長いようで短かった夏休みが終わりを迎え、今日から新学期だ。
「よし、二学期も頑張るぞ!」なんてやる気も出ず、渋々制服に袖を通す。高校生活最後の夏休みは、特にこれといったイベントもなく過ぎていった。
きっと伊織と千颯は楽しい夏休みを過ごしたことだろう。もしかしたら、この夏休み中に二人の仲が深まって、体の関係をもったかも……。
「駄目だ、駄目。考えるな!」
俺は首を振って雑念を頭の中から追い出す。
こんなことばかり考えていたら、心が圧し潰されてしまう。そんなことはわかりきっているのに、俺の脳は好き勝手に色々なことを考え出してしまい……その結果、心がボロボロになっていくのだ。
これでは、夏休み前から全然進歩していない。
「もうこんなことは終わりにしないと」
そうポツリと呟いても、頭は再び被害妄想に苛まれていく。
そんな時、ふと翠の顔が思い浮かぶ。向日葵みたいに明るい翠の笑顔。
翠とは自分から距離を置こうと決めたくせに、その決心は簡単に揺らいでしまう。
お互いが寂しいからといって、自分の隙間を埋めてもらおうだなんて関係は御免だけれど、正直翠のいない生活はとても寂しかった。
翠の夏休みの課題をなんとか終わらせたその日以来、翠から何度か「遊ぼう」「たまには碧音さんの顔が見たい」と連絡がきた。でも俺は「夏期講習が忙しいからまた今度ね」と受験生らしい言い訳をつけては、翠から逃げ回っていた。
夏期講習なんて、本当は五日間だけで終わってしまうものなのに。翠に嘘をつくという現実が、俺を更に憂鬱にしていった。
結局、俺はどうすれば満足するんだ? そう何度も自分に問いかけた。
伊織への想いにけじめをつけて翠と仲良くすることができれば、きっとまた違う未来が自分を待っていることだろう。それができないならば、伊織が千颯と別れるまでじっと耐えていればいい。
千颯と別れて傷ついている伊織を慰めてやれば、もしかしたら俺の大切さに気付いてくれるかもしれない。そんな淡い期待も抱いてしまう。
でも今の俺は、先に進むことも、その場に留まることさえできないでいる。とんでもない臆病者なんだ。
「嫌だな、新学期」
俺は大きく溜息を吐く。伊織に千颯、翠と会うことがとても怖く感じられた。
恐る恐る登校すると、舎内はいつにも増して賑やかだった。皆、久しぶりに会う仲間と話が弾んでいるようだ。あちらこちらから、恋人と出掛けたといった自慢話や、バイトに明け暮れていたという自虐ネタが聞こえてくる。俺はそんな話に耳を塞いで、伊織の教室の前を足早に通り過ぎた。
でも自分でもわかっている。俺が今一番会いたくないのは翠だ。あの真っ直ぐな瞳で見つめられると、何も言えなくなってしまう。
その場を取り繕う言い訳も、嘘も……全部が翠に見透かされてしまう気がするのだ。
寂しいとか、苦しいとか。本当は誰かと一緒にいたい、とか……。俺は、翠に弱い人間だなんて思われたくない。そんな風に素直になれない自分が、翠を拒んでしまうのだ。
もし学校で翠に会ってしまったらどうしよう。色々シミュレーションをしてみるんだけど、なかなかいいアイディアは思いつかない。
俺は意味もなくビクビクしながら、教室に向かったのだった。
◇◆◇◆
新学期が始まってすぐ行われることといえば、始業式だ。普段つるんでいる友達の影に隠れながら体育館に移動すると、一、二年生は既に整列しているようだ。
大勢の生徒が集合している体育館は、弱い冷房がかかっているもののひどく蒸し暑い。でも、この体育館の中に翠がいるんだ……。そう思うと、変に緊張してきてしまう。最終的には「体調でも悪いのか?」と友達から心配される始末だ。
その時ふと視線を感じたからそちらを見ると、翠がこちらを向いていた。
あ、翠だ……。
俺の中の時が止まった気がする。鼓動の音がうるさいくらい鼓膜に響いた。
夏休み中に髪が伸びて、そのせいだろうか。少し大人びて見えた。でもやっぱり翠はかっこいい。背の順で並ぶと俺は真ん中辺りなのに、翠は一番後ろのようだ。
