あんなに嫌そうにしていたのに、結局真面目な彼はちゃんと約束通りにやって来て、夜の駅前から学校へと二人揃って向かうことに。学校に着くと、桃華先輩からもらった鍵でプールに入り、まずは校舎の昨日人が居た位置を二人で確認した。

「あの三階の廊下のところ。プールに浮かんでる時に何か見えたと思って確認したら、人が走って逃げてったんだよね」
「……おまえ、あそこに何の教室があるか知ってるか?」
「え? わかんない。特別教室の校舎だよね? 部活入ってないからあんまり行かないんだよなぁ」
「そっか。まぁいいや」

 そして、「とりあえず泳げば?」なんて、何事もなかったかのように私に告げると、自分は前回と同じベンチに腰を下ろす。
 え……え?

「何その意味深な感じ……」
「いや別に。昼間確認しに行ったりしなかったんだなって」
「そんな、だって場所に意味があるとは思わなかったし……え? 意味があるの? 何か変な教室なの?」
「さぁな。とりあえずさっさと終わらせたいから早く泳いで呼び寄せろよ」
「呼び寄せろって、人を囮みたいに……」

 仕方なく、更衣室で水着に着替えて出てくる。競泳用とかではなく、完全に肌と身体のラインを隠したプライベートで着る防御力の高いタイプなため、恥ずかしさとかはこれっぽっちもない。でもその分水の抵抗が大きくて、水と一つになるような気持ちよさが感じられないのが勿体無いけれど、まぁ仕方ない。

 スマホに目をやる瀬戸内君とは特に何も話すことはなく、軽く準備運動をするとプールに飛び込んだ。
 まずは身体と水を馴染ませるようにドルフィンキック。クロールから始まる四泳法を慣らし程度に流していくと、段々と頭の中が落ち着いていく。余分な物が水に溶けて消えていくように。泳ぐための力に変換されていくように。
 残されたのは、ここに居る私という存在ただ一つだけになるこの瞬間が好きだ。泳いでいると、ずっとずっとどこまでも行けるような感覚になる時がある。でも永遠なんてものはないのだと知るのもこうして泳いでる時だ。呼吸が辛くなって、腕が、足が重くなる。体力の限界を知る。そうなると、私は陸に戻らないといけなくなる。
 ザバンとプールサイドに上がると、重力がのしかかって身体を滴る水が鬱陶しかった。その瞬間、私は陸の生き物に——陸の、死体になる。

「……だったら水死体の方がマシだ」

 どうせ同じなら水の上で死にたい。溺死なんて辛い死に方をしたいわけでは決してないから、感覚の話だ。
 そして、やっぱり水に浮かぶかと思ってもう一度水の中に戻ろうとした、その時だった。

「おまえさ、本当に泳ぐの上手いんだな」

 その声かけに、金網に沿うように置かれたベンチに座る瀬戸内君の方を見る。いつの間にか瀬戸内君はスマホから私へと視線を移していた。

「すーっと入っていって、ぐんと伸びる感じ。俺遊びでしか泳いだことないけど、水泳やってる奴ってみんなそうなの?」
「……真剣にやって来た人はみんなそうだよ。そっち側から見たら珍しいだろうけど、こっち側からすると普通のこと」
「そうなんだ。なんかテレビで観るのと違うのな、目の前で泳がれると。俺あれがいいな、おまえが水入ってすぐやってたやつ」
「ドルフィンキック?」
「それ。魚の泳ぎ方だった」

 ドルフィンだからイルカでしょ?とは思ったものの、その瀬戸内君の目がいつも私に向けられるものとは違ってきらきらと輝いていたから、余計なことは言わないようにした。多分、自分でも単純に嬉しかったんだと思う。

「そんだけ上手かったら泳いでて楽しいんだろうな。ずっと練習してきたんだろ?」
「そうだよ。ほんと、毎日朝と夕方で泳ぎっぱなし。合宿とかマジで辛かったから泣いたことある」
「へぇ。でも続けて来たんだ」
「そう。好きだったから」

