俺は真っ白な紙を前に溜息を吐く。もう何日も前に担任の先生から配られたはずなのに、俺はこの紙に何も記入することができずにいた。
「碧音、何やってんの?」
「あぁこれ? 進路希望を書く用紙だよ」
「進路希望?」
「うん。俺は一応進学希望だから、第三希望まで学校名を書かなきゃなんだけど。どの学校に行ったらいいかなんてわからなくて……」
「へぇ……」
「そもそも、本当にその職業に就きたいのかもさえはっきりしなくて」
先程から俺の隣で昼寝をしていた翠が目を覚まし、手元を覗き込んでくる。
それは暖かな日差しが差し込む放課後の出来事。図書室で進路調査の用紙を目の前に悪戦苦闘していると、翠が図書室にやって来た。どうやら今日は部活が休みらしい。
文化祭が終わったこの時期、三年生は一気に受験モードに突入した。
「碧音は、将来なりたいものとかあるの?」
「一応あるけど……漠然としてて現実味がないんだ」
「そっか。碧音、もうすぐ卒業しちゃうんだね」
「うん。そうだね」
俺が卒業することを寂しいと思ってくれているのだろうか? 翠は唇を尖らせて寂しそうな顔をした。
そんな顔をされると、翠を残して卒業することに後ろ髪を引かれてしまう。でも俺たちは同級生ではないから、ずっと一緒にいることはできない。俺は翠より先に卒業していかなければならないのだから。
どうすることもできない年の差が、寂しく感じられた。
「碧音がこの学校からいなくなっちゃうなんて想像がつかない。碧音はずっと俺の傍にいるものだと思ってたし。だから寂しいなぁ」
「そうだね。俺も寂しい」
「本当に?」
「うん。翠と同級生に生まれてきたかったって、最近思うよ」
「碧音……」
翠が目を潤ませながら俺を見つめた。そんな寂しそうな顔をする翠に手を伸ばして、そっと髪を撫でてやる。クスンと鼻を鳴らす翠が可愛かった。
「ねぇ、碧音!」
「え? 急になに?」
翠の頭を撫でてやっていた手を、突然両手で掴まれる。その予想外の行動に俺は思わず目を見開いた。びっくりし過ぎて、呼吸が止まってしまう。
「碧音。進路が決まってないなら、第一希望は俺のお嫁さんでいいじゃん?」
「お、お嫁さん……?」
「そう、お嫁さん。ねぇ、碧音。この意味わかるでしょ?」
「…………」
「俺、碧音より年下だけど、碧音を守れるような男になるから。だから、俺のお嫁さんになって? ずっと俺の傍にいてよ」
俺の手を握る翠の両手に、更に力が籠められた。
翠の真っ直ぐな瞳に、俺は言葉を失ってしまう。何も言い返せずに黙ったまま翠を見つめた。
翠も真っ赤な顔をしながらも、俺から視線を逸らすことはない。俺たちは無言で見つめあった。
誰もいない図書室は静まり返っていて、二人の心音が聞こえてきそうだ。
遠くから楽しそうにはしゃぐ女子生徒の声が聞こえてきて、遥か遠くで下校時間を知らせるチャイムが鳴っている。
「俺のお嫁さんになって……。絶対に幸せにするから」
今にも泣きそうな翠が俯く。長いまつ毛が影を作り、とても綺麗だ。俺はそんなことをぼんやりと思った。
でも俺は、恥ずかしくて何も言えなくなってしまう。
翠の言いたいことが手に取るようにわかるのに、意気地なしの俺は、その一歩を踏み出すことができない。
――俺も、翠のお嫁さんになりたい。翠とずっと一緒にいたいから。
でもその一言が言えずに、俺は唇を噛み締める。
弱虫な俺は、翠の気持ちに気付かないふりをした。本当は叫びたいくらい嬉しかったのに、俺は恥ずかしくて素直になることができない。
心臓がドキドキと高鳴って、うるさかった。
◇◆◇◆
季節は廻り、あっという間に二学期は終わりを迎えた。冬休みが終われば高校生活最後の三学期が始まる。そして、俺たちはもうすぐ卒業だ。
俺は、理学療法士になるための学校へと進学を決めた。受験を目の前に、少しだけ気持ちがピリピリしているのを感じる。そんな俺を気遣ってか、あんなにもまとわりついていた翠が、最近は寄ってこなくなってしまった。
