瞬く間に時は流れて、期末試験のシーズンを迎えた。「テストなんてどうでもいいでしょう?」と駄々を捏ねる翠を何とか宥めて勉強をさせる。
「翠、夏休みに再試験を受けるのも、補修に来るのも嫌でしょ?」
「嫌だけど、テスト勉強も嫌です」
「子どもじゃないんだから、我儘言わないの!」
俺はまるで母親のように、口を酸っぱくして「勉強をしなさい」と言い続けたのだった。
渋々テスト勉強をした翠は、ギリギリではあったものの、再試験を受けることなくテストをクリアできたようだ。俺はそれに胸を撫で下ろす。
それにしても返却されたテスト用紙を見ると、五十五点や六十二点、四十三点なんて科目もある。うちの学校は四十点以下が赤点で、赤点を取った生徒はせっかくの夏休みだというのに、補習に通わなくてはならない。夏休み中に試合を控えている翠は、きっと補習なんて受けている時間はないはずだ。
「危なかった、ギリギリだ……」
俺は大きく息を吐く。俺はこんなにも焦っていたのに、当の翠は通常運転だ。テスト前の部活動休止の時期になっても全く勉強なんて始める気配がなかった。
業を煮やした俺は、毎日「勉強している?」と放課後、確認のメールを送ったのだった。だって、試合前に部長がいないバスケ部なんて、洒落にならないではないか? それなのに翠は全く焦った様子などなかった。
「ねぇ、翠。いつもどうやってテスト勉強してたの?」
「んー? また勉強の話ですか?」
「だって、期末試験本当にギリギリだったじゃん?」
「ギリギリだって、赤点を取らなければいいでしょう?」
「そりゃあそうだけど……」
俺の隣を歩く翠が、飄々と答える。翠には試験に対する危機感などはないように感じられた。俺はそんな翠を見て大きな溜息を吐く。
「今までは千颯がいたから……」
「ん?」
ボソッと翠が呟いた言葉が聞き取れなくて、俺は翠を見上げた。見上げた先の翠は、気まずそうに頭を掻き毟っている。
「今までは千颯がいたから、なんとかなってました。あいつは頭がいいから、勉強も教えてくれたし。テスト期間中は、よく一緒に勉強してました」
「そっか……」
「こんなんじゃ駄目ですよね? これからは自分でどうにかしないとなのに」
そう笑う翠はとても寂しそうに見える。きっとテスト期間中、翠は寂しい思いをしていたのかもしれない。それに気付いてあげることができなかった自分が、情けなくなった。
「俺がもっとちゃんと見てあげればよかったね」
「は? 碧音さんは何も悪くないでしょう? 俺が自分で勉強しなかったのがいけないんだから」
「でもさ……」
翠はいつも俺のことを気遣って親切にしてくれているのに、俺は翠のことを何も考えてやれなかった。そんな事実が悔しい。
「よし、これからは俺が受験勉強の合間に、翠の勉強を見てあげる!」
「え? 碧音さんが?」
「うん。俺は伊織や千颯みたいに頭はよくないけど、二年生の勉強なら教えてあげられると思う! だから、俺に任せて! 多分大丈夫だと思うんだ。多分ね……」
「あははは! 碧音さん、自信なさそう!」
最後のほうは小声になってしまった俺を見て、翠が声を出して笑っている。
それを見た俺はホッと胸を撫で下ろす。よかった、翠が笑ってる……。俺は、翠の悲しむ顔を見たくなんてなかったから。それに、翠が笑っていると嬉しくなってしまうのだ。
「じゃあ、これからはよろしくね、先輩」
「先輩?」
「そう、碧音先輩」
「やめてよ、翠に先輩なんて呼ばれると恥ずかしくなっちゃう」
突然先輩と呼ばれた俺の顔は、見る見るうちに赤くなっていく。そんな俺を見た翠が、また腹を抱えて笑い出した。