俺と視線が合った瞬間、翠が寂しそうに笑ってから軽く会釈をする。そんな他人行儀な行動に、心がズキンと痛んだ。俺は会釈を返すことさえできず唇を噛んで俯く。
校長先生のとりとめのない話が、普段以上に頭に入ってこない。翠の寂しそうな顔を思い出す度に、心が張り裂けんばかりに痛んだ。
背の高い翠は全校生徒の中でもよく目立つ。二年生は三年生の前に並んでいるから、背の高い翠を俺は簡単に見つけることができる。時々周りの友達にちょっかいをかけられては、クスクス笑っている翠。そんな翠の後ろ姿を、俺は見つめることしかできなかった。
始業式が終わって教室に戻ると、更に追い打ちをかける出来事が俺を待ち構えていた。
「明後日行われる、球技大会の出場競技を決めたいと思います」
球技大会実行委員が、黒板に球技大会の競技を書き始めている。
そうだ、すっかり忘れてた……。俺は頭を抱えて机に突っ伏す。俺が通う高校は、二学期が始まってすぐに球技大会が開催されるのだ。
「夏休みで鈍った体を動かそう」という名目らしいが、運動音痴からしてみたら本当に迷惑な行事の一つだ。更に他学年の生徒と親交を深めようということで、他学年と試合をすることとなる。
球技大会実行委員は運動神経のいい奴らがやることだし、球技なんて俺には全くセンスがない。そんな俺からしてみたら、参加するのではなく応援していたいと思ってしまう。
卓球か玉入れはないだろうか? そんなことを必死に願ってしまう。そんな願いも空しく黒板に書かれた球技は、バスケットボールにバレーボール。それにドッヂボールとサッカーだった。
「あー、詰んだ」
どの球技も運動音痴にはハードルが高すぎるものだ。
きっと伊織と翠はバスケットボールを選ぶだろう。去年も大活躍していたし。二人の活躍する姿が早くも目に浮かぶようだ。
「卓球と玉入れないのかよ……。せめて大玉転がし……」
俺は頭を掻き毟る。どの競技を選んでも、足を引っ張ることしかできないのは目に見えている。どれが一番無難だろうか……。必死に考えているうちに、立候補をした生徒から順に次々と出場する競技が決まっていく。俺はそれを他人事のように眺めていた。
「碧音、ドッヂボールしか残ってないけど、ドッヂボールでいい?」
「え、あ、うん。大丈夫」
「OK。じゃあこれで全員決まり。みんなよろしくお願いします!」
球技大会実行委員がホッとしたように笑う。案外スムーズに決まったようだ。
俺は結局何に立候補していいのかがわからず、残り物のドッヂボールに出場することとなった。「大丈夫か?」と聞かれたから「大丈夫」だと答えたけれど、本当は全然大丈夫なんかじゃない。
ドッヂボールのルールはわかるけれど、きっと足手まといにしかならないだろう。
「あぁ、嫌だなぁ」
俺は大きく息を吐く。新学期早々、憂鬱なことばかりが起きて、俺は泣きたくなってしまった。
始業式の日、「用があるから」と部活で残っていた翠を置いて先に帰宅してしまった俺。駅に向かう途中、心が締め付けられるように痛んだ。
きっと翠は俺に避けられているって気が付いているだろう。あいつは、勉強は苦手だけれど賢いから。そう思うと、罪悪感で胸が圧し潰されそうになった。
駅に向かう途中、溢れ出しそうになった涙を手の甲で拭う。なんて俺は、嫌な奴なんだろう……。
自分が情けなく感じて、消えてしまいたくなった。
その日の夜、翠から電話がかかってくる。出ようか、このまま無視しようか悩んだけれど、俺は通話のボタンをタップする。これ以上、翠を傷つけ続けることが辛くなってしまっていたから。だって、翠は何も悪いことなんてしていない。
全部、俺の独りよがりの被害妄想だ。でも俺は、怖くて仕方がなかった。
「もしもし」
『あ、碧音さん。よかった、出てくれて。もう電話にも出てくれないかと思った』
「ごめん、翠」
