毎日雨が降り続くジメジメとした季節がやってきた。湿気からくる気持ち悪さで不快指数はマックス。校庭に咲き乱れる紫陽花が、唯一心のよりどころのように感じられる。
 あまりにも蒸し暑くて、ワイシャツの第二ボタンまで開けて下敷きで扇いでいたら、担任の先生に「だらしない」と叱られてしまった。渋々ワイシャツのボタンを閉めて机に突っ伏す。
 こんな時期に二年生は修学旅行へと出掛けるのだ。
 俺たちの学年はアンケートの結果で北海道に行ったけれど、どうやら今年は沖縄に行くらしい。
「いいなぁ。俺も沖縄に行きたかった」
 沖縄に行くことができる翠たちが羨ましい。
 

 修学旅行の前日。いつものように俺を駅まで送っていってくれた翠が、ポツリと何かを呟く。その声はとても小さくて、傘に当たる雨音で危うく聞き逃してしまうところだった。
「俺、三日も学校に来ないけど大丈夫ですか?」
「は?」
「だって、俺がいないと碧音さん、寂しいでしょう?」
 真剣な顔で俺を見つめる翠。茶化すとかじゃなくて、本気で俺のことを心配していることが伝わってきた。
「俺、マメにメールしますから」
「あ、ありがとう、翠。でも俺は大丈夫だよ」
「大丈夫なんかじゃないでしょう? 今日だって目の下に隈がありますもん」
 そう言うと、俺の目の下を人差し指でそっと撫でる。自分でも気が付かないうちに隈ができていたようだ。翠に言われなければ気が付かなかった。
 最近俺は、夜眠ることができずにいる。ベッドに入ると伊織と千颯のことが頭を過り、胸が苦しくなってきてしまうのだ。そんなことをしているうちに、朝を迎えてしまう。
 こんな隈、親だって気が付かなかったのに、翠は気が付くんだ……。俺は翠の心遣いが嬉しかった。


「あ、俺、お土産買ってきます。何がいいですか?」
「そんな悪いよ。お金だって使わなきゃだし、帰りの荷物にもなるよ」
「そんなこと気にしないでください。俺が好きで買ってくるんだから」
「で、でも……」
 あまりにも必死になる翠を見ていると、断ることすら申し訳なく感じてくる。
 お土産、お土産かぁ。
 俺は色々と考えを巡らせる。大体沖縄に行ったことのない俺は、沖縄のお土産と言われてもピンとこないのだ。
「あ、そうだ。ジンベイザメ……」
「ジンベイザメ?」
「うん。ジンベイザメのキーホルダーがあったら買ってきて? このリュックサックにつけたいから」
 俺は翠に背中を向けて、軽くリュックサックを揺らして見せる。今リュックサックには何もつけていないから、ジンベイザメのキーホルダーをつけたら、きっと可愛いだろうなって思った。キーホルダーならそんなに高価ではないだろうし、荷物にもならないだろう。
「わかりました。ジンベイザメですね」
「うん。ありがとう」
 俺が笑って見せると、翠も嬉しそうな顔をする。


「気を付けて行ってきてね」
「はい。碧音さんも寂しかったらいつでも連絡ください」
「わかった。ありがとう」
 駅に着いた俺たちは、改札口の所で別れる。「バイバイ、また明日」って手を振り合って、それぞれの家路につくのだ。今日も、そんな風に翠と別れるのだと思っていた。
 でも、今日の翠は、いつもと少しだけ違っていた。
「じゃあね、翠」
「…………」
「いつも送ってくれてありがとう。じゃあ、バイバイ」
 俺は手を振ってから翠に背を向けた。少しだけ急がないと、いつも乗っている電車に乗り遅れちゃう……。