少しずつ俺たちの傷が癒えて、こんな風に穏やかな時間がずっと過ごせるようになるといいなって思う。
周りからは蝉の大合唱が聞こえてきて、少し歩くだけで汗が噴き出してくる。梅雨が終わりを迎えて、夏本番。一学期も終わって、高校生最後の夏はすぐ目の前だ。
「はい、碧音さん。アイス半分あげます」
「え? いいの? ありがとう」
駅に向かう途中のコンビニで買ったアイスをポキッと割って、翠が半分くれる。受け取ったアイスは冷たくて気持ちがいい。こんな風にアイスを半分こなんて、くすぐったくなってしまう。
でも、翠が本当にアイスを半分あげたい相手って、俺じゃないんだろうな……。そんな考えが頭をかすめる。それと同時に、俺はいつまで翠の傍にいられるんだろうか? と不安にもなってくるのだ。
翠に恋人ができたら、こんな関係は一瞬で終わりを迎えることだろう。翠はモテるから、いつかきっとその日は訪れる。
そしたら、俺は本当に独りぼっちだ。
そんなことを考えながらアイスを咥えると、急に前髪を搔き上げられる。ヒンヤリと額に冷たい風を感じた俺は、翠のほうを見上げた。翠がまるで向日葵のように笑っていたから、俺の胸はギュッと締め付けられる。
「碧音さん、すごい汗だね」
翠が自分に向かって笑ってくれることは嬉しいけれど、苦しい気持ちになるのも、また事実だ。
残り物の俺たちの心の傷が癒えたら、俺は翠に必要とされなくなってしまうのだろうか……。
「それは嫌だな」
俺はポツリと呟いてから、手の甲で汗を拭った。
◇◆◇◆
一学期の最終日。体育館に集まって終業式が行われた。体育館の中はまるでサウナのような暑さで、立っているだけで滝のように汗が流れ出る。熱中症で倒れてしまうのではないか、と不安になるくらいだ。
永遠に続くかと思われた校長先生の話もようやく終わりを迎え、息も絶え絶えに教室に辿り着く。そんな俺を待ち構えていたのが通知表だった。
「ヤバイ、受験生でこの成績か……」
翠に意気揚々と勉強を教えてあげる、なんて言ったくせに俺の成績は実に平平凡凡で。頬がピクピクと引き攣ってきてしまう。
成績が悪いというわけではないが、いいというわけでもない。本当に普通。それは俺自身を見ているかのようで笑えてくる。俺は大きく息を吐きながら、通知表をリュックサックにしまったのだった。
終業式が終われば特に部活もない三年生は、そのまま帰宅することとなる。
翠に会って「またね」と言いたかったけれど、今翠の顔を見ればきっと不安に押し潰されてしまうだろう。そう思った俺は、「また二学期にね」とメールだけを送った。
これから長い夏休みの間、翠に会うことなんてない。だから、寂しいときも苦しいときも一人で乗り切らないとならないんだ。そう思うと不安で仕方がない。俺は翠に頼り切っていたことを痛感する。
「でも、会いたい」
そう思うけれど、今翠に会ったら駄目だ……と自分に言い聞かせる。翠が部活をしている体育館まで足を運んだけれど、俺は踵を返し校門へと向かった。
「碧音さん!」
突然名前を呼ばれた俺は慌てて振り返る。俺の視線の先にはユニフォームに身を包んだ翠が立っていた。あ……と俺の心臓がトクンと跳ねた。翠の顔を見ただけで、目頭が熱くなってしまう。
「翠」
俺は会いたくて仕方のなかった人物の名を呟く。たったそれだけで、鼓動がどんどん速くなっていった。
「碧音さん、俺、夏休み中毎日メールします。あ、電話もしてもいいですか?」
「翠、俺……」
「俺、寂しいときに碧音さんの声が聞きたいです」
照れくさそうに笑う翠。きっと部活を抜け出して俺の元へと来てくれたのだろう。それが嬉しくて胸が熱くなる。翠はいつも優しい……怖いくらいに。