『ううん。大丈夫です』
そんな翠の声は、疲れているように感じられる。俺の胸が、再びズキズキと痛み始めた。
『最近、碧音さんがなんか変だから。ちょっと心配だったんです。すみません、電話なんかしちゃって』
「べ、別に、大丈夫だよ」
『あの、碧音さん。聞いてもいいですか?』
「あ、うん。どうした?」
少しだけ戸惑いを含んだ翠の声に、思わず言葉を詰まらせそうになってしまう。これ以上詮索しないでほしい……。俺のスマホを持つ手が小さく震え出した。
『碧音さん。夏休みの終わりから、俺のことを避けてますよね?』
「え?」
『俺、また何かしちゃったかな……』
不安そうな翠の声に、俺の鼓膜が震える。やっぱり翠は気付いていたんだ。俺が翠を避けてるっていうことに。
あぁ、俺は何をやってるんだろう……。胸が痛くて心が壊れてしまいそうだ。あんなに優しい翠を、こんなにも不安にさせてしまっている自分が、本当に情けなかった。
「別に避けてなんか……」
『嘘だ。あれで避けてないなんて……。いくら鈍感な俺でも気が付きますよ』
「翠……」
『…………』
二人共黙ってしまったものだから、気まずい沈黙が流れる。その沈黙が苦しくて、ギュッと唇を噛み締めた。
「ちょっと最近、受験のことで忙しいだけだから。別に翠を避けてなんかいない」
『でも……」
「俺は翠を避けてない。避けてないよ』
『……わかりました』
俺の苦しい言い訳に、翠が少しの空白の後、そう答える。きっと納得なんてしていないはずだ。でもそれ以上翠が追及してこないことに、俺は安堵する。
「じゃあ、もう切るね」
『はい。急に電話してすみませんでした』
「ううん。大丈夫だよ。じゃあね」
そう告げると、俺は電話を切った。
寂しそうな翠の声に、俺の視界が涙でユラユラと揺れる。目頭が熱くなって、少しでも力を緩めたら涙が溢れてしまいそうだ。
「ごめん、ごめん、翠。俺は翠が大切だから、傷の舐め合いなんかしたくない」
今更本音を吐露したところで、俺の言葉なんて翠には届くはずなんてない。
俺と翠は、失恋をして、二人共残り物になってしまったことがきっかけで仲良くなった。でも俺は、始まりのきっかけが何だったとしても、翠と失恋の傷を舐め合うだけの関係なんか嫌なんだ。
じゃあ俺は、一体翠とどういう関係になりたいのだろうか? そう誰かに問われても、答えることなんてできないけれど……。
新学期がこんなに憂鬱だというのに、明後日行われる球技大会が、更に俺を憂鬱にさせていった。
始業式の翌日も、俺は翠のことを避け続けてしまう。メールが送られてきても曖昧な返信をして、「電話じゃなくて、直接話がしたい」というメールは無視してしまった。
翠を自分から遠ざけたいという気持ちは勿論ある。でもそれ以上に、どう接したらいいのかがわからないのだ。
これからもっと翠と親しくなって、伊織のことを段々忘れていって……そんな時に翠まで離れていってしまったら、今の俺には何も残らない。もしそうなってしまったら、俺はどうしたらいいのだろうか。
伊織に失恋してから、俺はどんどん臆病になってしまっていた。自分が傷つかないよう保険をいくつもかけて、それでも危険を感じたら、自分の中からその危険因子さえ排除しようとしてしまっている。
そんなにも伊織に失恋したことが、俺にダメージを与えたのだろうか。それとも、今は翠を失うことが怖いのだろうか……。
「もう何も考えたくない」
傷ついた過去も、これから来る予想さえできない未来も。それに、憂鬱な球技大会も……。
残り物の俺は、ついに腐ってしまったのかもしれない。
そんな取り留めのないことを考えながら廊下を歩いていると、前から近付いてくる笑い声に俺は顔を上げる。俺はいつの間にか俯いて歩いていたらしい。
俺のほうに向かってくるのは、明らかに陽キャ軍団だ。俺は廊下の隅を歩いて、その集団に道を譲った。
「あ、翠……」