それは翠が親離れしてしまったようで、少しだけ寂しい。時々送られてくる翠のメールが、俺の心の支えだった。
『受験が終わったら、どこかに遊びに行こう』
翠のそんなメールに心がときめく。こんな些細なことで、俺は今日も頑張ることができるのだ。
伊織は有名な大学に進学すると言っていた。これで俺たちも離れ離れだ。俺は今まで伊織の後を追いかけて生きてきたけれど、初めて伊織と別々の道を歩むこととなる。
「自分だって、ようやく伊織から親離れできるんだ」
そう思えば可笑しくなってしまった。
俺はきっと伊織に失恋したことからは、すっかり立ち直れているのかもしれない。あんなにも苦しかった日々が、遠いことのように感じられた。
それもこれも、翠がいてくれたおかげだ。俺は翠がいなかったら、未だに伊織のことを引き摺り、千颯に嫉妬しながら生きていたことだろう。
「ありがとう、翠。俺、頑張るね」
校舎から外を眺めれば、冷たい木枯らしが校庭を吹き抜け、砂を巻き上げている。もう冬本番だ。
街へ出ればクリスマスムード一色だし、そろそろ正月を迎えるための商品も店に並び始めている。時間があっという間に流れていくことに、俺は驚きを隠すことができない。
翠と出会って、春に夏、それに秋と冬が過ぎていった。どの季節も、俺の思い出は翠の笑顔で溢れている。
翠のことを思うだけで、俺の心は温かくなった。
年を越えて、迎えた受験日。
俺の受験する専門学校は伊織が受ける大学程、倍率が高いわけではないが、受験の本番日を迎えて朝から心臓がドキドキしっぱなしだった。昂る感情を抑えて、俺は試験に臨んだのだった。
そうして迎えた二月。希望校に合格したり、面接した企業から就職先の内定をもらえた三年生は、登校する日数も減っていく。登校した日には、慌ただしく行われる卒業式の練習。
もうこの制服に袖を通すことはないのだと思うと、熱いものが胸に込み上げてきた。
ヒラヒラと空から粉雪が舞い落ちてきて、俺の心に寂しさが押し寄せてくる。もう学校で翠と顔を合わせることもなくなるんだ。それが、一番悲しかった。
俺の受験期間中、翠とはメールのやり取りだけで、二人で過ごす時間なんてほとんどなかった。時々廊下でばったり会ったり、校舎内で翠を見かける程度で……。俺は翠が恋しかった。
翠に電話で専門学校に合格したことを伝えると、まるで自分のことのように喜んでくれた。スマホ越しに聞こえてくる翠の元気な声が心地いい。
でも、「これで本当に卒業しちゃうんだね」という寂しそうな声に、俺の胸はズキンと痛んだ。
これで本当に、俺はこの学校を去っていかなければならない……。
伊織と千颯のことで胸を痛めた高校生活。それは、俺にしてみたら予想外の出来事だった。
でもそれ以上に、俺はキラキラと輝く思い出を手に入れた。こんな平凡な自分が、あんなにも眩しい高校生活を過ごすことになるなんて……。本当に想像もしていなかった。
「翠に会いたい」
三年生の下校時刻はとっくに過ぎているけれど、俺は昂る気持ちを抑えることができない。
「翠に会いたい」
二年生もそろそろ下校時刻なのだろうか? 一つ上の階にある二年生の教室が騒がしくなってきた。
居ても立ってもいられなくなった俺は、昇降口に向かう足を止めて、今来た道を引き返す。
翠はもしかしたら、あの場所にいるかもしれない。部活がはじまるまでの短い時間、あの場所で休憩している翠を時々見かけた。
ある時は居眠りをしていたり、ある時にはパンにかぶりついていることもあった。それでも俺の顔を見ると、「あ、碧音さんだ!」と、嬉しそうに目を細める。そんな翠の笑顔を見るのが大好きだった。
俺は勢いよく走り出す。運動不足の俺は少し走るだけで息が切れてしまうけれど、それでも俺は走り続けた。
――翠に会いたい。
その一心だった。
◇◆◇◆
