「あぁ、ね。驚いたでしょ」
「驚きました。こんな時間に、こんなところに人が居ると思わなかったので……」
「俺もだよ。こんな時間にしかもびしょびしょで。君の方がインパクトあったよ」
「! それはその、それなりの事情がありまして……」
「事情って? 教えてよ」
「え……いや、それは……」
「教えて。知りたい」

 じっと私を見つめるその真っ直ぐな視線。断らせはしないと、私の中の真実を暴こうとするその瞳。
 あ、美術室の悪魔だと、無意識にその言葉が頭に浮かんだ。天使みたいなふわふわしたものじゃない。王子様みたいな優しいものでもない。だから悪魔と呼ばれてるんだ。

「…………」

 きっと変な嘘はすぐにバレるだろう。どう答えようかと悩んだ中で、一つ思いつく。

「私、プールの水死体なんです」
「プールの水死体?」

 すると、それを聞いたその人はなるほどと、頷いた。

「すごいね。ちゃんと受け継がれたんだ」
「知ってるんですか?」
「うん。君の前の子に鍵を渡したのは俺だからね」
「! あなたが……!」

 まさか、こんなところで繋がってくるとは!

「じゃああなたが先輩の前の水死体だったんですか?」
「あー、ううん。俺はあの子に提案しただけ。こんなのはどうだろうって」
「? 提案?」
「そう。プールを使う理由を考えてあげたっていうのかな。受け継がれてるってことにすれば使いやすいんじゃない?って。誰かにバレた時の言い訳にもなるし」
「え……」

 どういうこと? それってつまり、

「噂は全部、嘘ってことですか?」

 ——『そう。その噂はずっと前からあってね、代々受け継がれてきたものなんだよ』

「これはあなたが考えたもので、代々受け継がれて来た噂じゃない?」

 ——『ここで泳げるのはね、何かに殺されちゃった人だけなんだって。死んでしまった自分と向き合える場所なの』

「何かに殺されちゃった人だけが使えるって……死んでしまった自分と向き合える場所だって……そういう場所が必要な人のためにあるって……」

 全部、全部嘘なの?
 その人は微笑みの形を作ったまま私を見つめていた。そして、

「そうだね。全部俺とあの子で作った嘘」

 何の躊躇いもなく、清々しいまでに真っ直ぐに私を見て言った。
 噂の存在は、全部嘘なのだと。
 え……何で?

「意味がわからない……」

 噂は嘘で、鍵はこの人が先輩のためにあげたもの。先輩がプールを使いやすくするために作られた理由というのが噂の正体なら、その通りに私に受け継ぐ必要はないはずなのに。

「何で桃華先輩は私にこれを……?」
「本物にしたかったんじゃない?」
「?」
「噂を本物にして、現実にしたかったんだと思うな」
「噂を現実にって……それに何の意味が?」

 だってそうだ。別にそんな理由がなくたってプールの鍵があって使えるというのは現実なのだから、わざわざ水死体が、なんて話を付け足して渡す必要はない……あ。

「先輩にあなたがしたみたいに、私が使いやすいように理由を作ってくれたんじゃないでしょうか」

 そうだ、きっとそう。桃華先輩って優しくて面倒見がいい人だから。
 すると、私の言葉にふふっと、小さく目の前の彼が笑う。君はいい子だね、と。

「噂が現実になれば救われるでしょ? 本物になれば、殺されて死んじゃった自分はこの場所で生き返れたことになる。自分は生まれ変わったのだと信じたかったんだよ、もう怯える惨めな自分は切り捨ててしまいたかったんだ」
「……え?」
「そして死んだ人間しか使えないと伝えることで、暗にこれを受け取った人間は惨めな立場なのだと擦り込みたかった。わかる? 言ってる意味」
「…………」

 言ってる意味? え、

「あの、桃華先輩の話ですよね?」
「そう。これは桃華先輩がなぜ君に噂と共にこの鍵を渡したのか、という話」
「え……で、でも、そんなの私の知ってる桃華先輩と違う、というか、まるで桃華先輩が、」
「君を自分と同じ死体にしたかった」
「!」
「そう聞こえるよね。そうだよ、事実だ」

 目の前の彼が笑う。笑ってる。

「彼女は君を憎んで、恨んでる。その鍵は悪意の塊なんだよ。可哀想な君。一体彼女に何をしたの?」

 何をした? 私が何を? 考えても思いつかない。だって桃華先輩は始めから優しかった。同じ高校で、また会えて嬉しいって言ってくれた。死んだような私を心配して、プールの鍵を渡してくれた——そう思ったのに。

「わ、わかりません……先輩に恨まれてるっていうのも想像できないし、何かした覚えもない……」
「そっか。じゃあ本人にはわからないようなことだから、先輩はこうするしかなかったのかもね」

 本人にはわからないようなことだから、こうするしかなかった? こうすることで、先輩は救われた? 私がわからなかったせいで先輩はこうすることしかできなかった?

「今、先輩はどんな気持ちで君と向き合ってるのかな」
「…………」
「生まれ変わりたかった先輩は一体、どんな気持ちを捨ててしまいたかったんだろう」
「……か、帰ります」

 立ち上がると、鞄を手にして美術室の入り口へと向かう。

「またおいで」

 教室を出る間際、彼の声が耳に入った。また来ることになるよと言われているような、そんな言葉に聞こえた。


 早足で歩きながらスマホを取り出すと瀬戸内君に電話をかける。

『お、小向。ちょうどいいところに、』
「ごめん、何も聞けなかった。今どこ」
『え?』
「今どこ!」
『校門だけど……何? めっちゃキレてんじゃん』

 ブチっと通話を切って早足の勢いのまま校門へと向かう。言っていた通り、瀬戸内君は校門の横に佇んでいた。私を見つけた彼は、「おい、急に切るなよ」と、文句を言いながら近付いてきて、私の表情が確認できる距離になった途端、口をつぐむ。息を呑んだ、そんな気配。

「……何。どうした」

 気遣う瀬戸内君の戸惑いを含んだ声色。

「酷いことされた? 怖いことあった?」

 ゆっくりと、私の様子を窺う視線が私の全身を確認して、私の顔へと戻ってくる。

「顔、真っ青だぞ」

 そうか。私、今顔真っ青なんだ。
 そんなことを思いながら、瀬戸内君を見る。

「帰ろう、早く」
「え? でも、」
「いいから。早く帰ろう、帰りたい」

 身体の芯が凍ってしまった様に、脳が、心臓が、冷たくなっている。上手く動けない、働かない、そんな感覚。怖いと、無意識に抱く感情は何に対してだろう。

『君を憎んで、恨んでる』

 あの、桃華先輩が?
 寒い——頭がズンと重くて、お腹がキリキリと痛む。

「いいけど、大丈夫か?」
「大丈夫。少し、緊張しすぎて調子悪いだけ」
「…………」

 そして、それ以上何も言わずに歩き出した瀬戸内君に続いて私も歩き出し、無言のまま駅で別れた。家に着いてようやくストーカーはどうなったのだろうと思い出したけれど、もうそんなことはどうでもいいやとすぐに頭の中から消えていった。
 あの人の言葉が、桃華先輩のことが、私の頭を支配していた。