急かされるような足取りで階段を登り、三階に辿り着く。が、特に何も聞こえてこない。先に走って行ったのに瀬戸内君はどこに行ったんだろうと不安になりながら、窓からプールが見える方の廊下をそっとそっと歩いていく。
 プールから見た角度と場所を想像しながら廊下を行くと、一番奥から一つ手前の教室が人影のあった場所で間違いなさそうだった。そこには第二美術室と書かれていて、教室の扉は閉まっていた。

「…………」

 どうしよう……怖い。
 そっと耳を扉にあてて中の音を探ってみたけれど、何も聞こえてこない。誰も居ないのだろうか……じゃあ、瀬戸内君は一体どこに?

ガタンッ

「!」

 音だ。中から何かが動いた音がした。誰か居るってことだ。じゃあ瀬戸内君も中に?
 ——行くしかない!
 心を決めてガラッと思い切り扉を開ける。するとそこには、

「! ——え?」

 キャンバスに向き合って筆を持つ男の人が一人、椅子に座ってこちらを向いていた。
 驚いたのか、目をまん丸にして言葉を無くしている。

「あ……えっと、」

 え、なんでこんな時間にこんなところに? 絵? 絵を描いてるの?

「えっと……」

 ていうかめっちゃ驚いてない? そりゃそうか、急に思いっきりドアが開いたんだから。ただ絵を描いてただけなのに、突然びしょ濡れの女が入ってくるんだもん、そんなの怖すぎる……ていうか待って。

「あの、瀬戸内君は……?」

 ここに来ませんでしたか?とまで口に出来る余裕がなくて、正直頭の中はひっちゃかめっちゃかだった。パニックもパニック、大パニックだ。だって、なんか物凄く雰囲気のある男の人がそこに居たから!
 教室の中は電灯がついておらず、窓から差し込む月明かりの下でその人は絵を描いているようだった。が、そのスポットライトのような月明かりに照らし出された彼は、まるで絵画から出てきたように綺麗で——さらさらの髪の毛がきらきらと光り、ぼんやりと白い肌が暗闇に浮かび上がる。線の細い身体はどことなく儚げに見えて、そう、まるで、

「天使……?」

 思わず口にしていた言葉にハッとして両手で押さえ込むように口を隠すと、その人はパチパチと瞬きをしたあと、「あっはっは!」と豪快に笑った。まるで魔法が解けた瞬間だった。

「じゃあ俺が天使なら君は人魚だね。王子様を探して裸足で海から上がってきたの?」
「! あ、いや、その……」
「びっくりした、ここでこんな出会い方があると思わなかったから。その瀬戸内君って人は来てないよ」
「あ、そ、そうですか……」
「うん。風邪を引いたらいけないし、もう帰った方がいいんじゃないかな」

 微笑みを浮かべて、スラスラと話すその人の言葉をすんなりと受け止めて、「あ、はい。失礼しました……」と、気づけば私は教室の外に出て扉を閉めていた。そのまま靴に履き替えて校舎を出て、校門のところに立つ瀬戸内君を見つけてハッと我に返る。

「ちょ、瀬戸内君!」
「あ、やーっと来たな小向。遅すぎ」

 待ちくたびれたぞと、やれやれと瀬戸内君が肩をすくめるのを見て唖然とした。
 いやいや、ちょっと待ってよ。

「遅すぎじゃなくて、そっちこそなんで居なかったの? 教室まで行ったんだよ私!」
「いや、俺も行こうと思ったんだけど途中で校門に向かう人影を見かけてさ。行き違いになったんだと思ってそっち追いかけたんだよ」
「え。じゃあ瀬戸内君が向かってすぐ教室から移動してたってこと? 結局居たの? 会えたの?」
「いや。会えなかった」
「そんなぁ……」

