「おーい、帰るぞー」

 瀬戸内君だ。今日も律儀に桃華先輩との約束を守って教室まで迎えにきてくれる。
 この高校に入るためにお世話になったって言ってたけど、瀬戸内君は知ってるのかな、桃華先輩のこと。先輩があんな人だったってこと。

「? おい、小向?」
「うん。今行く」

 聞いてもいいのかな。話してもいいのかな。

「何だよ、今日も体調悪いのか?」
「ううん、大丈夫」
「そういえば昨日のこと話したら先輩がおまえのこと気にしてたけど、先輩と話した?」
「あーうん。今朝校門のところで。そういう時はいつも校門で待っててくれるんだよ。言ってなかったっけ?」
「知らない。まぁ別におまえと先輩のあれこれなんてどうでもいいけど。ただまた先輩から厄介な頼みごとされないか心配しただけ」
「うん。まぁ、そうだよね」

 瀬戸内君はそういう人だ。でもちょうど先輩の話の流れになったから、それとなく聞いてみようかな。

「あのさ、瀬戸内君は先輩のことどう思う?」
「どうって? 面倒だとは常々思ってるけど」
「じゃあそんなに面倒なのに何で言うこと聞くの? いくら入学の際にお世話になったとしてもさ、ここまでずっと付き合ってくれるのおかしいよね?」
「……何が言いたいわけ?」

 すっと瀬戸内君の視線が鋭くなる。まるで何かに警戒するように。
 ……もう、言っちゃってもいいかもしれない。

「もしかしてなんだけど、桃華先輩が結構やばい人だって瀬戸内君は知ってたのかなって思って。先輩、ちょっとおかしいよね?」
「……は?」
「瀬戸内君、脅されてたりしてない? 私のこと監視するために利用されてるとか、何か弱みを握られてるとか……」
「何。おまえは利用されてたの?」
「! いや、そうじゃないんだけど……」

 慌てて否定しようとして瀬戸内君を見ると、さっきまでの視線の鋭さは無くなっていて、ふっと力を抜いた顔で私を見ていた。それになんか、何だろう。許されたような気持ちになる。心配されてるような、慰められてるような、聞いてあげるよと言われているような。
 
「……先輩、私のこと恨んでたんだって」

 もう全部言っちゃえと、口が勝手に動き出していた。一人で抱えるには大きすぎたのだ。

「私が先輩から泳ぐ場所を奪っちゃったんだって。だからプールの水死体に……そう、その噂も嘘でさ、本当は美術室の悪魔の人に鍵もらって、噂も作ってもらったもので、それで私を自分と同じ死体にしたかったんだって。全部嘘だったの、私のためだったものは一つもなくて、今日、同じとこまで落ちた私が見れたからもう全部許すって、だからこれからはまた新しくやっていこうって言われた」
「…………」
「なんかもう私が知ってた桃華先輩と何もかもが違くて、話してる間ずっと怖くてさ、もうなんか嫌われてたのもショックだったけど、そんな人だったんだってことの方がショックが大きかったというか、だったら瀬戸内君はどうなんだろうって、知ってたのかなって思って……今、聞いてます」
「…………」
「プールの水死体って噂、嘘なんだって。先輩に教えてもらったって瀬戸内君も言ってたよね? でも悪魔の人が作った嘘だって。受け継がれてきたものなんかじゃないんだよ。ずっと騙されてたんだよ、桃華先輩に。もしかしたら瀬戸内君の方にもそういうのあるかもしれない。騙されて、付き合わされてること」

 話しているうちに、さっきまでショックだとか、悲しいだとかと感じていた心にじわじわと悪意が生まれてくる。ずっと騙していたなんてと、私の信頼を裏切ったなんてと、怒りが込み上げてくるとともに、瀬戸内君をこちらに引き摺り込もうと、同じ気持ちだよねと確認して先輩を孤立させようとするような、醜い気持ちが生まれてくる。

「瀬戸内君も、もう関わらない方がいいよ。先輩、ちょっとおかしかったよ。美術室の悪魔の話をしだしてから目がおかしくて、とにかく信じ切ってるみたいな、こう、ちょっと宗教じみてる感じで。人のこと妬む人ってやっぱり心が弱いんだろうな、みたいな、」
「おまえは美術室の悪魔には会ったの?」

 その訊ねる言葉にはっと我に返る。悪口に夢中になっていた自分が居ることに気が付いたからだ。恥ずかしい。

「あ、悪魔ね。会ったよ。会って話した。それで先輩が私のこと嫌ってるとか、そういうことを聞いた」
「あぁ、それで昨日の帰り変だったわけ?」
「そう。そんなわけないとか、そんなの嘘だって思いながらも心がぐちゃぐちゃで」
「そっか。知らないままでいられた方が幸せだっただろうに」
「……うん」

 知らないままでいられたら幸せだった……そんな風に考えてなかったけど、本当だ。知らなければ今頃今日も心配してくれたって、やっぱり頼りになる素敵な先輩だって、幸せな気持ちでいられたのに。

「知らない方がいいことってあるよな。もしかしたらおまえは騙されたままの方がいいタイプの人間なのかも」
「え……どういうこと?」
「だって美術室に居るのは天使でも王子様でもないことも知ったんだろ? 悪魔よりそっちのがよかっただろ、夢があって」
「そ、それは確かに」
「これ以上夢が崩れない内にさっさと忘れちまえ。もう行かない方がいいんだよあんなところ。いいことなんてないだろ、秘密を暴いたってさ」
「……うん」