「うん。いつでも電話してきて。待ってるから」
「本当ですか? 嬉しい」
頬を赤らめながら笑う翠に胸が締め付けられる。明日からこうやって翠の顔を見ることのない現実を、俺は受け入れることができずにいた。
「翠、俺寂しい」
「はい? ごめんなさい、聞こえなかった」
思わず本音がこぼれた瞬間チャイムが鳴り、俺の小さな声は搔き消されてしまう。あぁ、翠に聞こえなくてよかった……と俺は胸を撫で下ろした。
「また二学期に会おうね」
「はい!」
「じゃあ、またね」
「碧音さん、気を付けて帰ってくださいね」
俺が笑いかけると、翠も笑ってくれる。俺の心は孤独に押しつぶされそうなのに、とても幸せだった。
「ごめん、碧音さん。ちょっとだけ」
「ちょ、ちょっと待って、翠」
「駄目。待たない」
翠は物凄い力で俺の体を抱き寄せる。力で翠に勝てるはずのない俺は、翠の腕の中に簡単に捕らわれてしまった。
「泣きたいときは電話ください。俺、飛んでくから」
「ありがとう」
「汗臭いだろうけど、もう少しこのままでいてください。碧音さんを充電したいから……」
「――うん、いいよ」
こんな風に男同士が抱き合っているところを誰かに見られたら、きっと大騒ぎになることだろう。でも今の俺は、そんなことなどどうでもよかった。
だって翠と離れている間、寂しさに圧し潰されないように俺だって翠を充電しておかなくちゃ。この逞しい腕も、頬にかかる熱い吐息も、温かな体温も……全てを心に刻みつけて、俺は一人で孤独と戦うんだ。
◇◆◇◆
翠と会えない夏休みは、思っていた以上に寂しかった。でもいざとなると「寂しい」なんて電話できるはずもない。俺は何度も翠に電話をかけようとして、スマホをベッドに放り投げる……を繰り返していた。
終業式の日、クラスメイトの楽しそうな会話に聞き耳をたてていると、知りたくもないような情報が耳に入ってきてしまう。
「俺、夏休み中に彼女と初体験を済ませるんだ!」
「おー! ついにか⁉」
「おう! こんなビッグチャンス逃せねぇよ!」
その会話に俺は強い衝撃を受けてしまう。初体験……俺は、何度か頭の中でその言葉を繰り返す。
「そうか、夏休みってそういう時期でもあるんだ」
それに気付かされた俺は、思わず息を呑む。そして、伊織と千颯のことを思い出した。
あの二人は、一体どこまで進んだのだろうか? そう考え出してしまうと、妄想は一気に加速してしまった。
もしかしたら、今頃二人でいるのかもしれない。抱き合っていたらどうしよう……。
考えなくてもいいことを必死に考えて、俺は泣きたくなってしまった。
そんな出来事があったから、俺は親に頼んで夏期講習に通うことにした。きっと忙しい時間を送っていれば、余計なことを考えずに済むだろうと思ったのだ。
それでも、俺の脳内にはベッドで愛し合う伊織と千颯の姿がリアルに思い起こされてしまう。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
俺は頭を振って雑念を追い払った。こんなことばかり考えていたら、心が壊れてしまう。そんなことはわかりきっているのに……。俺の頭は考えることをやめてはくれなかった。
時折「また四人で遊ばないか?」というメールが伊織から届いたけれど、「塾通いで忙しいんだ」と俺はその誘いを断り続けた。
「心がぶっ壊れる……」
蝉の大合唱を聞いていると、暑さが余計に身に堪えるような気がする。少し外にいるだけで、汗が止まらない。加えて、心の傷のほうもズキズキと痛んだ。
時々居ても立っても居られない衝動に駆られて、涙が溢れ出してしまうこともある。そんな時、翠の顔が頭を過るけれど、夏の大会に向けて一生懸命部活に励んでいるだろう翠に迷惑をかけることなんてできない。