その中に翠の姿を見つける。翠は背が高いから、遠くからでも簡単に見つけることができた。翠の姿を見ただけで、心臓がドキドキする。少しだけ呼吸が苦しくなった。
俺の姿を見つけた翠は、やっぱり少しだけ寂しそうに微笑んでから、俺に向って軽く頭を下げる。翠にお辞儀をされた俺は、咄嗟に頭を下げた。いつもなら「あ! 碧音さんだ!」と遠くから手を振ってきそうなものだけど……。そんなことは、今の翠にはできないだろう。
こんな風に会釈をしあうだけの関係になってしまったことが寂しかったけれど、全ては自分が望んだことなんだ……と、そう自分に言い聞かせる。
そう、自分が望んだこと。
翠とすれ違って、少しずつ離れていく。それはまるで、今の俺たちの心の距離のようにも感じられた。
「さっきの授業で翠がした珍回答、本当にウケたよなぁ」
「うんうん! マジで面白かったわ!」
「なんで? 別に普通じゃん! 俺、超真面目に答えたんだけどなぁ」
楽しそうな笑い声と共に、少しずつ翠が遠ざかっていく。
翠は俺がいなくても、友達と楽しそうにやっている。そんな現実を目の当たりにして、俺は肩を落とす。翠は、友達だって多いんだ。
だから、俺なんかがいなくても、翠は何も変わらない……。
そう思ったとき、ふと背後から視線を感じた俺は思わず振り返る。俺の視線の先には、つい先程みたいに寂しそうに笑う翠がいた。
友達の輪から抜けるかのように俺のほうを振り返る翠と、視線が絡み合う。その何か言いたそうな翠の瞳が大きく揺れているような気がした。
俺の中の時が止まって、周りの騒音がひどく遠くに感じられる。俺は目を逸らすこともできずに、翠を見つめた。
次の瞬間、声にはならなかったけれど翠の形のいい唇が静かに動く。その声にならない翠からのメッセージに、俺の心臓が跳ね上がった。
「翠、何してんだ? 早く来いよ!」
「あ、うん。ごめん」
友達に呼ばれて走り出す翠。自分から遠ざかっていく翠の背中を、俺は呆然と見送った。
「翠、ごめん」
俺の目頭が再び熱くなる。最近は涙もろくなってしまい困ったものだ。男のくせに、こんなにもメソメソしているなんて、本当に格好がつかない。
『寂しい』
先程翠が紡いだ言葉。声にはならなかったけれど、唇の動きと、その表情から読み取れてしまった。
「俺だって、寂しいよ」
俺は翠から逃げるように、教室に向かって走り出した。
◇◆◇◆
そして訪れた、球技大会当日。学校はいつもと違う熱気に満ち溢れていた。
球技大会実行委員に配られたクラスカラーでもある黄色の鉢巻きを巻いた俺は、早くも憂鬱だ。こんなトロイ俺が、果たしてドッヂボールなんてできるのだろうか? いや、できるはずなんてない……。
今年伊織はバスケットボールではなく、サッカーに出場するようだ。サッカーは唯一校庭で行われる競技だから、伊織が体育館にいないことだけが救いのように感じられた。
「伊織に無様な姿を見られなくて本当によかった」
俺はそっと胸を撫で下ろす。
「開会式があるから、みんな体育館に移動してください!」
球技大会実行委員の指示に従い、俺は重たい足取りで体育館へ向かったのだった。
球技大会の開会式が終わっただけで、俺はどっと疲れを感じてしまう。元気に満ち溢れた選手宣誓に、競技開始前にクラスごとに円陣を組んだのだが……それだけで、陰キャの俺はいっぱいいっぱいになってしまう。
「高校生活最後の球技大会! 総合優勝を狙うぞ!」
「よっしゃー‼」
意気込むクラスメイトを横目に、俺は溜息をつくことしかできない。球技大会なんて早く終わればいいのに……そう心の中で祈り続ける。願わくば、一回戦敗退。これが一番好ましい。そしたら午後はのんびりとクラスメイトを応援すればいいのだから。
「はぁ……。こういう雰囲気苦手だ」
俺の溜息は、生徒たちの声援に掻き消されていった。
◇◆◇◆
「やったじゃん! 碧音!」
「本当だよ! お前逃げ足速いのな!」
