厳しかった残暑もようやく終わりを迎え、涼しい風が校舎内を吹き抜けていく季節になった。
通学路に植えられている銀杏が黄色く色付き、空が高く感じられる。雲一つない空は、青く澄み渡っていて穏やかだったが、十月を迎えた学校は慌ただしい雰囲気に包まれていた。
なぜなら、高校生活の一大イベントである文化祭がすぐそこまで迫ってきているのだ。
各クラスで出し物を決めて、その準備に追われる日々。異様なテンションに包まれる中、みんなで力を合わせて準備に取り組んでいた。
でも俺は、文化祭のような騒がしいイベントが少しだけ苦手だ。そもそも、文化祭なんて所謂陽キャが楽しむものだと思っているから。俺のような目立たない存在は、買い出しや、会場の飾りつけのような役割を与えてもらえば十分だ。
伊織のクラスは喫茶店をやるって言っていた。エプロンをつけ接客をする伊織は、きっとかっこいいだろうな……と想像するだけで心が躍る。
伊織のクラスの喫茶店だけは必ず行こうと心に決めていた。
そんな中、自分のクラスの出し物が決まった瞬間、俺は驚愕してしまう。開いた口が塞がらなくなってしまった。
「じゃあ、私たちのクラスは『子猫のパン屋さん』をやります。店名に子猫がつくので、販売係になった人には猫耳と尻尾を着けて、パンを販売してもらいますからね」
「はぁ? なんだよ、それ……」
俺は壇上で張り切る学級委員の言葉に、思わず耳を疑ってしまう。
猫耳に、猫の尻尾。そんなものをつけてパンを売れなんて、気が狂っているとしか思えない。今年の夏は異様に暑かったから、正常な思考回路が壊れてしまったのだろうか……。俺はボンヤリとそう思った。
女子は一体何を考えているのだろう? と顔が引き攣ってしまう。
いつも購買に売りに来てくれているパン屋から直接パンを仕入れて販売する、という発想はとてもいいと思う。調理をする手間もないから、喫茶店などに比べてきっと楽だろう。
でも、なぜそこに「子猫」が出てきてしまったのだろうか。俺の頭の中をクエスチョンマークが飛び交った。
ここはひとつ会場の装飾係か、パンの仕入れ係あたりをやりたい。販売係なんかになってしまったら、文化祭当日に仮病を使って休むしかない……。それ程に俺は販売係に拒絶反応を示してしまった。
女子はノリノリで販売係に立候補していく。そんな光景を横目に、俺はできるだけ気配を消して体を縮こまらせた。早く決まってくれ……そう願いながら。
「ねぇ、男子も販売係になってくれない?」
「そうだよ! 男子の猫姿も見てみたい」
男子に矛先が向けられた瞬間、俺は机に突っ伏して更に気配を消す。そういったことは、誰かノリのいい男子がやってくれればいい。販売係から逃れられますように……。俺が神頼みをしたとき、思わず耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「あたし、碧音がいいと思う! だって碧音可愛いから猫が似合いそうだもん!」
「あ、あたしも碧音がいいと思った! 絶対可愛いよ!」
「そうだよ、碧音やりなよ!」
一斉に女子から視線を向けられた俺は、言葉を失ってしまう。今自分の身に起きていることが理解できなかった。
「そうだよ、碧音やれよ。お前可愛い顔してるから」
「うん。絶対可愛いぜ?」
「は? お前たちまで何言ってんだ? 俺は絶対嫌だよ。猫なんて……」
ついには、男子まで真剣な顔をしながら俺の顔を覗き込んでくる。一番恐れていた事態に、血の気が引く思いだった。
「碧音、ノリが悪いよ! 大丈夫、私たちがサポートするから」
「そうだよ。みんなで協力するから心配しないで!」
「もし猫耳つけたら、碧音一緒に写真撮ろうね!」
「あ、あたしも碧音と写真撮りたい」
「えぇ……マジで……」
もちろん女子からの申し入れを断ることもできずに、俺は渋々販売係を承諾するはめになる。その他数名、ノリのいい男子も販売係になったことが不幸中の幸いだった。