そこは普段生徒が近寄らない棟だから、辺りは静けさに包まれている。暖房が全く効いていないこの校舎は、身震いするほど寒い。走ったせいで汗ばんだ体が、一瞬で冷えていくのを感じた。
もし翠と仲良くなっていなければ、こんな所にはこなかったかもしれない。でもここは、翠のお気に入りの場所だから……。俺はこの一年で何度もこの場所を訪れていた。
屋上へと続く階段は、翠との思い出で溢れている。
俺は一度立ち止まり、弾んだ息を整えた。きっと翠はここにいる。
「翠!」
そう名前を呼ぼうとした俺は、一瞬言葉を失ってしまう。
俺が胸を躍らせて階段の上を見上げると……そこには予想もしていなかった光景が広がっていたのだった。
なぜこんなことばかりが起こるのだろうか? 俺は不思議でならない。恋とは、こんなにも上手くかいないものなのか。それともただ単に俺の運が悪いだけなのか……。
――神様の馬鹿野郎。こんなオチはないだろう。
俺は拳を握り締める。体が小さく震え出して、鼻の奥がツンとなった。
「千颯、大丈夫だよ。俺がついてるし」
「ありがとう、翠」
俺の目の前には、千颯の頭を優しく撫でる翠がいた。
頭がパニックを起こして、正常に情報を整理してくれない。もはやこれは夢なのではないだろうか? そんなことさえ考えてしまい、思わず自分の腕を抓ってみた。
「痛い。やっぱり夢じゃないのか……」
自分が抓った部分が赤くなり、ジンジンと熱を持っていく。
柔らかな冬の日差しの中、体を寄せ合う翠と千颯は、とても仲睦まじく見えた。
千颯は伊織と別れたのだろうか? それで今度は翠と……? 翠もそんな千颯を受け入れたのだろうか?
なんで、なんでだ……?
「俺のことをお嫁さんにしてくれるって言ったじゃん」
涙が一滴頬を伝った。心がズタズタに引き裂かれたように痛む。俺は、制服の胸の辺りを強く掴んだ。
「俺は翠を信じていたのに……」
――裏切られた。
そんな思いに支配されてしまった俺の心は、硝子が割れた時のように粉々に砕け散っていった。
翠のことを信じていただけに、俺が受けたダメージは大きくて、思わず泣き叫びたい衝動に駆られる。
あのキラキラと輝いていた笑顔も、逞しかった腕も、柔らかかった唇も、全部が嘘偽りだったんだ……。
この場を離れろ、と俺の中で警笛が鳴り響く。二人に気付かれないように、そっとこの場から消えよう。
それに、もう少しだけ我慢すれば卒業式だ。翠と会うこともない。だから大丈夫だ。大丈夫。そう俺は何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
そっと後ずさろうとしたものの、もう立っていることさえやっとだった俺は、足がもつれてその場に尻もちをついてしまった。転んだ瞬間、鈍い痛みに襲われた俺は顔を顰める。
俺が倒れた音に、翠と千颯が二人してこちらを向いた。
「情けない……」
最後の最後まで本当に情けなかった俺。こんな風に無様に尻もちをついたところなんて、見られたくなかった。
「碧音、大丈夫⁉」
翠が俺に慌てて駆け寄って来ようとしたから、俺は思わず全身に力を籠める。
俺に触らないで、千颯の頭を撫でていたその手で……。
「翠の嘘つき……」
「え?」
「お嫁さんにしてくれるって言ったじゃん? 俺のことを守ってくれるって……。あれは嘘だったのかよ?」
「え? あ、これは違う! 違うんだ、碧音!」
翠が真っ青な顔をしながら俺に近付いてこようとしたから、「来るな!」と声を振り絞る。そんな俺の大声に翠がビクッと跳ね上がった。
俺の目からは涙が溢れ出す。翠と仲良くなってから、本当に俺は泣いてばかりだ。泣いたり笑ったり……。でも幸せで。めまぐるしく変わる感情に、俺は振り回されっぱなしだった。
「もういい。結局翠は、千颯が好きだったんだろう? 俺は最後まで千颯の代わりだった。それなのに、俺ばかり浮かれていて……本当に馬鹿みたいじゃん」