「全然そんなことないよ……」
俺の願いは空しく、俺のクラスのドッヂボール班は、順調に勝ち進んでいる。
今まで自分でも気が付かなかったけれど、どうやら俺はドッヂボールが苦手ではないらしい。というより、逃げ足が速いようだ。
敵チームは俺に向かいボールを投げてくるのだけれど、寸前のところで俺はヒョイっと避けることができる。コートの中を金魚すくいの金魚のように逃げ回っているうちに、元ハンドボール部の連中がどんどん相手チームの内野を倒してくれるのだ。
なんやかんやで活躍している俺は「やだ、碧音先輩可愛い」「碧音、頑張って!」なんて女子生徒から歓声を浴びる一幕もあったくらいだ。
一回戦、二回戦と勝ち進み、準決勝では優勝候補とされている二年生のクラスと対戦することとなる。そのクラスは、現ハンドボール部のメンバーが数人いて、物凄く速い球を投げてくるらしい。しかもそのクラスは、どうやら翠のクラスのようだ。
そんな翠は、今年はバレーボールに出場していて大活躍をしているらしい。運動神経がいい翠は、バスケットボールだけじゃなくてバレーボールもできるんだ……と感心してしまった。
「翠先輩、めっちゃかっこいい!」
「翠君、頑張って!」
「ナイスキー! 翠、凄い!」
先程から翠の姿を一目見ようと大勢の女子が詰めかけ、体育館の中は黄色い声援が飛び交っている。翠がアタックを決めるだけで、体育館が揺れる程の声援に包まれた。
背の高い翠はそれを生かし、現役バレーボール部員さえも圧倒してしまっているようだ。
やっぱり翠は女子生徒からモテる。女子生徒だけじゃなくて、たくさんの友達がいつも傍にいて、翠の周りは笑い声で溢れていた。
去年は翠と今みたいに仲良くはなかったから、翠を意識して見ることなんてなかった。でも翠はやっぱりかっこいい。
高くジャンプする姿も、仲間のミスをフォローするためにコート内を走り回る姿も……どれをとっても様になる。女子生徒が騒ぎ立てる気持ちが、俺にはよくわかった。
「碧音、行くぞ」
「あ、うん」
「また頼むな」
「はは……ッ。できるだけ頑張るよ」
俺はそんな声援を聞きながら、苦笑いを浮かべて準決勝が行われるコートに向かったのだった。
「これはヤバイ……」
準決勝が開始して早々、俺の全身から血の気が引いた。優勝候補という前評判は本当で、今まで対戦してきたチームとは比にならない。
「こんな球を食らったら、骨折しちまう」
俺は自分に向かって投げられてくるボールを無我夢中で避け続けた。どうやら今までの試合で「あいつはすばしっこい」という迷惑な噂が流れたらしい。そのおかげで、俺はハンドボール部員から格好のターゲットになってしまっていた。
「碧音、避けろ!」
「わかってるよぉ!」
クラスメイトからの声援を受ける度に、俺は悲鳴に近い声を上げる。もう手を振って声援に応える余裕なんて残されていなかった。
必死過ぎて何が何だかわからない……この表現が正しいだろう。俺はまるで獣のように襲ってくるボールを、ただ夢中で避け続けた。
「碧音さん、頑張って!」
「え?」
必死過ぎて周りの音さえ聞こえなかったのに、その声だけは嫌に鮮明に鼓膜に響く。俺は思わず体の動きを止めて、声のするほうに視線を向けた。
「あ、翠……」
「頑張って、碧音さん!」
その瞬間、翠と視線が合う。俺の呼吸が一瞬止まった。
「頑張って、碧音さん! 頑張って!」
両手の拳を握り締めながら声を張り上げる翠。顔なんて茹蛸みたいに真っ赤だ。必死に俺を応援していることが伝わってきた。
「馬鹿じゃん、翠。自分のクラスじゃなくて俺の応援をするなんて。しかもあんなに一生懸命……」
俺の胸が熱くなる。敵の応援なんかしたら、後でクラスメイトに色々言われてしまうだろうに。本当に、馬鹿だよ。
俺が翠のほうに体を向けると、それに気付いたのか翠がにっこりと微笑む。その笑顔に俺は吸い込まれそうになった。