 好きだった、泳ぐのが。一番得意で、大好きなことだった。誰にも負けたくない、負けないって、そう思ってた時もあった。でも、

「なんでやめたの?」
「……評価されることが増えて、品定めされるのに耐えられなくなったから」

 周りは好き勝手に私を評価した。褒められてるうちはいい。

「期待されて目立つようになって来たら、その分アンチも増えてね。芸能人でもないのに何で?って感じなんだけど、否定されることが増えて、ただ泳ぐだけではいられないのはみんなそうなんだけど、求められる期待にそえる速さに辿り着けなくて……それで、やめた。全部諦めた」
「…………」
「もし誰にも求められないでマイペースでいられたら今も泳いでたのかなって思うこともあるけど、そんなのもしもの話だから。だから、今度は同じことを繰り返さないって心に決めて、誰にも見られない自分の人生を歩もうって……でも、一人は寂しいね」
「…………」
「誰にも見つからない自分は自由だけど、誰にも見られない自分は寂しいんだってこの高校に入って知った。なかなか上手くいかないね」

 見られないというのは、興味を持たれてないということ。
 興味を持たれてないというのは、そこに私が居なくてもいいということ。
 居なくてもいいというのは、存在に価値がないということ。
 今の私は、何の価値もない。
 前に、言ってもらえるうちが花だよ、なんて言われた時には、じゃあおまえが私の立場になってみろよと思ったけれど、今ならそう言ったその人の気持ちが少しだけわかる。だからってあの頃のように悪意の真ん中に立ちたいわけではないけれど。

「人生って難しいね」

 私がそう言うと、瀬戸内君はぼんやりと視線を水の底へ動かした。そして、

「本当だよな」

 私の言葉にぽつりと同意した。それは初めて瀬戸内くんから返ってきた本心から生まれた共感のように感じた。
 もしかして瀬戸内君にも、上手くいかないと諦めたような、諦めようとしているようなものがあるのだろうか。
 ゆっくりと戻ってきた瀬戸内君の視線に、あのさ、と口を開こうとした、その時だった。

「!」

 私を通り過ぎた向こう側——校舎を見上げる視線の角度で一点を見つめる瀬戸内君が、目を丸くして息を呑む。だから私もまさかと思って振り返ろうとすると、

「振り返んな。バレる」

 と、鋭く私に静止をかける瀬戸内君の声に、ぴたりと動きを止めた。
 ジリジリと、途端に背中に視線が突き刺さるような気がしてゾッと鳥肌が立つ。

「居るな。男だ」
「ど、どうする? 仲良く……声かける?」
「いや、向こうはバレたくないと思ってるはずだ。俺が行ってくる」
「! で、でも、私が仲良くならないと意味ないよね?」
「……じゃあもう少し泳げ。どうせ向こうは帰りに校門通るだろ? そこを狙う」
「わかった」

 絶対に気付いてるのをバレちゃいけないって念を押されて、私はとにかく泳ぎまくって気付かない振りを続けた。
 でもいつまで泳がされるんだろう。向こうが帰るまで? それってあとどれくらい? いつもと違って頭の中がごちゃごちゃしてすごく疲れる。もう最後にはやけくそで、水族館のイルカってこんな気持ちなのかなと思った。
 と、その時。

「おい、小向!」

 私を呼ぶ大きな声が耳に入り、泳ぐことをやめて瀬戸内君の方へ振り返る。

「多分あいつ教室に入った。行くか?」
「え、行くって、」
「あいつんところに。急ごう。急げば間に合う」
「で、でも私着替えないと」
「じゃあ先に俺が行っとくからおまえはあとから来い」
「ええ?!」

 そんな!と思った時にはすでに瀬戸内君は走り出していて、慌ててプールを上がり、更衣室へ駆け込んだ。
 速着替えはお手の物であるとはいえ、こんなところに一人で置いてかれて、しかもあとから来いなんてちょっと酷いと思う。多分瀬戸内君の目に私は女の子に見えてないんだろう。
 ていうか、

「特別教室の棟は詳しくないんだってぇ……」

 校舎の入り口なんて鍵が閉まってるものなのに、なぜか開いてることに疑問を抱いたのはたった今で、これはもしや私と同じでストーカーらしきその人も特別に鍵を持ってるのしれないと今更思い至った。この学校のセキュリティはどうなってるんだろう。プールのみならず、校舎の鍵も生徒の中で受け継がれてるなんて。
 とりあえず教室へ向かわないと……三階だったことは確かだ。三階の、廊下の窓からプールが見える教室……。
 慌ててたせいで上履きに履き替えるのをすっかり忘れてしまい、ペタペタと裸足で廊下を歩くことになってしまった。足の裏が冷たいし気持ち悪い。それに夜の学校は暗く静まり返っていて、蒸し暑い。

「うう……怖い。早く行かないと……」