翠が沖縄から買ってきてくれたジンベイザメが、こちらを見て笑っている。
「ジンベイザメ、行ってくるね」
じんわりと滲む涙を手のひらで拭って、俺は夏期講習へと向かったのだった。
それでも、時々届く翠からの俺を気遣う優しいメール。それに縋りつきたい衝動を必死に堪えた。だって俺は、翠に頼らず夏休みを乗り切るって決めたのだから。
夏休みは早く終わってほしいけど、新学期が始まることも怖くて仕方がなかった。
◇◆◇◆
『ヤバイ! 夏休み終わっちゃう! 宿題全然やってないよー!』
突然送られてきた翠からのメールに、俺は目を見開く。思わず寝転がっていたベッドから飛び起きた。
「え? もうすぐ夏休み終わるじゃん?」
俺の全身から血の気が引いていく。カレンダーを確認すると、今日は八月の二十日。始業式は九月一日だ。いくら夏休みに大会があったとは言え、宿題に手を付けていないなんて……。翠らしいと言えば翠らしい。
俺が喉の奥でククッと笑ったとき、スマホが着信を知らせる。電話の主は翠だ。俺の心臓がどんどん高鳴る。会いたくて仕方がなかった翠からの電話に、俺の胸が躍った。
深呼吸をしてスマホの通話ボタンを押す。緊張しているとか、翠からの電話をずっと待っていたなんて悟られたくない俺は、平然を装った。本当は、嬉しくて仕方がないのに――。
「もしもし?」
『あ、碧音さん? 俺、宿題が終わらないよぉ!』
「え? ちょっと、翠。落ち着いて!」
まるで駄々っ子のような声がスマホ越しに聞こえてきた。それが可笑しくて、俺は必死に笑うのを堪える。
「翠、本当に宿題を全然やってないの?」
『全然やってません! 気がついたら今日でした』
「はぁ? 今まで何してたんだよ?」
『部活とゲーム……』
「駄目じゃん……」
『ごめんなさい』
急にトーンダウンしてしまった翠が可哀そうになってしまい、怒ってしまったことを反省する。ゲームはともかく、翠はバスケ部の部長として部活を頑張っていたのだ。本来なら褒めてあげるべきなのかもしれない。
「わかった。一緒に宿題やってあげる。翠、今から学校の図書室に来られる?」
『え? 本当ですか? 俺すぐに行きます!』
「わかった。じゃあ図書室で待ち合わせね」
『はい!』
翠の嬉しそうな声が鼓膜に響いて、俺まで嬉しくなってしまう。顔がにやけてしまいそうになるのを必死に耐えた。
翠に会えるんだ……!
俺は鼻歌を口ずさみながら、久しぶりに制服のワイシャツに腕を通したのだった。
◇◆◇◆
夏休みでも学校の図書室は開放されていて、ちらほら生徒が勉強をしている。もしかしたら、翠と同じように宿題が終わらなくて図書室で勉強しているのかもしれない。もしくは受験勉強か……。
夏休みと言っても、図書室を利用する生徒は俺の想像以上に多いようだ。
「翠、まだ来てないのか……」
緊張したまま図書室に辿り着いた俺は、全身の力が抜けていくのを感じた。今年も猛暑で外は焦げてしまいそうなほど日差しが強い。蝉がやかましいくらい鳴いているものだから、更に暑さを感じさせた。
翠が来た時に俺を見つけやすいように、俺は入り口から見えるテーブルの椅子に腰を下ろす。ここは冷房の風もよくあたるし、俺のお気に入りの席でもあった。
翠と勉強だなんて、なんだか緊張してしまう。俺は緊張をほぐすために、ワークを開いて勉強を始めた。全然集中なんてできないけれど、何もしていないよりマシだ。
「碧音さん。お久しぶりです」
「え?」
何問か問題を解き終わったとき頭の上で声がした。俺がハッと見上げると、息を切らした翠が立っていた。