早くも文化祭が憂鬱になってきてしまう。俺は大きな溜息を吐いた。
そのことを伊織に愚痴ると、声を出して笑い出す。そんな笑顔に、不覚にも胸がときめいてしまった。伊織は、千颯の彼氏だというのに、俺は何を考えているのだろうか……。
「いいじゃん、子猫のパン屋さん。子猫がコネコネってパンを焼くんだよな。昔、教育番組でやってたっけ。懐かしいなぁ」
「よくないよ、男の俺が猫耳に尻尾なんて笑えない」
「そんなことないよ。俺も、碧音は似合うと思うな」
「うぅ……」
俺は昔から伊織の笑顔に弱い。思わず喉の奥で唸ってしまった。
「碧音、俺、焼きそばパン食べたいからよろしくね」
「わかった。ゲットできたら伊織に届ける」
「サンキュ」
嬉しそうに笑う伊織に、俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。
ただ胸が締めつけられて、苦しかった。
◇◆◇◆
そして、いよいよ文化祭本番となった。
高校生活最後の文化祭ということもあり、少しだけ緊張してしまう自分もいる。
「完売目指して頑張ろう!」
猫耳に尻尾をつけた学級委員が、頬を紅潮させながら張り切っている。その異様な光景に、俺は思わず尻込みしてしまった。
つい先程押し付けられた猫耳をつけると「やっぱり可愛い!」と数人の女子に取り囲まれて、勝手に写真を撮られてしまう。俺はその強引さに圧倒されて、溜息をつきながら持ち場についたのだった。
文化祭開始の放送が流れると、どっとお客さんが押し寄せる。それは俺の想像を遥かに超えるもので、バイト経験のない俺は右往左往してしまった。
今年はそんな俺をサポートしてくれる伊織は違うクラスだ。庇ってくれる人もいない分、自分でなんとかしなければならない。
「望月伊織先輩、超かっこよかったね!」
「もうマジ無理。かっこよすぎる」
廊下から聞こえてくる女子生徒の声に耳をそばだてる。どうやら伊織も頑張っているようだ。
「こら、碧音。もっと大きな声出して!」
「わ! ごめん!」
ボーッと伊織のことを考えていると、隣にいる女子に脇腹を突かれてしまった。
「伊織、どこに行ったんだろう。焼きそばパン確保できたのに」
俺は賑わう生徒を掻き分けて、伊織を探す。
文化祭当日の学校は毎年賑わっているけれど、こういう雰囲気はやっぱり苦手だ。中学生に他校の生徒。保護者も来校しているようで校舎内は人で溢れ返っている。
「こんにちは! お化け屋敷にようこそ」
「記念フォト、撮りませんか?」
廊下を歩いていると、色々な生徒に声をかけられる。
校内放送では流行りの音楽が流され、普段の学校とは違う雰囲気に包まれていた。
俺のクラスのパン屋は想像以上の反響で、ものの数時間でパンはほぼ売り切れてしまう。つい先程、追加のパンが届いたようで、俺は運よく大人気である焼きそばパンをゲットできたのだった。
「友達にパンを渡してきたい」と持ち場を少しだけ離れることができた俺は、伊織のクラスの喫茶店を覗いてみたけれど、そこに伊織の姿はなかった。
仕方がなく、俺は焼きたての焼きそばパンをビニール袋に入れて校舎の中をウロウロすることになったのだった。
伊織が食べたいって言っていた焼きそばパンを、幸運にも手に入れることができたのだ。どうしても食べさせてあげたいと思った俺は、いてもたってもいられなくなっていた。なんて言ったって、校内でも超人気の焼きそばパンをゲットできるなんてラッキー以外の何ものでもないのだから。
俺は猫耳と尻尾をとることも忘れて、夢中で伊織を探した。
「どこにいるんだろう……」
伊織に電話をしても出ないし、伊織がこんなときにどこにいるのかも想像できない俺は、とりあえず校舎の中を歩き回る。
文化祭が行われている棟から離れ、別の棟に足を踏み入れてしまうと、賑やかな声が遠くに聞こえてくるだけで静かな空間が広がっていた。
大きな音で流れる音楽も、生徒たちの賑やかな声もここまでは届かないようだ。俺はそっと息を吐く。あのまま賑やかな場所にいたら、どうなっていただろうか。疲れがどっと沸いてきてしまった。
