられた答えは何の謎も含んでいないように感じられた。桃華先輩の暴露よりちゃんと理解できる内容だった、というか。
 ちょっと安心したかも。それと一緒に、少しだけがっかりしたな。期待外れ、というか。
 
「何か、思ったより普通な感じで驚きました」
「そう?」
「はい。だって悪魔、なんて言われてますし。でも話してみると普通に人間ですね」
「そりゃそうだよ。他の人から聞いたから秘密を知ってるってだけだしね。で? あと知りたいことは?」

 笑顔でそう訊ねてくれる悪魔さんに、「えっと、じゃあ、お名前は?」なんて。始めはそんなこと訊こうとも思ってなかったのに警戒心が解けた分口が自然と動いていて、それに彼は何も迷うことなくこう答えた。

朔夜(さくや)
「朔夜さん?」
「そう。ペンネームみたいな。よかったら小向さんも悪魔じゃなくてそう呼んでね」
「あ、はい……すみません」

 なんで謝っちゃったのかは自分でもよくわからなかったけど、悪魔呼ばわりしているのとともに疑っていた自分の心の中を覗き込まれた気がして、なんだか申し訳なさに居た堪れ無くなった。流れで聞いたとはいえ色々聞きすぎちゃったかなとか、結局普通の人なんだったら私の知りたいことってこの人は知らないんじゃないかな、とか。
 そうなるとあれだけ気合いを入れて来たというのに、とりあえず今日はもういいかな、という気持ちになってしまい、「そろそろ帰ります……」と、立ちあがろうとすると、目の前の朔夜さんから「ちょっと待って」と引き止められる。

「今日は瀬戸内君居ないの?」
「あ、はい。訳あって今回は秘密で……」
「そっか。でもそれでいいと思う」
「? 何でですか?」

 特に何も違和感を抱いたとか、異変を感じたとかそういうものもなく、自然と口にしていた続きを求める問いかけ。それに悪魔——もとい、朔夜さんは、こう答えた。

「だってこの教室の前の廊下に俺達以外の存在なんて、始めからずっと居ないから」
「……え?」

 突然何を言い出すのかと驚いた。
 この教室の前の廊下に、私達以外の存在なんてない? どういうこと?

「あ、ストーカーの件ですか? あぁ、今日は居ないからってことですね? なるほど。ていうか朔夜さん、そのことも知ってたんですね。あ、桃華先輩から聞いたのか」
「今日はじゃなくて、ずっとだよ。ここに俺と君達以外の人間が居たことはないはずなんだよね」
「……えっと、え? ちょっとよく、わからない……です」

 え? 何? どういうこと? 今この人は何を言ってるの?
 この廊下には誰も居たことがないはず——?
 それってつまり、

「……ストーカーは存在しない、ってことですか?」
「でもそうなると手紙が入ってる理屈が通らない」
「そ、そうですね。じゃあストーカーは存在している。だけど、そこの廊下には居ない……」

 いや、そんなわけがない。だって瀬戸内君が毎回見つけてるから。見つけて、追いかけてくれて、それで見失ったって、校門から出てったって——

「どう思う? 小向さん。どっちを信じる?」

 ——それは、一体どういう意味?