「違う、そうじゃないよ。お願い、碧音。俺の話を聞いて?」
「嫌だ。言い訳なんか聞きたくない」
「碧音……」
俺は溢れ出た涙を制服の袖で拭いながら、必死に立ち上がる。足が震えて力が入らないけど、翠と千颯が一緒にいるところなんて見たくない。
翠の後ろには、千颯が心配そうな顔で俺のことを見つめている。千颯はいいな……誰からも大切にされて。そんな千颯を見て思う。
所詮、俺は残り物だ。
「バイバイ、翠」
俺はこれ以上泣くのを必死に堪えながら翠を見上げる。目の前の翠が涙で滲んで見えた。
俺は逃げるように走り出す。溢れ出す涙は止まってなどくれなかった。
これで終わったんだ。俺の恋も、高校生活も。そして、青春も……。
まるで長い夢を見ているようだった。そんな夢もこれで終わり。俺はたった今、夢から覚めてしまったのだから。
翠に裏切られたことが辛くて、俺は無我夢中で走り続けたのだった。
◇◆◇◆
「はぁはぁ……」
息が苦しいけれど、俺は走り続ける。翠が追いかけてきたら……と思った俺は、できるだけ翠が近寄らなそうな場所を選んで走り続ける。それでも気が付いたときには、社会科準備室まで走ってきていた。
「あ、ここは……」
社会科準備室は文化祭の日に、伊織と千颯が抱き合う光景を目撃して動けなくなっていた俺を、翠が連れてきてくれた場所だ。
辺りはあの日のように静まり返っている。狭い教室に差し込む弱い夕日も、もうすぐ沈んでしまいそうだ。
俺は薄暗くなった教室に入り、床に座り込む。もう動けない……。疲れ切った俺の体は悲鳴を上げていた。
「ここに誰もいなくてよかった」
俺は涙を拭ってから、呼吸を整える。
今、昇降口に向ったら、もしかしたら翠が俺のことを待ち構えているかもしれない。そう思うと怖くなってきてしまい、もう少しここにいようと膝を抱えて蹲った。
逆に待っていてくれなかったとしても、きっと俺はショックを受けてしまうだろう。そう思うと、自分の勝手さに嫌気がさしてしまった。
こんな優柔不断な俺だから、翠に愛想をつかされてしまったのかもしれない。
「疲れたなぁ」
俺は床に座り込んだまま、ボンヤリと教室の黒板のことを思い出す。黒板には大きな文字で「卒業まであと14日!!」と書かれていた。
「ようやく翠に会えると思ったのに……」
頭を抱えて蹲っていると、全身が凍り付いたように寒くなってくる。俺は思わずブルブルッと身震いをした。
寒いのは体だけではなくて、心もだ。心が凍えてしまいそうに冷たい。俺は自分の体を抱き締めて、そっと目を閉じる。たくさん動いたせいか、なんだか眠くなってきてしまった。
文化祭の日、落ち込む俺を翠がここに連れてきてくれた。俺は翠の姿を見た瞬間、ひどく安堵したことを覚えている。
『可愛い迷い猫、見つけた』
あの時翠が言っていた。翠は残り物の俺のことを、いつも可愛いって言ってくれたんだ。可愛い……と幸せそうに笑う翠の顔が思い起こされて、俺の心は締め付けられる。
「猫の耳と尻尾がないから、もう可愛くないのかな……」
自分の頭に触れてみても、文化祭の日に頭に乗せられていた猫の耳はもうない。尻尾だって、なくなってしまった。だから、俺はもう可愛くないのかもしれない。
『可愛い』
翠の笑顔と声が、少しずつ遠退いていくような気がした。
残り物は俺一人だけ。ただそれだけのことだったのに、どうして今まで気が付かなかったのだろうか。
全部忘れよう。俺は夢を見ていただけなんだ。
そう自分に言い聞かせる。それでも心はズキズキと痛み続けた。
◇◆◇◆
「碧音? よかった、見つかって。随分と探したんだよ」
「あ、伊織……」
突然名前を呼ばれた俺はハッと顔を上げる。そこには俺を心配そうに見つめる伊織がいた。久しぶりに見る伊織の姿に胸が熱くなる。伊織は希望していた大学に入学することが決まったって聞いた。
伊織とこうやって一緒にいられるのも、本当に後わずかだ。
