「まさか先輩が居るなんて……びっくりしました」
桃華先輩に中に入るよう促されて、私と先輩はプールサイドに、瀬戸内君は近くのベンチに腰を下ろす。先輩は、「でしょ? びっくりしたでしょ?」と、変わらずにこにこ顔である。
「じゃあつまり、プールの水死体の真相は、先輩が夜泳いでるのを誰かが見間違えた……ってことになるんですか?」
「んー、半分正解」
「半分?」
「そう。その噂はずっと前からあってね、代々受け継がれてきたものなんだよ」
「あ、さっき瀬戸内君も言ってました、受け継がれてきたって。つまり桃華先輩が誰かからその水死体の役目を受け継いだ……てこと?」
自分で言っていておかしくなって首を傾げると、桃華先輩は声をあげて笑って、「そうそう、そんな感じ」と、頷いた。
「ここで泳げるのはね、何かに殺されちゃった人だけなんだって。死んでしまった自分と向き合える場所なの」
「死んでしまった自分と……」
てことは、
「先輩も、そうだってことですか?」
何かに殺されて、死んでしまった自分が居て、向き合うためにここにいる、ということ?
私の問いに、先輩は返事をするようににこりと笑った。
「一番始めは、ぼんやりと水に浮かんでる所を偶然忘れ物を取りに来た生徒に見つかっちゃって、死体が浮いてるって勘違いされたことがきっかけらしいよ。それから夜のプールには水死体が浮かぶって噂されるようになったんだって」
「なるほど。始めの人が居るんですね」
「そう。で、確かに心が死んじゃってる自分のことを死体って表されるのも間違いじゃないかも……ってその人は思って、だったら噂通り、ここには自分のような死んじゃった人が浮かべる場所にしようって決めたらしい。だからここの鍵は一人で心の整理や感情の発散をする場所が必要な人にこっそり手渡され続けてきて、今は私の所にあるの」
「そんな理由が……じゃあここは鍵を手にした人だけの特別な場所なんですね」
それが、“プールの水死体”の真相。桃華先輩の手の中にあるプールの鍵は、このプールを使うに値した人だけが手に出来る特別な鍵ということだ。
「一つしかないんですか?」
「わからないの。でも誰にも会ったことないからそうなのかも」
「そっか……まぁ、そんな何本もあったら大騒ぎになってるはずですもんね。じゃあ先輩は誰からその鍵をもらったんですか?」
「私はたまたま知り合った人から。授業サボり続けてたら声かけられてね……あの時は焦ったなぁ」
「え! 桃華先輩が?」
まさかあの桃華先輩が授業をサボり続けるなんて。
いつも礼儀正しくて真面目でみんなのお手本だった、あの桃華先輩が。
「言ったでしょ? 泳げるのは何かに殺されちゃった人だけなんだって。奈々美が知ってる私はもう死んじゃって、今の私はあの頃の私と違うの。幻滅した?」
「そんな……っ、そんなことないです。幻滅なんてしてません。あの桃華先輩にも知らないところで辛いことがあったんだなっていうか……むしろ生まれ変わったって、そんな清々しく言い切れる桃華先輩がなんか、う、羨ましい……というか……」
「羨ましい?」
「……羨ましいです」
だって私は、この学校に新しい私になるために入学した。それなのに、今の私はどうだろう。
「私、この高校に来て、誰も私のことを知らなくて、それでいいはずなのに、間違ってないはずなのに、それなのになんか……いまだに前の自分と比べちゃうというか、自分がどうなりたいのかよくわからなくなる時があって」