違う、馬鹿なのは俺だ……。こんなにも真っ直ぐで優しい翠を、自分が傷つくことを恐れるあまり避けてしまったなんて。
「碧音さん、かっこいいです!」
「え?」
「碧音さん、めちゃくちゃかっこいい!」
まるでお日様のように笑う翠に、俺は言葉を失ってしまう。
「頑張って!」
あぁ、翠……。胸が熱くなって、心が小刻みに震える。俺は無意識に体操服をギュッと握り締めた。「うん、頑張る!」そう返事をしようとした瞬間。
「碧音! 危ない!」
「へ? グハッ‼」
物凄い衝撃と共に、目の前に火花が散る。
ハンドボール部員が投げたボールは俺の顔面を直撃して、俺はボールごと吹っ飛ばされてしまった。
メキメキッという音と共にボールが右頬を抉っていく。骨が折れたのではないかというくらいの衝撃の後、顔が火を放ったかのように熱くなった。
痛くて苦しくて声も出ない。呼吸が出来なくて、目の前が真っ暗になった。全身の力が抜けていき、俺はその場に倒れ込む。
「碧音! 碧音!」
「大丈夫か⁉」
クラスメイトが一斉に自分の元に駆け寄ってくるのを感じる。
「最上!」
体育教師も飛んできたようだ。俺の周囲が一気に騒然となった。
「すみません、顔を狙うつもりなんてなかったのに……」
俺に向かってボールを投げた、ハンドボール部員の悲痛な声が聞こえる。それが痛々しくて、薄れゆく意識の中で「大丈夫だよ」って伝えたかったけど、それを言葉にすることができなかった。だって、よそ見をしていた俺が悪いんだ。
体育館の床が冷たくて気持ちがいいな、ってぼんやりと思う。ヤバイ、目の前が霞んできた。
「碧音さん、大丈夫⁉」
遠退く意識の中で翠の声が聞こえてくる。
大丈夫だよ、翠。俺は罰が当たっただけなんだ。こんなにも優しい翠に意地悪をしたから。ただ、それだけなんだ。
「碧音さん、碧音さん!」
翠の声が少しずつ遠くなっていくのと同時に、俺の体がふわりと宙に浮くのを感じた。
◇◆◇◆
「ん、んん……ッ」
うっすらと目を開くと強い痛みを感じて、俺はもう一度目を閉じた。でも、右目が見えにくい。
右の頬がズキズキと痛くて熱をもっているのがわかる。少し口を動かすだけで、痛みが走った。
「じゃあ先生は最上君のお家に電話してくるから、少しだけ付き添っていてもらえるかな?」
「はい、わかりました」
「頭を打っているかもしれないから、病院に行った方がいいと思うんだけど……。大丈夫だよ、小野寺君。そんなに心配しないで。念の為、だからね」
「でも……」
「大丈夫大丈夫。じゃあ、少しの間だけ最上君をお願いね」
「はい」
養護教諭の声と翠の話し声が聞こえてくる。今俺はベッドに寝かされていて、辺りからは消毒薬の匂いがした。きっとここは保健室だろう。顔を覆うように冷たいタオルが載せられていた。
俺は顔面にボールを食らった後、気を失って保健室まで運ばれてきたのだろうか。だとしたら、本当に格好が悪い。
しかも、一体どうやって保健室まで運ばれてきたんだ……。深く考えると自己嫌悪の波に呑み込まれそうになったから、俺は強制的に思考回路を停止した。
まだ頭の中はボーっとしているし、体も鉛のように重たい。体に力を入れても指先が少し動くくらいだった。
本当に情けない。俺は大きく息を吐く。再び襲ってきた睡魔に身を委ねれば、意識が遠退いていった。凄く眠い……。
「碧音さん、大丈夫ですか?」
翠の声がすぐ傍で聞こえてきたと思ったら、ベッドが何かの重みで軋んだ。恐らく、俺の寝ているベッドに翠が腰を下ろしたのだろう。俺の腕を優しく擦ってくれる感覚に、俺はもう一度現実に引き戻された。
「碧音さん」
翠の気配が少しずつ近付いてくるのを感じる。労わるような手つきでタオルの上から頬を撫でてくれた。
「碧音さん、お願い。俺を避けないで」
なんだ? と思う間もなく、俺の唇に柔らかなものが触れる。唇に触れたものはすぐに離れていってしまったけれど、温かな感触に俺は思わず肩を上げた。