廊下の角を曲がれば、屋上へと続く階段がある。いつも翠が授業をサボり昼寝をしている場所だ。
でも、さすがに今日は翠だって昼寝なんてしていないだろう。翠は人気者だから、きっと賑やかな輪の中心にいるはずだ。
「あれ?」
ふと耳を澄ますと、伊織の話し声が聞こえてくる。
「こんな所にいたんだ。どおりで見つからないわけだ」
ようやく伊織を見つけた、そう思った俺は嬉しくなってしまい階段へと向かって走り出す。段々近付いてくる伊織の声。誰かと話をしているようだから、もしかしたら翠と話しているのかもしれない……。そんな考えが頭を過った。
「伊織」
名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、俺の体がまるで金縛りにあったかのように動かなくなってしまう。まるで足に根が生えてしまったかのように、その場に立ちすくんだ。
「ねぇ、伊織。みんなのとこに戻らなくてもいいの?」
「少しくらいいいじゃん。俺、もう少し千颯と一緒にいたい」
「はぁ……伊織は本当に甘えん坊だね」
伊織と話しているのは、翠ではなくて千颯だ。
俺の呼吸が止まる。鼓動がどんどん速くなっていって、全身が小刻みに震えはじめた。
今すぐこの場から立ち去るんだ。冷静な俺が咄嗟に指令をくだす。それなのに、体が動いてくれない。そればかりか、もっと二人の会話を聞いてみたい……と、好奇心まで湧いてきてしまった。怖いのに知りたい。俺の心がグラグラと揺れる。
見てはいけない、聞いてもいけない。そんなこと、わかりきっているのに。
俺は二人に気付かれないよう、そっと階段を覗き込んだ。
「なぁ、千颯。抱き締めてもいい?」
「だ、駄目だよ! ここ学校だよ。それに今日は文化祭で人がいっぱいいるし……。誰かに見つかったらどうするの?」
「大丈夫。こんな所、誰も来ないから」
「そんなことないよ。翠はよく来てるもん」
「俺の前で違う男の名前を出さないでよ」
そんな会話を聞いているうちに罪悪感に圧し潰されそうになる。恋人同士の甘いやり取りに聞き耳をたてているなんて……最低だし、変態だ。
それでも好奇心には勝てなくて。俺は遠くから二人を見つめた。
「……あ……」
そんな俺の視線に飛び込んできたのは、大事そうに千颯を抱き締める伊織の姿だった。
やっぱり、すぐに立ち去るべきだったんだ。
俺は強く後悔する。
「千颯、可愛い」
「伊織は甘えん坊で困ったさんだね」
「だって、俺、千颯が大好きなんだもん」
「ふふっ。僕も伊織が好き」
愛おしそうに抱き締め合う二人の姿があまりにも綺麗で、俺は言葉を失ってしまう。なんてお似合いの二人なのだろうと、指を咥えて眺めることしかできない自分が情けなくなってしまった。
「助けて、動けない……」
体から力が抜けていき、膝がガクンと折れそうになるのを必死に堪える。頭の中が酸欠になって、意識が遠退いていく気がした。
二人に見つからないうちに、ここから離れないと……。
俺の手から、音もなく焼きそばパンが床に落ちる。
涙で目の前がユラユラと揺れた。
「おい、何やってんだよ! ほら、行くぞ」
「う、ふぇ……」
突然現れた存在に俺は腕を掴まれ、引き摺られるようにその場を後にする。
俺の手をギュッと握り締めて、振り返ることなく歩き出す。その逞しい背中を見ていると、緊張の糸がプツンと切れるのを感じた。
「翠……翠……!」
「もう、なんであんたはあんな現場をボーッと見てるんだよ。傷つくってわかってるだろうに」
「だって、体が、うごかな……くて……」
「ったく、世話が焼けるんだから」
「ごめん、ごめんね、翠……」
突然現れた翠は俺の手を引き、険しい顔をしながら廊下を歩いていく。
翠は制服ではなく、文化祭のためにお揃いで作ったと思われる黒のロンティーを着ている。黒いシャツが翠の整った顔立ちと、引き締まった体をより一層引き立たせて見せた。
