次の日になり、学校が見えてきてすぐ目に入ったのは、校門の前に佇むその姿。
 ——桃華先輩だ。
 校門に桃華先輩が立ってる時。今までを思い返すと、それは私を心配して登校するのを待っていてくれてる時や、瀬戸内君からの報告で私に何かがあったと知った時だった。
 つまり、今回も瀬戸内君から昨日の帰りの私の様子を聞いて、心配して話を聞くためにそこで待っているということ。
 ……本当に?
 
「あ、奈々美ー!」

 私に気づいた桃華先輩が大きく手を振っている。向かうしかない。

「おはようございます、桃華先輩」
「おはよう奈々美。昨日のこと聞いたよ、大丈夫?」
「あ、はい。えっと……」

 でも、聞ける? 私に嘘をついてますか?なんて。
 私のこと、憎んで恨んでるって本当ですか?なんて。
 ——聞けるわけない。
 口ごもる私の様子に何かを感じ取ったのか、桃華先輩は首を傾げてニコリと笑った。

「様子が変だったって聞いたの。瀬戸内にも何も言わなかったんだってね。私にも言えないのかな」
「……それは……」
「美術室、行ったんでしょ?」
「!」
「居たでしょ? 会ったんだよね? 美術室の悪魔」

 何だろう。まるで存在していることを信じ切っているような言い方——あ、そうか。そうだ。だって二人は知り合いなんだから、そこにあの人が居るって先輩はわかってて私を行かせたんだ!

「い、行きました。話しました、悪魔さんと」
「そう。どんな話?」
「…………」

 ニコリと微笑む先輩のいつもの表情に既視感があった。いつも先輩はこの笑顔を私に向ける。自分の意思を押し通そうとする時や、私に笑顔を見せようとする時。決まってこの形に微笑むけれど、先輩とは別の誰かがこの笑い方をしていた気がする。最近見た、そう。昨日の——あの人と同じ、同じ笑い方だ。

「桃華先輩はあの人のこと、知ってたんですね」
「うん。すごく綺麗で不思議な人だよね」
「だから“美術室の悪魔”の確認をしに行かせたんですか?」
「そう! 奈々美もあの人に会うべきだと思ってね」
「……会うべき、ですか」

 何だか嫌な引っかかり方をする言い方だ。何か違う、知らない感情が含まれている伝え方。
 美術室の悪魔の話になってから、段々と桃華先輩の空気が変わる。目の奥の隠れた何かがこちらを見ている。

「あの人は全ての本質を見抜く人なんだよ、だから自分がどんな人間なのか、どんな過去があって、どんな思いを抱いて生きてきたのか、あの人には全部バレちゃう。だからもし、奈々美があの人に何か言われたなら、それは全部本当だよ。それが美術室の悪魔の真相で正体」
「…………」
「で、奈々美は昨日、あの人と何を話したの?」

 先輩の目が、じっと私を見つめる。もういつもの先輩じゃなかった。
 
「……桃華先輩は、私に嘘をついていますか?」

 だから、聞くことにした。昨日の寝る前にたくさん考えて、嘘かもしれないと、適当なことをそれっぽく言われてるだけなのかもしれないと、揶揄われてるのかもとも思ったけれど、本当だったんだってわかったから。
 だって今私の前に居るのは、私が知ってる桃華先輩じゃない。

 私の質問に、桃華先輩はその微笑みを深めて答えた。

「聞いたんだね? あの人から」
「…………」
「でも、嘘なんてついてないよ。あの人の言った通りに受け答えしただけ。だってあの人の言うことは本当なんだから、私はあの人の言葉通りに動くべき。それが真実になるんだから」
「…………」
「私は生まれ変わったよ。だからもうあなたに鍵を渡したことで、私は救われたの。私の中にあなたを恨む気持ちはもうないの。可哀想で可愛い奈々美が今は大好きだよ」