「寂しい。お願いだから、避けないでよ」
そう言葉を紡ぐ翠の声は震えていて、俺の胸が切なく締め付けられた。
そして、もう一度唇に温かなものが触れる。
それが翠からキスをされたんだって気が付くまでに、俺は時間がかかってしまった。
だって、これが俺のファーストキスだったのだから。
――翠……ごめんね……。
俺は虚ろな視線を彷徨わせながら、翠の手をそっと握ったのだった。
顔を真っ青にしながら学校に駆け付けた両親に付き添われ、病院を受診した俺は、検査の結果、特に異常もなく帰宅したのだった。
それでも顔は腫れているし、鏡を覗き込めば右目の周りにパンダのような痣もある。こんな顔では、当分学校に行けるはずもない。
大体、翠にこんな不細工な姿を見せることが嫌だった。
「数日間学校を休ませます」
そう担任の教師と電話で話す母親を呆然と眺める。きっとあの後、俺の不祥事でクラス中大騒ぎだったはずだ。そう考えると、穴があったら入りたい、という衝動に駆られる。
「もうずっと学校なんて行きたくない」
俺は頭を抱えて、その場に蹲ったのだった。
◇◆◇◆
球技大会の翌日、翠からメールが届く。『碧音さんにお見舞いの焼きそばパンを持ってきました。ドアノブにかけておきますから、後で回収してくださいね』……そんな短い文章に、俺の心は飛び跳ねてしまう。
わざわざお見舞いにきてくれるなんて……。きっと伊織あたりから俺の自宅の場所を聞いたのだろうけど、翠の自宅は恐らく反対方向だ。そのいつもと変わらない優しさに、胸が熱くなった。
メールを貰った直後、俺は自室の窓から顔を出す。もしかしたら、まだ翠が近くにいるかもしれないという、淡い期待を抱きながら。
「あ、翠だ……」
想像通り、翠はまだ自宅のすぐ傍にいた。
「翠、待って! 話があるんだ!」
「あ、碧音さん!」
窓から体を乗り出して大声で叫ぶ俺に、翠がびっくりしたように目を見開く。それからいつものように、ニッコリと微笑んだ。
「ちょっと待ってて。今行くから!」
「はい。待ってますから、ゆっくりで大丈夫です」
俺は慌てて翠の元へと向かう。顔が腫れているとか、パンダみたいな痣があるとか……そんなことは頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
ただ、翠に謝りたい。その一心だった。
息を切らして翠の元に辿り着いた俺は、何度か深呼吸を繰り返して弾んだ息を整える。それから勇気を振り絞って翠を見上げた。そんな俺の勢いに翠が驚いたような顔をした後、フワリと笑った。
「翠、ごめん。俺、翠の言う通り、翠のことを避けてた! 本当にごめん!」
「やっぱり、俺のこと避けてたんですね」
「うん、避けてた。本当にごめんね」
俺が翠の様子を窺うように顔を上げると、翠が大きく息を吐いた。
「なんだ、すごい剣幕で飛んできたから、もっと重要な話があるのかと思いました。昨日ボールに当たった衝撃で、後遺症が残ったとか……。でもよかった、元気そうで……」
翠がホッとしたように胸を撫で下ろしている。そんな優しさが痛いくらいだ。
「で、碧音さん。なんで俺のことを避けてたのか、理由は教えてもらえるんですか?」
「え?」
「俺を避けてた理由を教えてもらわなきゃ、納得できるはずがないでしょう?」
「あ、そうだよね……」
眉間に皺を寄せながら俺の顔を覗き込んでくる翠。恥ずかしくて、少しずつ顔が熱くなっていった。
それにもしかしたら、昨日俺は翠とキスをしたかもしれない。翠の形のいい唇を見ると鼓動が高鳴っていった。
どうしよう、恥ずかしくて本当のことが言えない。俺はまた何も言えずに俯いてしまう。結局俺は、弱虫だ。
そんな俺を見た翠が、ふっと笑った。
「俺、碧音さんに避けられて本当に寂しかったです。だから、こうやって追いかけてきてくれて、謝ってくれただけで十分なんです。理由が知りたいなんて、欲張ってしまってごめんなさい」