「碧音さん、泣きたいなら泣いてもいいよ。その代わり俺も泣くから」
「翠……」
あ、この光景見覚えがある。
その時俺はそう感じた。泣きべそをかく俺の手を引いて歩く翠。あのときも、翠の背中がとても逞しく見えたっけ。
――……水族館に行った日だ……。
あの時も、今みたいに動けなくなってしまった俺の手を引いて、翠があの場から俺を連れ出してくれたんだ。そして「残り物同士仲良くしよう」と、笑ってくれた。
辛かった思い出が呼び起こされて、俺の胸がギュッと痛む。
でも、今とあの時は違う気もする。俺の胸はドキドキと高鳴って、翠に掴まれた手が熱い。その逞しい背中を見ているとすごく安心する。
翠が来てくれてよかった……。俺は翠に手を引かれ、屋上に続く階段から少しずつ遠ざかっていった。
◇◆◇◆
「とりあえずここに避難しよう」
「うん」
翠に連れて来られたのは社会科準備室。社会科準備室と言っても、今は使われていない六畳くらいの小さな部屋に段ボールが山積みにされているだけの空き教室だ。そこには、地球儀やら大きな地図やらが、埃をかぶったまま置かれていた。
社会科準備室の中は埃臭かったけれど、近くに人の気配は感じられない。俺は全身の力が抜けてしまい、壁にもたれかかった。
翠が一つしかない教室の入り口を閉めると、薄暗い部屋が更に暗く感じられる。居心地の悪さを感じた俺は、無意識に身震いをした。
「ったく。碧音さんはあんなところで何してたの?」
「何って……」
「伊織さんと千颯がイチャイチャしているところを真っ青な顔で見てて……。あんた、覗きの趣味でもあるの?」
「そ、そんな趣味ないよ! そんな言い方しなくったっていいだろう?」
あまりにも失礼な翠の言葉に、俺はついムキになって言い返してしまう。だって、あまりにも酷すぎるではないか。俺はこんなにも傷ついているのに……。
再び俺の目頭が熱くなった。
「じゃあ、すぐにあの場から離れろよ。傷つくのは碧音さんなんだぜ? 俺があのとき昼寝に来てなかったら、あんた、続けて何を見せられてたか……。本当に勘弁してよ」
「あ……」
その言葉を聞いた俺は思わず息を呑む。翠は俺のことを心配して、こんなに怒っているんだ。頬を紅潮させ俺を睨む翠を見て、俺はハッと我に返った。
こんなに怒っている翠を見たことがない。俺の為にこんなにも真剣に怒ってくれているんだ――そう思うと、胸が熱くなった。
「翠、俺怖かった。あの場から逃げたいのに、体が動いてくれなくて……怖かった、怖かったよぉ……」
「よしよし、怖かったね」
翠が俺の頭を優しく撫でてくれる。その筋張った大きな手が心地よくて、自然と涙が溢れ出した。
「別に泣いてもいいよ。碧音さんが泣くなら、俺も一緒に泣くから」
「ふふっ。なんだよ、それ」
俺の頬を伝う涙を、翠がシャツで拭ってくれる。二人で顔を見合わせて「プッ!」と吹き出した。
よかった、翠が来てくれて……。途端に体の力が抜けてしまい、俺は教室の壁に寄りかかったまま床に座り込む。耳を澄ませると、遠くから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「あとさ……」
「ん?」
翠の照れくさそうな声に俺は顔を上げる。視線の先には、顔を真っ赤にした翠が目の前に座り込んでいた。そんな翠を見た俺まで恥ずかしくなってしまい、意味もわからずもう一度俯いた。
「碧音さん、なんで猫の耳と尻尾をつけてるの?」
「え? 耳? 尻尾?」
その言葉に俺はハッとする。今まで耳と尻尾をつけたまま校舎の中をウロウロしていたことに、今更ながら気が付いた。そう言えば、やけに色んな人の視線を感じた気がする
穴があったら入りたい……。顔から火が出そうになって、慌てて両手で火照る頬を抑えた。
「ねぇ、なんで?」
翠が悪戯っぽい顔をしながら顔を覗き込んでくるから、思わずギュッと目を瞑った。俺の頭についている猫の耳を、フニフニと優しく触っている。
「この耳、柔らかくて気持ちいいね」