「待って……碧音さん!」
突然名前を呼ばれて、俺は思わず振り返る。今まで翠と別れるとき、こんな風に呼び止められたことなんてなかったから、どうしたんだろうと心配になってしまった。
「あの、碧音さん」
「なに? どうしたの?」
 俺が翠ともう一度向き合うと、指先をキュッと握られる。雨に濡れて冷たくなった翠の指先が、少しだけ震えているような気がした。
 こんなところを知り合いに見られたらどうしよう……。そんな不安が頭を過ったけれど、今にも泣き出しそうな顔をしている翠の手を、振り払うことなんてできない。
「なにかあった?」
 俺は、翠に握られていないほうの手で、そっと頭を撫でてやる。翠の髪はサラサラしていて触り心地がいい。まるで大型犬の頭を撫でているようにも感じられて、心が温かくなった。
「翠? 大丈夫?」
 そっと翠の顔を覗き込むと、目を見開いて顔を真っ赤にさせてしまう。その予想外の反応に、俺の体温が上昇していった。
「俺は……少しだけ寂しいです」
「え? 何が寂しいの?」
「だから、俺は碧音さんに三日も会えないことが寂しいんです!」
 翠が、顔を真っ赤にしながら俺の手をギュッと掴んでくる。そんな翠を目の前に、俺の鼓動がどんどん速くなっていった。
 これは、一体どういう意味なんだろうか……。
 色々考えてみるのだけれど、頭の中が混乱してしまい上手く考えがまとまってくれない。でも、こんなにも必死に自分の思いを伝えてくれることが、俺はとても嬉しかった。


「俺、修学旅行から帰ってきたら真っ先に碧音さんの所に行きますから。だから、待っててください」
「うん、わかった」
「それに、お土産も買ってきます。それに、それに……」
「ふふっ。そんなに必死にならなくても大丈夫だよ。翠がどこか遠くの外国に引っ越しちゃうわけじゃないんだし」
「でも……俺……」
 唇を尖らせながら俯く翠。長い睫毛が影を落とし、とても綺麗だった。
 翠も俺と同じで、寂しいんだね。そりゃそうだ。失恋の傷は、そんな簡単に癒えるものではない。
 今にも泣き出しそうな翠を見ていると、心が締め付けられるように痛んだ。
「大丈夫だよ、翠。俺はここで翠の帰りを待ってるから」
「本当ですか? 嬉しいなぁ」
「だから、気を付けて行ってきてね」
「はい。行ってきます」
 嬉しそうに笑う翠の髪を、もう一度優しく撫でてやった。


 二年生がいない校舎はとても静かで、でも寂しく感じられる。
 教室にも、体育館にも、屋上に続く階段にも翠の姿は見当たらなかった。
「二年生がいないと静かだね」
「うん。すごく静かだ」
 そんな俺の隣で伊織がポツリと呟く。
 翠とこんな風に仲良くならなければ、きっと二年生がいなくて寂しいだなんて思わなかっただろう。逆に静かでいいな、くらいに感じていたはずだ。
 でも今の俺は違う。翠のいない学校は、寂しかった。
「なぁ、伊織。千颯に会えなくて寂しい?」
「え? 突然なに?」
 急すぎる俺の問い掛けに、伊織が困惑しているのがわかる。でもこの疑問を、投げかけずにはいられなかった。
「千颯がいなくて寂しい?」
「そりゃあ、寂しいよ」
「そうだよね」
 追い打ちをかけるようにもう一度問い掛けると、照れくさそうに笑いながら伊織が答える。自分から聞いておいてなんだけれど、そんな伊織を見た俺の心は締め付けられるように痛んだ。
 でもそれ以上に……。


「俺も、寂しいな……」
「え? 碧音、今何か言った?」
「ううん、なんでもない」
 そう感じている自分に、強い戸惑いを感じていた。

◇◆◇◆

 翠が修学旅行に出掛けた早朝から、俺のスマホは大忙しだ。
『行ってきます!』
 元気いっぱいのメッセージと共に、今から乗り込むであろうバスが映された写メが送られてくる。まだ布団の中にいた俺は、目を擦りながら『行ってらっしゃい。楽しんできてね』と返信したのだった。
 それから事あるごとに送られてくる翠からのメール。俺は今、翠と一緒にいるわけではないのに、まるで翠と一緒に行動しているかのような錯覚に陥りそうになる。
 東京駅に、羽田空港。それに機内から撮った空の映像。正午過ぎにようやく那覇空港に到着したようで『あついーーーー!』というメッセージと雲一つない空の写真が送られてくる。
「あぁ、よかった」
 その写真を見た俺は、ホッと胸を撫で下ろす。飛行機が墜落するなんてことはないだろうけど、それでも心の奥底でずっと心配していたのだ。無事沖縄に着いたという知らせに、俺はようやく肩の力を抜くことができた。
 それに沖縄は今、台風のシーズンだ。晴れていてよかった。きっと、楽しい修学旅行になることだろう。
「楽しんできてね」
 俺は遥か遠くにいる翠にそっと語りかけた。