深々と頭を下げる翠を見ていると、俺は本当のことを伝えなくちゃいけないんだと思う。こんな風に真正面からぶつかってきてくれる翠に、俺も向き合いたい。勇気を出して、翠にぶつかってみたい。そう思える自分がいた。
「……じゃ、じゃあ聞いて」
「え? あ……はいっ」
「俺さ、翠が俺と仲良くしてくれるのは、千颯に失恋した寂しさからだって思ってた。だから、俺は千颯の代わりなんだって……。そう考えたら、翠の傍にいることが辛くて……」
「碧音さんが、千颯の代わり……?」
「俺、いくら残り物同士だからって、翠と失恋の傷を舐め合う関係は嫌なんだ。俺は千颯の代わりなんてしたくない。俺は俺だから……翠には、俺自身を必要としてほしい!」
翠は驚いたような顔をしている。それはそうだ。ただの先輩という存在から、こんなにも重たい感情を向けられたら迷惑以外の何ものでもないだろう。
言ってしまったことを少しだけ後悔したけれど、これでよかったんだと自分に言い聞かせる。勇気を出せて偉かったって、自分を褒めてあげたかった。
「碧音さん、怪我痛いですか?」
「あ、ううん。触らなければ大丈夫」
「そっか。本当によかったです。俺、碧音さんの顔面にボールがぶつかった瞬間、心臓が止まるかと思いました。気付いたら、碧音さんの傍に駆け寄ってた。でも、本当によかった」
俺の傷をそっと撫でながら、翠が微笑む。その優しい笑みに、また涙が溢れ出そうになってしまった。
「痣がパンダみたいで可愛いですね」
「ジロジロ見ないで。恥ずかしいから」
「そんなことないです。凄く可愛い」
翠があまりにも幸せそうに微笑むから、我慢していた涙が一筋だけ溢れ出してしまった。涙が擦り傷に染みて少しだけ痛い。
「碧音さんは碧音さんです。俺にとって、あなたは大切な人ということに変わりはありません。少なくとも、俺のファーストキスをあげちゃうくらいには……」
「え? ……あ、あー! やっぱり! あの時、唇に触れたのって、翠の唇だったんだ……。夢かと思ってた……」
「あ、碧音さん、やっぱり起きてたんですね……⁉」
翠のその言葉に、一瞬で顔から火が出そうになってしまう。そんな俺を見た翠の顔も、夕暮れみたいに真っ赤に染まっていた。
「すみません、断りもなくキスしちゃって」
「べ、別に……そんな……」
照れくさくなって、俺は翠から視線を逸らす。それからポツリと呟いた。
「翠だけじゃなくて、俺だってファーストキスだったんだ」
「え? マジっすか?」
「うん」
「そっかぁ、マジかぁ……」
翠が照れくさそうに笑いながら、頭を掻き毟っている。でも俺は意外だった。こんなにもモテる翠のファーストキスの相手が、俺だったなんて……。
きっと俺は、翠にとって特別な存在なんだ。
今も目の前で、顔を真っ赤にしながらはにかむ翠を見て思う。俺は、翠の特別だったんだ。もう一度確かめるように心の中で繰り返すと、嬉しい気持ちが沸々と込み上げてきた。
それから二人で顔を見合わせて笑う。すごく恥ずかしいのに、なんでだろう。とても幸せだ。
俺たちの関係は未だになんて説明したらいいのかわからないけれど、翠の特別でいられることが嬉しくて仕方がない。心が温かくて、くすぐったくなった。
◇◆◇◆
球技大会から数日後、怪我が回復して登校した俺は、クラスメイトから耳を疑うようなことを聞かされる。
「碧音が顔面にボールが当たって倒れた瞬間、二年の小野寺が急に飛び出してきてさ。倒れて動かなくなったお前をお姫様抱っこして、保健室まで運んでくれたんだぜ?」
「は? お姫様、抱っこ……? 皆が見てる前で?」
「うん。小野寺、本当に王子様みたいだった。女子がそれを見てキャーキャー騒いでたし。後でちゃんとお礼を言っておけよ?」
「あ、うん。そうだね。うん、お礼ね……」
その話を聞いた俺は、やっぱり穴があったら入りたいと思ってしまったのだった。