 じゃあストーカーはもう学校を出た、ということだろうか。こんなに急いだのに。

「結局解決しなかったってことかぁ……」
「残念ながらな。しかもこれ、俺が居たのバレてる可能性あるなって思うんだけど。だから教室に入ると見せかけて逃げたんじゃないか?」
「え、バレてたらどうなるの?」
「警戒してもう来なくなるかも。振り出しに戻る、だな」
「折角正体が暴けると思ったのに……」

 まぁ、仕方ない。とっても残念だけど。
 しょんぼり落ち込んでいると、瀬戸内君が「まぁ元気出せよ」と、珍しく励ましてくれる。

「つまり、これで警戒したストーカーさんがこうやって夜に現れることは無くなったってことだ。これで安心して一人で泳げるな」
「…………」

 ——つまり、瀬戸内君的には当初の目的通りに事が運んだということですか。
 結局どこまでいっても何があっても瀬戸内君は瀬戸内君であるということがよくわかった、というのが今夜得られた成果である。

 やれやれと小さく溜め息を吐いて、私達は帰るために歩き始めた。
 もうすっかり遅くなってしまい、明日は休みだからとことん寝ようと心に決める。もう二十二時だ。そういえば美術室のあの人はもう帰ったのかな。いつまで居るつもりだったんだろう——
 というか、ちょっと待って。冷静に考えてこんな時間に学校に居るっておかしいことだよね? 色々重なってあの人のことすっかり忘れてた。

「あのさ、瀬戸内君は教室まで行ってないんだよね?」
「そうだけど。そういえばおまえは行ったんだよな。なんかあったの?」
「なんかあったも何も、人が居たんだよ。めっちゃ綺麗な男の人が」
「……へぇ」

 驚いているのかいないのか。よくわからない反応で瀬戸内君がチラリとこちらを見る。

「で、おまえ。その教室が何の教室かわかったの?」
「え? 第二美術室って書いてあったけど……そういえば来た時もそんなこと言ってたよね? 何の教室があるか知ってるかって……」

 え? いや、何かやっぱあるの?
 怖くなって声に出さず訴えると、瀬戸内君は言った。おまえほんと知らないんだな、と。

「それって“美術室の悪魔”じゃね?」
「……は?」

 美術室の、悪魔?

「もしかして、また噂……?」
「そう。美術室には悪魔が居て、そいつに気に入られると絵にされるらしい」
「! 絵にされるって、物理的な話……?」
「んな馬鹿な。自分の正体を絵に描かれるみたいな感じだったかな。秘密が暴かれる的な。だから近づかない方がいいんだと」
「…………」

 確かに、さっきの人は絵を描いていた。私達より少し上くらいの年頃で、だけど同じとは思えない品の良さとか、存在感みたいなものを感じて、思わず浮かんだ単語を声に出しちゃってて……。

「天使」
「は?」
「天使に見えたんだよね。あまりにも綺麗で。だって月明かりに照らされてたよ」
「マジか。やってんなほんと」
「やってる?」
「演出。騙されんなよ、悪魔だぞ」
「瀬戸内君会ったことあるの?」
「噂だと悪魔なんだろ? おかしいじゃん」
「いや、そうなんだけど……」

 なんだろう。なんか変……噛み合ってないというか、思った返しと違う?というか……受け入れるの、早くない? 噂を知ってたから?
 訝しむ私と目が合うと、瀬戸内君はニヤリと笑う。

「天使に見えたんならおまえ、気に入られたんじゃないの?」
「! 怖いこと言うのやめてよ……話したら普通に人だったよ。あっはっはって笑ってたし」
「でもこんな時間に部外者が居たんじゃその方が怖えじゃん」
「そ、それはほんとにそう……!」

 ほんと、なんで? 生徒でもなさそうだったし……なんだったんだろう。

「ま、もう行かなきゃいいだけだろ」
「……うん」

 謎が多い。クラスメイトと世間話とか全然しないから、学校の噂についても知らないことばかりだ。桃華先輩に手紙の相談をしたことをきっかけに、どんどん色んな噂に巻き込まれていってるような感覚だ。
 ——まるで、誰かに操られているかのような。