 その後も翠からのメールは続く。きっと翠が彼氏になったら不安を感じる暇さえないかもしれない……そんなことを考えてしまう。どうやら翠は意外とマメな性格のようだ。
「わぁ、すごい……」
 放課後、翠から送られてきた写真に俺は思わず溜息を吐く。今まで送ってきてくれた写真も勿論素敵だったし、沖縄に行ったことのない俺にしてみたら、その光景は感動の連続だった。
 それは、自分が沖縄にいるような気分にさえなるほどで。きっと、俺が寂しくないようにと、翠が気を遣ってくれているのだろう。
 そして今、翠から送られてきたのは、真っ青な海の写真だった。まるで真っ青なビー玉のように透き通った海は、遥か彼方まで続いている。真っ白な砂浜は、日差しを受けてキラキラと輝いて見えた。
 海の上には雲一つない、青い空。そのあまりにも綺麗な景色に、俺の胸は熱くなった。
『めちゃくちゃ海が綺麗!』
 海を目の前に、無邪気にはしゃぐ翠の姿が目に浮かぶようだ。
 髪をサラサラと揺らす潮風に、決して止むことのない波音。深く息を吸って海の香りを胸いっぱいに吸い込む振りをしてみた。目を閉じると、まるで自分が沖縄にいるみたいだ。


『今度来るときは、碧音さんと一緒に来たいな』
 翠から送られてきたメールに、心臓がトクンと飛び跳ねる。一体どこまで本気なのだろうか? これが失恋したばかりの俺を慰めるためのリップサービスだとしたら、本当に質が悪い。
 うっかり『俺も翠と一緒に沖縄に行ってみたい』なんて返信しそうになってしまうではないか。
「危なかった……」
 俺は深呼吸を繰り返す。うっかり翠のペースに呑み込まれるところだった。今の翠は、きっと沖縄の雰囲気に呑まれて浮かれているだけ……。だから、こんな言葉に喜んではいけない。そう自分に言い聞かせる。
 それでも、俺は自然と上がっていく口角を我慢することなんて、できそうになかった。

 
 それからも時々届く翠からのメールが、いつしか俺は楽しみになってしまった。スマホを見つめては、まだかな……なんて待ち遠しく思う自分がいる。
 今どこで、何をしているんだろう? 思いを巡らせては、色々と考え事をしてしまう。こんなことならしおりを見せてもらっておけばよかった。翠が笑っていたらいいなと思う。
 翠が沖縄のホテルに着いた頃、俺は部活が終わった時間だった。ようやくホテルに到着したようだが、沖縄で二泊三日はやはり弾丸旅行のようで、今日は有名な観光スポットをいくつか訪れたようだ。
 翠は見た目によらず真面目な性格らしく、行った場所それぞれの歴史や文化にきちんと向き合い、その都度大きな感銘を受けていた。写真と共に送られてくる短い感想に、俺は感動してしまう。
「翠って、本当にいい子なんだな」
 改めてそう思う。


 今日は週に一回のボランティア部の活動日だったにもかかわらず、出席したのは俺を含めて数人だけ。必ずどこかに入部しなければならないという校則から、仕方なくボランティア部に入部する生徒は多い。週一回の活動だなんて楽だと、みんな思うのだろう。
 来週実施予定になっている学校の周辺のごみ拾いだって、きっと参加する生徒は少ないだろう。そんな話を翠にしたら「え? 俺行きます!」って目を輝かせていたのを思い出した。
 そんなことを思うと、イライラしていた気持ちが静まっていくのを感じる。何にでも一生懸命に取り組む翠。伊織が涼しげな音をたてて流れる清流だとしたら、翠は勢いよく流れる流しそうめんみたいだ。「ヒャッホーイ!」と騒ぎながら、竹筒の中を滑っていく姿が想像できてしまい、俺はつい吹き出してしまった。