きょ、距離が近い……。翠の吐息が頬にかかって、俺は緊張のあまり倒れそうになってしまった。
「ぶ、文化祭の出し物で、俺のクラスはパン屋さんをやってるんだ」
「パン屋さん?」
「そう。子猫のパン屋さん」
「へぇ。何それ?」
「いや、だから、あの……子猫がコネコネってパンを捏ねるんだ。昔、教育番組でそんな歌があっただろう?」
「知らない。でも……」
翠が意味深に微笑んでから、俺の頬にそっと触れる気配がした。恐る恐る目を開けると、優しい笑みを浮かべた翠と視線が絡み合う。
突然のイケメンのドアップに、俺の貧弱な心臓が止まりそうになってしまった。
「でも可愛い。猫の碧音さん。めちゃくちゃ可愛い」
「……え……?」
「可愛い」
気が付いたときには、俺は翠の逞しい腕の中にいた。翠が加減なく抱き締めるものだから、息苦しいし体中ミシミシと悲鳴を上げている。俺は思わず眉間に皺を寄せた。
長い翠の髪が頬に当たってくすぐったいし、俺の肩に顔を埋めて甘えたような声を出す翠を、どうしたらいいのかがわからない。
恥ずかしいから離れてほしいけど、ずっとこのまま抱き締めていてほしい。反比例する俺の心が、振り子のように大きく揺れた。
「碧音、可愛い」
「翠……」
触れ合う胸からは自分の心臓と同じくらい、翠がドキドキしていることが伝わってくる。
それに……今、碧音って呼び捨てで呼んだ? そんな少しの変化が叫び出したくなるくらい照れくさい。でも、すごく嬉しい。
「翠、あったかい」
「本当に? 碧音もすごくあったかいよ」
「それに、こうやってくっついていると、すごく落ち着く」
「そうだね。碧音はいい匂いもする」
そう言いながら、首筋の匂いをクンクンと嗅ぐ伊織は大きな犬みたいだ。
俺はそっと腕を伸ばして、おずおずと翠の腰に腕を回す。
先程までは、伊織と千颯が抱き合っている光景を見て、あんなにもショックを受けていたのに。今俺は、翠に抱き締められている。
千颯も、こんな気持ちだったのかな……。ふと、そんな考えが頭を過る。誰かに抱き締められるって、こんなにも気持ちがいいんだ。
泣き疲れた俺は、なんだか眠くなってきてしまう。
徐々に体の力を抜いて、翠に体を委ねる。そんな俺の体を、翠が強く抱き締めてくれた。
「ふふっ。可愛い迷い猫、見つけた」
「ん?」
「こんな可愛い猫なら、拾って俺が飼おうかな」
頬を赤らめながら、翠が照れくさそうに笑う。その笑顔に、胸が締め付けられた。
「俺、これから自由時間なんだ。もし碧音も大丈夫なら、一緒に文化祭回ろうよ」
「俺も、みんなに連絡すれば大丈夫だと思う」
「よかった。じゃあ、行こう」
「うん」
「あ、その前に……」
「ん? なんだよ?」
急に翠が俺から体を離す。突然離れていった温もりが寂しくて、俺は唇を尖らせた。
「この猫耳と尻尾は外して行って」
そう言いながら、翠は俺の頭についていた猫耳とズボンにつけてあった尻尾を外してしまう。突然なんだ? と俺が 首を傾げていると、翠が少しだけ不貞腐れたような顔をしながら呟いた。
「こんな可愛い碧音を、他の奴に見られたくない」
「す、ぃ……」
「この迷い猫は、俺が拾ったんだから、俺だけのもんだ」
こんな風に独占欲を剥き出しにしてくる翠に、少しだけ戸惑いを感じてしまう。でも、すごく嬉しい。俺の心が少しずつ温かくなっていくのを感じた。
焼きそばパンはどこかに落としてきてしまったけれど、俺は何か大切なものを手に入れられたような気がする。
それから翠と一緒に文化祭を巡った。
お祭り騒ぎの文化祭が、俺はやっぱり苦手だったけれど――。俺の隣で、子供のようにはしゃぐ翠を見ていることが楽しく感じられた。
「ねぇ碧音。俺のクラス、たこ焼き売ってるんだ。ついてきて!」
「わ! ちょっと、翠待ってよ!」
「早く早く!」
翠の笑顔が眩しくて、胸がキュンと締め付けられる。
そんなこんなで……。迷い猫の文化祭は、翠のおかげで楽しい思い出になったのだった。