「碧音、探したんだよ。俺、碧音に用事があってさ」
「……用事? どうしたの?」
「えっと……。あれ? もしかして、碧音泣いてるのか? それに顔色もよくないし」
驚いたような顔をした伊織が俺の近くにしゃがみ込む。それから、そっと俺の頬を撫でてくれた。泣き腫らした俺の頬は熱を持っていて、伊織の冷たい手が気持ちいい。
「大丈夫?」
「……い、おり……」
優しい伊織。大好きだった伊織。
この大きな手で触れられることを、ずっと夢見てきた。その腕で抱き締められて、形のいい唇で愛の言葉を囁いて欲しかった。俺は、ずっと伊織の恋人になりたかったんだ。
「碧音。実は俺も、悲しいことがあってさ」
「悲しいこと? 何かあったの?」
「うん。ちょっとね……。しんどいな、って思ったら碧音に会いたくなっちゃって」
「え?」
「ごめん、碧音。少しだけ甘えさせて……」
苦しそうに言葉を紡ぐ伊織が、そっと俺にもたれかかってくる。まるで子供のように鼻を鳴らしながら、俺の胸に顔を埋めた。
「碧音、ごめん。少しこのままでいさせて」
「伊織……」
「温かいな、碧音は。すごく落ち着く」
伊織は俺の胸の中で静かに目を閉じる。こんな伊織は見たことがなかった俺は、強い戸惑いを感じてしまった。
子供のような伊織。可愛いなって思う。
きっと昔の俺だったら、こんなシチュエーションは願ってもいなかったはずだ。千颯から伊織を奪い去るチャンスだと、獣のように目をギラつかせていたに違いない。
「伊織も、悲しいことあったんだね」
「うん」
「そっか……」
伊織を抱き締めてやろうと、躊躇ないながらも上げた両手を静かに下ろす。俺は伊織を慰めてやりたいけど、都合のいい存在になりたいわけではない。だって、伊織が好きなのは、千颯なのだから。
「伊織、駄目だよ。俺にはできない」
「碧音、どうした?」
突然俯いた俺を心配そうに覗き込んでくる。伊織は大きなその手で、俺の頬を優しく撫でてくれた。
温かくて、大きな伊織の手。
ずっとずっと欲しくて仕方がなかった。狂おしい程愛おしくて、恋しくて……。
「でも、違う……」
「ん?」
――俺が今必要としている手は、この手じゃない。
俺は伊織の手を掴み、そっと下ろす。
俺が必要としているのは、伊織じゃなくて……。
「あのさ、伊織。俺、ずっと伊織のことが好きだった」
「な、なんだよ、突然……」
「突然こんなことを言われたらびっくりするよな? ごめん。でも、どうしても伝えておきたくて」
突然の告白に伊織がびっくりしたように目を見開く。そんな光景が可笑しくて、俺は思わず吹き出してしまった。
「でも、俺は今、翠が好きなんだ」
「碧音……」
「俺は、翠が大好きだ!」
伊織に向って笑って見せると、また俺の目からは涙が溢れ出す。でも今流れ出る涙は、つい先程までの涙とは違う気がした。
この涙は、とても温かくて、幸せに溢れている……。そんな気がしてならない。翠のことを想うと心が温かくなって、俺は多幸感に包まれる。
――俺は、翠のことが、こんなにも好きなんだ。
もうこの想いは隠すことなんてできない。だって、翠への想いはこんなにも強くて、止められないものになってしまっているから。
「そっか。俺も千颯が好きだ」
目の前の伊織が照れくさそうに笑う。その笑顔は俺が大好きだったものだけれど、今の俺はそれ以上にキラキラと輝く笑顔を知ってしまった。
伊織への恋は、いつの間にか終わりを迎えていたんだ。
俺は、古い恋に終わりを告げ、新しい恋を知ったことを思い知らされる。伊織に失恋したときには、もう恋なんてしたくないと思っていたのに……。俺はこんなにも簡単に翠のことを好きになってしまっていた。
それ程、翠は俺のことを大切にしてくれていたんだ。翠の優しさに胸が熱くなる。
「実は俺、千颯と喧嘩しちゃって。今、校舎中を探してるところだったんだ」
「伊織、千颯と喧嘩したの?」