「うん」
「私も、桃華先輩みたいに笑って生まれ変わったんだって言えるような、新しい自分になりたい……」
苛立つ心がどこから来るのかといえば、その時々に色々な理由があるとはいえ、結局の所は思い通りにならない現実からやってくるのだと思う。
あの頃の私と今の私。輝いてる私と輝いてない私。願った私と願いを叶えた私。
いろんな自分がごちゃ混ぜになって、本当の私が見えてこない。どうなりたいのか、どうなるべきなのかがわからない。その悩みから生まれる苛立ちの扱い方がわからない。
すると、そんな私の頭にぽんと手が乗せられた。
「だから奈々美をここに呼んだんだよ」
ハッと顔を向けた先には、桃華先輩のやさしく穏やかな笑顔。
「奈々美にはきっと、この鍵が必要だと思ったから」
手渡されたそれは、受け継がれてきたというこのプールの鍵。
「思う存分泳げばいいよ。ここでは何をしても大丈夫。だって私達は水死体なんだから」
「水死体……」
その言葉に、心にすっと軽くなる感覚が生まれる。それは私にぴったりな、私を救ってくれる名前だと思った。
私はもう水の中であの頃のように輝くことは出来ない。私はあの世界から逃げ出したのだから。負けたのだ。自分と、周囲と、その責任に。もう戻ることのない世界だった。
けれど、そこから離れた私は今、感情を発散させられる場所を必要としていた。泳ぐことで発散してきたのだと、それしか方法を知らなかったのだと知ったから。そうして今まで生きて来たのだと実感したから。
あの頃の自分じゃないと水の中には入れないと思っていた。こんな全てを捨てて死んでしまったような私には……でも、だから私は何の責任もなくこの水の世界に浮かぶことが出来るのだと今、先輩から教えてもらった。
私は私の好きなようにしていい。誰も私に何も求めない。だって私は水死体だから。
「……いいんですか? 私がもらって」
「いいんだよ、奈々美にあげたいの。殺されちゃった可哀想な奈々美が私は可愛いんだ」
「先輩……」
「今日からここはあなたのための場所。あなたの世界。ここで好きなだけ死んだ自分のために生きるといいよ。私がそうしたように」
「……はい」
私らしく生きられる場所をもらえたのだと、受け継がれてきたというたくさんの思いが込められてきたであろう大切なそれを両手でぎゅっと握り込む。
手の中で鈍く光るその鍵は自由への扉に見えた。
桃華先輩に中に入るよう促されて、私と先輩はプールサイドに、瀬戸内君は近くのベンチに腰を下ろす。先輩は、「でしょ? びっくりしたでしょ?」と、変わらずにこにこ顔である。
「じゃあつまり、プールの水死体の真相は、先輩が夜泳いでるのを誰かが見間違えた……ってことになるんですか?」
「んー、半分正解」
「半分?」
「そう。その噂はずっと前からあってね、代々受け継がれてきたものなんだよ」
「あ、さっき瀬戸内君も言ってました、受け継がれてきたって。つまり桃華先輩が誰かからその水死体の役目を受け継いだ……てこと?」
自分で言っていておかしくなって首を傾げると、桃華先輩は声をあげて笑って、「そうそう、そんな感じ」と、頷いた。
「ここで泳げるのはね、何かに殺されちゃった人だけなんだって。死んでしまった自分と向き合える場所なの」
「死んでしまった自分と……」
てことは、
「先輩も、そうだってことですか?」
何かに殺されて、死んでしまった自分が居て、向き合うためにここにいる、ということ?