あ、翠だ……。
その顔を見た瞬間、心臓がトクンと跳ねた。その直後、会いたかったという思いが込み上げてきてしまう。会いたい思いを我慢していた分、翠に会えたときの感動は想像以上のものだった。
「碧音さん、お待たせしてすみません」
「ううん、大丈……夫……」
「走ってきたら暑いー! 図書室って超涼しいんですね」
ワイシャツをパタパタと揺らして風を送る姿が妙に艶めかしくて、俺はドキドキしてしまった。
きっと翠は走ってここまで来てくれたのだろう。俺に会いたかった、からかな……? そんなことを考えると、顔に熱が籠っていった。
そんな俺など関係なしに、翠は俺の隣に腰を下ろす。
「は? なんで?」
俺は思わず目を見開いた。こういう場合、向かい合わせで座るのが普通なのではないだろうか? 近すぎる翠との距離に、心臓がうるさいくらいに鳴り響いた。
「じゃあ、お願いします。碧音先輩」
「あ、うん」
ニッコリ微笑む翠の笑顔が眩しくて、小声で呟いてから俯いたのだった。
それから二人で勉強を始めたものの、翠は十分もしないうちに飽きてしまったらしく、ペンを片手でクルクルと回して遊び出してしまう。本当に子供みたいだ。
俺はそんな翠に構わず黙々と勉強を続ける。俺だって受験生だから、勉強をしなければならない。
「あー、これどうやって解くんだっけ……」
数学の問題に苦戦していると、サラッと髪を搔き上げられる感覚に、思わず体が飛び跳ねた。
「な、なんだよ急に⁉ びっくりするじゃん!」
「だって、あまりにも真剣に勉強してるから、邪魔したくなっちゃった」
「意地が悪い……」
俺が顔を真っ赤にさせながらクレームをつけても、翠は楽しそうに笑っている。翠が髪を撫でる手つきがくすぐったくて、思わず肩を上げた。
「久しぶりに見た、碧音さんの顔……」
「え?」
「俺、ずっと碧音さんに会いたかったです」
翠が俺の髪を自分の指にクルクルと巻きつけながら頬を赤らめた。
誰かに見られちゃう……。俺は思わずギュッと目を瞑る。でも、不思議と翠の手を振り払おうなんて思わないから不思議だ。
「大丈夫。誰もこっちを見てないから」
俺の反応を見た翠が、クスクスと笑いだした。
「す、翠、宿題は? ちゃんとやらなきゃ終わらないよ」
「宿題? そんなの碧音さんを呼び出すための口実です。碧音さん、夏休みになってから全然構ってくれないんだもん。勉強だって言えば会ってくれると思ったから、嘘ついちゃいました。ごめんなさい」
そう言いながら首を竦める翠。それでも、嘘をつかれて腹が立つなんて全然思わない。寧ろ、そんな嘘がとても可愛らしく感じられた。
「碧音さんに会えて嬉しい」
幸せそうに笑いながら、翠の指先が俺の頬を通って首筋を撫でる。その指先が意地悪く動くものだから、駄目だ、もう限界……。
「あははは! 翠、くすぐったいって!」
俺はここが図書室だということも忘れて、声を出して笑ってしまう。そんな俺を見て翠が楽しそうに笑った。
「シーッ! 大きな声を出したら怒られちゃいますよ?」
「だって翠がわざとくすぐるから……」
「ごめんね? 碧音さんが可愛くて、つい触ってみたくなっちゃいました」
俺の心臓はドキドキとうるさくて、まるでオーケストラのようだ。
でも、俺も会いたかった……って素直に言葉にすることができない。そんな自分がもどかしくて仕方がなかった。
「明日も図書室にきてくださいね。じゃないと俺、宿題が終わらないですから」
「はじめから宿題をやる気なんかないくせに……」
「フフッ、バレた?」
俺は翠と顔を見合わせて笑う。久しぶりに翠に会えたことが嬉しくて、俺は胸がいっぱいになってしまった。