「うん。情けないことに、俺が千颯を怒らせちゃって……。最近倦怠期なのかな? 色々と上手くいかないことが多くなってね。それがなんだか悲しくて……そしたら急に碧音の顔が浮かんで、会いたいって思っちゃった。ごめんね、碧音」
「ううん。大丈夫」
そっか。伊織は千颯と上手くいってないんだ。だから、俺に会いたいって思ってくれた……。確かに、俺は都合のいい存在だったのかもしれないけれど、伊織に必要とされたことは嬉しかった。
「でも翠が、千颯と一緒にいるって連絡をくれたんだ」
「翠から?」
「あぁ。俺たちの関係を知っているのは、碧音の他には翠だけだから。きっと千颯は、翠を頼ったんだと思う」
「そんな……」
伊織の言葉に俺の全身からサッと血の気が引いていく。じゃああの時翠は、ただ千颯の話を聞いていただけなのだろうか……。必死に「自分の話を聞いてほしい」と、俺に訴えかけてきた翠の姿が思い起こされた。
「俺、翠と千颯が一緒にいるところを見て、理由も聞かずに逃げ出してきちゃった。どうしよう……」
俺は伊織にしがみつく。翠は伊織と喧嘩をして落ち込む千颯を、ただ慰めていただけだったのかもしれない。それなのに、俺はなんて勘違いをしてしまったんだ。
もしかしたら、今頃とんだ勘違いをしてしまった俺のことを、翠は怒っているかもしれない。
「どうしよう、伊織……⁉」
「フフッ。大丈夫だよ。翠も碧音のことを怒らせちゃったって、血眼になって碧音のことを探してるから。さっき千颯のことで連絡をくれたとき、碧音の話もしてたよ」
「本当に? 翠は今どこにいるの?」
「校内を一周して、またあの階段に戻ってきてるって」
「屋上に続いている階段?」
「うん。だから早く行ってあげて? 翠、碧音のことを傷つけちゃったって、泣きそうな声をしてたから」
その言葉に胸がギュッと締め付けられる。行かなくちゃ……! 俺は勢いよく立ち上がって走り出す。教室を出ようとした俺は、ハッとして伊織を振り返った。
「伊織も千颯に謝って、ちゃんと仲直りしてね!」
「あ、うん。わかった。ありがとう」
「じゃあ、俺行くね!」
「碧音、今すごいいい顔している。恋、してるんだね!」
「え?」
「頑張ってね。応援してる」
きっとこの言葉を昔の俺が聞いたら、ショックで立ち直れなくなってしまっただろう。でも今は違う。伊織の言葉が、そっと俺の背中を押してくれた。
「ありがとう、伊織!」
俺は伊織に笑いかけてから、もう一度走り出す。
「ねぇ、碧音。俺も碧音のことが好きだったときがあったよ……」
伊織の小さな告白は、翠の元へと夢中で向かう俺の耳になんて届いてはいなかった。
◇◆◇◆
俺は必死に校舎の中を走る。途中廊下ですれ違う生徒が、そんな俺を不思議そうな目で見ていたけれど、そんなことさえ気にならなかった。
廊下を走り抜けて階段を駆け上る。体力が完全に落ちてしまった俺は、呼吸さえできなくなってしまい酸欠からか眩暈がしてきた。
「もう足が上がらない……」
俺は両膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す。
でも会いたい……。俺は目の前に続く階段を睨みつける。
翠がいる階段はすぐそこだ。俺は最後の力を振り絞って階段を上り続けたのだった。
屋上へと続く階段は、翠との思い出に溢れている。一緒に泣いて笑って過ごした場所。そして、翠に少しずつ惹かれていった場所――。
「翠!」
俺は階段の下から愛おしいその名前を呼ぶ。その名前を口にするだけで、心が甘く震えた。
だって、俺は翠が好きだから。
「碧音!」
「翠……。翠、ごめん!」
俺の姿を見つけた途端、ホッとしたような顔をする翠に俺は飛びついた。その衝撃で翠が倒れそうになったけれど、翠は力強いその腕で俺のことを抱き留めてくれた。
「碧音。よかった、会えて……」