私の問いに、先輩は返事をするようににこりと笑った。
「一番始めは、ぼんやりと水に浮かんでる所を偶然忘れ物を取りに来た生徒に見つかっちゃって、死体が浮いてるって勘違いされたことがきっかけらしいよ。それから夜のプールには水死体が浮かぶって噂されるようになったんだって」
「なるほど。始めの人が居るんですね」
「そう。で、確かに心が死んじゃってる自分のことを死体って表されるのも間違いじゃないかも……ってその人は思って、だったら噂通り、ここには自分のような死んじゃった人が浮かべる場所にしようって決めたらしい。だからここの鍵は一人で心の整理や感情の発散をする場所が必要な人にこっそり手渡され続けてきて、今は私の所にあるの」
「そんな理由が……じゃあここは鍵を手にした人だけの特別な場所なんですね」
それが、“プールの水死体”の真相。桃華先輩の手の中にあるプールの鍵は、このプールを使うに値した人だけが手に出来る特別な鍵ということだ。
「一つしかないんですか?」
「わからないの。でも誰にも会ったことないからそうなのかも」
「そっか……まぁ、そんな何本もあったら大騒ぎになってるはずですもんね。じゃあ先輩は誰からその鍵をもらったんですか?」
「私はたまたま知り合った人から。授業サボり続けてたら声かけられてね……あの時は焦ったなぁ」
「え! 桃華先輩が?」
まさかあの桃華先輩が授業をサボり続けるなんて。
いつも礼儀正しくて真面目でみんなのお手本だった、あの桃華先輩が。
「言ったでしょ? 泳げるのは何かに殺されちゃった人だけなんだって。奈々美が知ってる私はもう死んじゃって、今の私はあの頃の私と違うの。幻滅した?」
「そんな……っ、そんなことないです。幻滅なんてしてません。あの桃華先輩にも知らないところで辛いことがあったんだなっていうか……むしろ生まれ変わったって、そんな清々しく言い切れる桃華先輩がなんか、う、羨ましい……というか……」
「羨ましい?」
「……羨ましいです」
だって私は、この学校に新しい私になるために入学した。それなのに、今の私はどうだろう。
「私、この高校に来て、誰も私のことを知らなくて、それでいいはずなのに、間違ってないはずなのに、それなのになんか……いまだに前の自分と比べちゃうというか、自分がどうなりたいのかよくわからなくなる時があって」
「うん」
「私も、桃華先輩みたいに笑って生まれ変わったんだって言えるような、新しい自分になりたい……」
苛立つ心がどこから来るのかといえば、その時々に色々な理由があるとはいえ、結局の所は思い通りにならない現実からやってくるのだと思う。
あの頃の私と今の私。輝いてる私と輝いてない私。願った私と願いを叶えた私。
いろんな自分がごちゃ混ぜになって、本当の私が見えてこない。どうなりたいのか、どうなるべきなのかがわからない。その悩みから生まれる苛立ちの扱い方がわからない。
すると、そんな私の頭にぽんと手が乗せられた。
「だから奈々美をここに呼んだんだよ」
ハッと顔を向けた先には、桃華先輩のやさしく穏やかな笑顔。
「奈々美にはきっと、この鍵が必要だと思ったから」
手渡されたそれは、受け継がれてきたというこのプールの鍵。
「思う存分泳げばいいよ。ここでは何をしても大丈夫。だって私達は水死体なんだから」
「水死体……」
その言葉に、心にすっと軽くなる感覚が生まれる。それは私にぴったりな、私を救ってくれる名前だと思った。
私はもう水の中であの頃のように輝くことは出来ない。私はあの世界から逃げ出したのだから。負けたのだ。自分と、周囲と、その責任に。もう戻ることのない世界だった。
けれど、そこから離れた私は今、感情を発散させられる場所を必要としていた。泳ぐことで発散してきたのだと、それしか方法を知らなかったのだと知ったから。そうして今まで生きて来たのだと実感したから。
あの頃の自分じゃないと水の中には入れないと思っていた。こんな全てを捨てて死んでしまったような私には……でも、だから私は何の責任もなくこの水の世界に浮かぶことが出来るのだと今、先輩から教えてもらった。
私は私の好きなようにしていい。誰も私に何も求めない。だって私は水死体だから。
「……いいんですか? 私がもらって」
「いいんだよ、奈々美にあげたいの。殺されちゃった可哀想な奈々美が私は可愛いんだ」
「先輩……」
「今日からここはあなたのための場所。あなたの世界。ここで好きなだけ死んだ自分のために生きるといいよ。私がそうしたように」
「……はい」
私らしく生きられる場所をもらえたのだと、受け継がれてきたというたくさんの思いが込められてきたであろう大切なそれを両手でぎゅっと握り込む。
手の中で鈍く光るその鍵は自由への扉に見えた。