 ——桃華先輩はいつも真面目で頼りになって、気が利く優しく人だった。
 でも、

 『——奈々美が知ってる私はもう死んじゃって、今の私はあの頃の私と違うの』

 辛いことがあったのだと、桃華先輩は言っていた。鍵をもらったあの日、桃華先輩はそう言って生まれ変わったのだと私に告げたのだ。
 その辛い目にあわせたのが私だったのだと、美術室のあの人が言っていた言葉を今、肯定されたことになる。先輩はあの人にその辛さを語っていたのだ。だからあの人は知っていた。そして作った噂とともに鍵を渡し、先輩はその噂を守ることで自分の心を守った。あの人を信じることで、辛く、悩んでいた自分を脱ぎ捨てて今の先輩になったのだ。
 前を向けたなら、振り切ることができたならそれは良いことなのかもしれない。
 ……でも。

「私、先輩に何をしてしまったんですか……?」

 それが、何も思いつかない。
 そもそも知り合ったのは中学入ってからだし、元々そこまで深い仲ではなかったのだ。それなのに人が変わるほどの辛い目にあわせるなんて、一体何を、どうやって……?

「奈々美には何もされてないよ」
「……は?」
「奈々美はただそこに居ただけ。ただ楽しく泳いでただけ。速かっただけ。みんなに注目されてただけ。綺麗な見た目をした女の子が才能を見せつけた、ただそれだけ。あなたは何もしてない。でも、あなたが居なかったらと、私が思って、みんなが思ってた。ただ、それだけ」
「…………」
「きっと私達だけじゃないんだよ。こんなこともっと広い視点で見たら色んなところで起こってることだし、そうしていくつもの才能が華開いたり潰れたりしてるんだよね。潰れちゃった奈々美を見て、そう思えるようになった。死んで私と同じものになった奈々美を見て、可愛くて仕方なくて、逃げてきた奈々美に同じ高校になれてよかったと思った。運命だったのかなって」

 ——あまりのことに声が出ないとは、こういうこと。

「きっとあの人は奈々美が入学してくることもわかってたんだと思う。奈々美も会ったならわかるでしょ? あの人は特別な人なの。美術室の悪魔はその人の秘密を暴く存在だから、私は暴かれて、救われる方法を教えてもらった。あの人の言うことは何も間違いじゃなかった。つまり、あの人は全ての真実を知る人なんだよ」

 どこか虚だった先輩の瞳が、あの人のことを語り出した途端、爛々と輝き出す。その先輩の瞳が怖かった。スラスラと動く口が、貼り付けた微笑みが、全てが異質だ。まるで何かに取り憑かれているよう。

「私は悩んでた。辛かった。あなたのせいで何もかも失うことになって、何もない私になってしまったんだから。あなたがいなければ私はまだ泳いでた。私の居場所はまだあったはずだった。もう一生顔も見たくなかったけど、でも、だから私はここであの人に出会えた。今となれば全てはあなたのおかげとも言えるの。だから私は救われて、だからもう私はプールに浮かぶ必要は無いし、鍵もいらない。次はあなたがあそこで一人で、いくらでも苦しめばいいよ。あなたもそこまで落ちてくれたから、そんなあなたが見れたから、私はもう過去の全部を許すよ。可愛い奈々美。私にきっかけを与えてくれてありがとう」
「…………」
「私はもう昔の私じゃない。あなたのおかげで死んだ私は、あの人がここで生まれ変わらせてくれたから」

 ——嘘だ……嘘だと言ってよ。

「私の言葉に、思いに、嘘なんて一つもない。今のあなたは私を変えてくれたきっかけ。あの人と私を繋いでくれて、同じ苦しみをわけあえた可愛くて大切な後輩。だから、いつでも何でも頼って欲しいの。これからはまた、新しい私達としてやっていこう」

 あぁもう、あの頃の先輩は居ないんだと、絶望で心が真っ黒に染まった。

「これからもよろしくね、奈々美」

 そう言った先輩はあの人と同じ笑顔とは違う、優しく、穏やかな笑顔を浮かべていた。それは中学時代の初めて会ったあの日から通して、初めて見た先輩の笑顔だった。
 そうか。始めからずっと、私が知っている桃華先輩なんてものは居なかったのだ。

「ほら、遅くなっちゃうよ。教室行こう!」

 そして、いつものように先輩にそう言われると、今までのやり取り全てが気のせいだったようにも感じられて、まるで奇妙な体験をした後のような居心地の悪さに胸がざわついた。ざわついて、鬱陶しい。散らかって、息苦しい。そんな感覚。
 今、この瞬間の全てが怖かった。