夏休み後半は、翠と図書室で勉強の毎日。
翠が率いる新バスケ部は、県大会準優勝という華々しい結果を残したらしい。いきなり輝かしい成績を残した翠が、とても誇らしく感じられた。
翠と会えたことで、俺の心が少しずつ癒されていくのを感じる。翠と一緒にいられることが嬉しくて、俺は寂しさを忘れることができたのだった。
二学期の始業式まであと五日……というところで、翠は宿題をようやく終わらせることができた。
ここに来るまでは本当に苦労の連続で、「飽きた!」と駄々を捏ねる翠をなんとか宥めすかし、勉強をさせたのだった。
「よかった」
俺はようやく肩の力が抜けていくのを感じた。翠も宿題を終わらせた達成感からか、軽い足取りで階段を駆け下りている。
もうすぐ夏休みが終わってしまうけれど、こうやって翠とまた会いたいなって思った。でも宿題という会う口実がなくなってしまった今、どうやって翠を誘い出そうか……とあれこれ思考を巡らせる。
やっぱり翠といると楽しい。それに、伊織のことを忘れることができるのだ。
「あのさ、翠。今度どっか遊びに行かない?」
勇気を振り絞り、俺がそう口を開こうとした瞬間、翠が俺のほうを振り返って言葉を紡ぐ。俺は翠が発した言葉を信じることができず、一瞬呼吸が止まる思いがした。
「ねぇ、千颯」
「……え……?」
俺の世界から音が消えて、景色がモノクロに染まる。クラクラと眩暈がして倒れそうになってしまった。
「宿題が終わって本当によかった。ありがとうございます!」
千颯……?
「お礼に、今度どっかに遊びに行きませんか? 今度は俺が奢りますから」
その名前が翠の口から出てくるなんて、正直思ってもいなかった。でも翠は嬉しそうに笑っているから、きっと無意識なんだろう。悪気だってないはずだ。
もしかしたら、俺と千颯の名前を間違えたことさえ気づいていないのかもしれない。きっと、呼び慣れた名前が自然と口をついたのだろう。
翠、それはルール違反だ……。
俺は拳を握り締めて唇を噛み締める。ギュッと唇を噛んだせいか、口の中から血の味がした。ヒグラシの物悲しい鳴き声が校舎の中に響き渡る。夕焼けが二人の顔を照らし出した。
もうすぐ夏休みも終わりだ。
「どうしたの? 碧音さん。急に黙り込んで」
急に立ち止まった俺の顔を、心配そうに翠が覗き込んでくる。その顔を見た俺は、胸が張り裂けそうになって、目の前が涙で滲んで見えなくなった。
そうか。俺はやっぱり千颯の代わりだったんだ。今まで何を浮かれていたんだろう。
現実を突きつけられて、翠に久々に会ってあれだけ温かった心の中が、急速に凍り付いていく。
翠は千颯に失恋した寂しさを、手頃な俺で紛らわせていただけだったんだ。
――どうして、こんなにも大切なことを忘れていたんだろう。
奥歯を強く噛み締めないと、涙が溢れてきてしまいそうだ。
そりゃあそうだよな。じゃなければ、こんなイケメンが平凡過ぎる俺を相手にしてくれるはずなんてない。
――本当に、馬鹿だなぁ。
翠の心の中には、まだ千颯がいる。それがわかってしまった俺は、心をズタズタに切り裂かれたような気分だった。浮かれていた自分が恥ずかしくなってしまう。
駅に向かう途中も、翠はいつもと様子の違う俺のことを心配してくれていたけれど、俺はどうやって自宅まで帰ってきたのかもわからないくらいだった。
頭の中がボーッとして、全ての思考回路が停止してしまっている。
「やっぱり俺は独りぼっちなんだ」
ベッドの上にいるジンベイザメが、相変わらず笑いながら俺を出迎えてくれる。
これから楽しくなるはずだった夏休みは、最悪な形で幕を下ろしたのだった。