あまりにも強く抱き締められた俺は、一瞬呼吸が止まってしまう。それでも翠の香りを吸い込んで、その肩に顔を埋めた。
「ごめんね、翠。俺、千颯と翠が一緒にいるとこを見て勘違いしてた。二人が付き合い始めたのかもしれないって……。そう思ったら、頭の中がグチャグチャになっちゃったんだ」
「俺のほうこそ、ごめん。俺、碧音のことが好きなのに、千颯の頭なんて撫でて。碧音を傷つけたかったわけじゃないのに……。本当にごめん」
苦しそうに呟きながら、更に俺を抱き締める腕に力を籠める。嬉しいけど、全身の骨がバラバラになってしまいそうなくらい苦しい。でもそんな苦しささえ、幸せに感じてしまうから不思議だ。
「俺、千颯のことはもう何とも思ってないよ。だって、俺は碧音のことが好きだから」
「翠……」
俺を抱き締める逞しい腕は小さく震えている。翠は俺の髪に顔を埋めた。そんな翠がたまらなく愛おしい。
「俺が碧音を追いかけられずに呆然としていたら、千颯に怒られちゃった。早く碧音を追いかけろって……。碧音のことが好きなら、追いかけてきちんと想いを伝えなくちゃ駄目だって」
「千颯がそんなことを?」
「うん。だから俺、ちゃんと千颯に言ったよ。俺は碧音が好きだって。どうしようもないくらい、好きなんだって」
俺の髪を愛おしそうに撫でてくれる翠。そんな翠の鼓動が触れ合う胸から伝わってくる。
好きな人と想いが通じ合うって、こんなにも幸せなんだ……。
俺の体から徐々に力が抜けていき、膝が折れそうになるのを必死に堪える。翠の体に夢中でしがみついた。
「俺も翠が好き」
ようやく本当のことを伝えることができた。ずっと伝えたかったのに、怖くてその気持ちから目を逸らし続けてきたんだ。
でも、もう伝えずにいられない。だって、俺はこんなにも翠のことが好きだから。
「翠が好き。翠は、将来俺をお嫁さんにしてくれるんでしょう?」
「フフッ。そうだよ。俺が碧音を幸せにするんだ」
ようやく抱き締められる腕が弱められた俺は、翠の顔を覗き込む。その翠の笑顔は、キラキラと輝いて見えた。
「俺、翠が進路の第一希望を翠のお嫁さんにしろって言ってたから、進路調査の第一希望だけ空欄で提出したんだ」
「空欄で? そんなことして、先生に怒られなかった?」
「怒られたよ。でも俺の第一希望は翠のお嫁さんだから。だから、俺は第二希望の専門学校に進学するんだ。だって、俺の第一希望は、いつか翠が叶えてくれるだろう?」
俺の言葉を聞いた翠の顔が夕焼けみたいに赤くなる。一瞬泣きそうな顔をした後、いつものように笑った。
「絶対叶えてみせる! 碧音が好き。大好き!」
「うん、俺も翠が好きだよ」
嬉しそうに微笑んだ翠が俺の前髪を掻き分けて、額に優しいキスをくれる。それからそっと瞳を閉じた。
少しずつ近付いてくる翠の顔。俺は恥ずかしくてギュッと目を閉じる。翠の吐息が顔にかかって擽ったい……。
俺が期待に睫毛を震わせると、唇に温かくて柔らかいものが触れた。
「ん、はぁ……」
思わず零れる甘い吐息。心臓がうるさいくらい鳴り響いているけれど、俺は翠の体を引き寄せて自分からもう一度唇を重ねた。
甘くて柔らかい翠の唇。俺はその柔らかな唇を頬張った。
「気持ちいい……」
うっとりと翠を見つめると「可愛いね」と、艶っぽい声で耳打ちをされる。俺の体はどんどん火照っていった。
その言葉が嬉しくて、俺の目からは涙が溢れ出す。俺は泣いているのに、そんな俺を見て「やっぱり可愛い」と翠が笑っていた。
翠に唇を奪われると苦しくて「はぁ……」と大きく息を吸いこむ。それでもキスを止めてくれなくて、重なる唇の隙間から俺の涙が溶け込んで……甘いキスのはずが塩辛い。
俺、すごく幸せだ――。
「ねぇ、翠。残り物でも美味しく食べてくれる?」
「何言ってんの? 碧音は残り物じゃなくて、俺のメインディッシュだよ」
「馬鹿……」
二人で照れくさそうに顔を見合わせてから、俺たちはもう一度キスを交わした。
【END】