 行かない方がいいと、瀬戸内君は言う。なんか、前にも言われた気がする。

「何も変わらないことがあったっていいんだ。それがその時の自分。十年後にはどうでもよくなってるよ」
 
 そう言った瀬戸内君は話が済んだとばかりに歩き出すので、私もそれに続いた。

『十年後にはどうでも良くなってる』

 確かにそう言われるとその通りだなと感じて、今目の前のことですぐいっぱいいっぱいになってしまう自分は少し、そういう考え方をしてみてもいいのかもしれないと思った。
 今自分の周りで起こってることがあまりにも刺激的過ぎたから。全部に立ち向かってたら心がボロボロになってしまうかもしれない。美術室の悪魔のことだって——あの人がどういうつもりであそこに居るのかだって、結局何もわかってないんだし。
 そういえば、瀬戸内君はあの人について、どこまで知ってるんだろう。


 靴箱に着くと、いつものように靴箱の扉を開ける。今日も手紙が一通入っていた。

『その男は信じられるの?』

「……その男?」

 って、誰のこと?

 心の中で首を傾げたちょうどその時、「今日はどうだった?」と、呑気にやってきた瀬戸内君を見て、あぁ、瀬戸内君のことかと理解した。だってきっと、私達がいつも一緒なのを見てるはずだし。
 でも、その男は信じられるのかって言い方が、妙に引っ掛かる。桃華先輩のことがあった後だからだろうか。ていうか、先輩のこともこの手紙の人は知ってるってこと? だってそうだよね、その男はってことは、比べる対象があるはずだ。今朝校門で話してたから? それを聞いていた? どこで聞いてたの? それとも元々知ってた?

「これ、美術室の悪魔のことじゃね?」
「え?」

 横から口を挟んだ瀬戸内君の言葉にハッとする。確かにその線もあるかもしれない。

「だってこいつ、おまえが美術室行ってんの知ってる可能性あるだろ? いつも美術室の前に居るわけだし、昨日も見られただろうし」
「確かに……そっか、私てっきり瀬戸内君のことかと」
「おまえ元から俺のことなんかこれっぽっちも信じてねーじゃん」
「いやいや一番信じてるまである……あ、いや、でも裏切りそうでもあるか……だけど裏切られてもやっぱりそういうことねって案外受け入れられる感あるからやっぱり信じてないのかも……」

 瀬戸内君と私の関係だ。約束を破られることはないと思ってるけど、言ってることはどこまで本当かわかったもんじゃないなとも思う。彼、捻くれ者だし。

「どっちでもいーわ。俺は俺でしかねぇし、あんま期待しない方がいいぞ」
「それは大丈夫」

 期待はしてないよと答えると、瀬戸内君は怒るかと思ったら笑ってた。何が面白かったのかはさっぱりわからなかったけど。

 そうして二人並んでいつもの帰路に着く。駅で別れて、電車に乗って、自宅に着いて一息ついた。

 桃華先輩のこと、思ったよりも尾を引いてない自分がいる。瀬戸内君に全部話せたからだろうか。結局何がわかったわけでもなかったし、考えるのやめて放り出した感じはあるけど……あ、そういえば昨日瀬戸内君はストーカーに会えたのかな。何も聞けなかったしすっかり忘れてた。でも今日も変わらず手紙が入ってたから本人は元気なんだろうけど。てか、結局先輩のこと知ってたのかも、答え聞けてない……。
 そういえば先輩のことを話した時、驚き、みたいなものは見られなかったように思う。私は物凄く驚いたけど、瀬戸内君は先輩の本性の話も、美術室の悪魔との繋がりも、みんな黙って聞いていた。黙って聞いて、すんなり受け入れていた。噂の話も。
 ……あれ?

「そんなこと、出来る……?」

 よく考えたら聞いたことにもちゃんと答えてもらってないような気がする。もしかしたら今までずっとそう? あれ? 考えすぎ?

 桃華先輩の件があったから疑り深くなってるのかもしれない。疑ったって何のいいこともないわけだし、余計なことは考えない方がいいはずだ。そう、さっき瀬戸内君も言っていた。秘密を暴いたっていいことないって。でもそれは秘密があること前提の話だ。まだ今回のことの他にも秘密があるのを知ってるから出た言葉?
 いや、桃華先輩の秘密を暴いたからって話の流れだったよね。そのきっかけが美術室の悪魔に会ったせいだから、もう美術室には行くなって話で、でも瀬戸内君、美術室にどんな人が居るのか始めから知ってたよね? あ、桃華先輩から聞いてたから? それとも自分が行ったことあるから? じゃあその時瀬戸内君は一体誰の何の秘密を知ったんだろう……。

 考えれば考えるほどどんどん謎が浮かび上がってくる。てゆーか結局あの人は何者?

『その男は信じられるの?』

 鞄の中に押し込んだ手紙の存在を思い出した。きっとこの人も全部知ってる人だ。誰なのかわからないけど。なんでこんなこと書いたんだろう。心配してる? それとも忠告?

「わからない……」

 わからないとわかりたくなるのは何でだろう。知らないままでも困らないのに。