「翠、もうすぐ夕飯かな? 夕飯はバーベキューだって言ってたっけ」
 部活で使った資料を片付けながらスマホを眺めていると、スマホがメールの着信を知らせる。『やっと部屋に着いたよー!』。そんなメッセージと共に、恐らく部屋から撮られた写真が送られてきた。
 真っ赤な夕日に照らされた海は、また昼間と違った顔を見せる。お願い、まだ沈まないで……。そう言いたくなるような、少しだけ寂しい風景。沖縄の海は、夕方も綺麗なんだな。
 今日一日だけで翠からはたくさんの写真が送られてきた。普段友達からメールなんてあまり来ない俺のスマホは、きっと驚いていることだろう。だって、俺自身もびっくりしているくらいだから。
 まるで、俺まで修学旅行に行っている気分だった。
 いつもなら、今日も部員が集まらなかった……なんて憂鬱になっていたけれど、今日はそんなことは全く感じない。
 だって、俺の心は今、翠と一緒に沖縄にいるのだから。


「翠、にふぇーでーびる」
 この言葉は修学旅行に行く前の翠に教えてもらった沖縄語。「にふぇーでーびる」は「ありがとう」という意味らしい。
 翠がこんな風にたくさんの写真を送ってくれなかったら、俺は今頃失恋を引き摺っていた気持ちが膨れ上がって、翠がいないという現実に泣く日々を過ごしてしまっていたかもしれない。それどころか、千颯がいないうちに伊織を取り戻そうと躍起になってしまったり……。
 でも今の俺の心は、沖縄の空のように晴れ渡っている。
 翠はその日、消灯時間になるまで、メールをくれたのだった。

◇◆◇◆

 それにもかかわらず、その翌日、俺の晴れ渡った心に嵐が押し寄せる。やっぱりこの季節の沖縄は、台風を警戒しなくてはならなかったのだ。
「油断した……」
 俺は頭を抱えて蹲る。それは、しとしとと雨が降り続く昼休みの出来事だった。
 突然送られてきたのは、翠が友達たちと撮った写真。今はきっとグループでの自由行動の時間なのだろう。アメリカ村で撮られたであろうその写真を見た瞬間、俺の時が止まってしまった。
「なんだよ、これ」
 問題の写真には数人の男子生徒と翠が映っていた。その集団は明らかに陽キャ集団で、俺が逆立ちしても関わることのない人達だ。そんな中、眩しい笑顔を見せる翠。一瞬写真を見ただけでもわかる。その陽キャ集団の中でも、翠は格別にかっこいいし目立つ存在だ。
 そんな翠を見た俺は、一気に心が冷たくなっていった。やっぱり、俺と翠とじゃ住んでいる世界が違うんだ。
 そんなことは、わかりきっていたのに……。あまりにも翠が仲良くしてくれるものだから、うっかり肝心なことを忘れてしまっていた。
 俺は大きな溜息をつく。浮かれていた自分が段々恥ずかしくなってしまった。伊織は色々と目立つ存在ではあるけれど、翠ほどではない。翠は明らかに皆のアイドル的な存在だ。


 加えて、その陽キャ集団の中に女子が混ざっていたことが更に俺をモヤモヤとさせた。その数人の女子は、俺たち三年生の中でも可愛いって有名な子たちで、やっぱり目立つ存在でもある。
 俺の心に台風を到来させたのは、その子たちが原因だ。皆が翠の腕に絡み付くように抱きつき、仲良さそうに体を寄せ合っているのだ。翠もそんな女子たちを引き離すでもなく、好きなようにさせている。
 この子たちは、恐らく翠に気があるのだろう。それがこの写真一枚で伝わってくるのだから不思議だ。
 それが面白くなかった。
「翠の奴、いいようにさせやがって……」
 沖縄の海のように澄み渡っていた俺の心に、一瞬で暗雲が立ち込める。真っ黒な雲が雨を降らせ、ついには雷まで鳴り出した。
 イライラしてきてしまい、徐々に心のコントロールができなくなっていくのを感じる。唇を噛み、拳を握り締めても心は一向に落ち着きを取り戻してくれそうになかった。
 どうせ俺は陰キャだから、同じグループの子たちみたいに一緒にいても楽しくないだろうし。その女の子たちみたいに可愛くもない。
 やっぱり、俺と翠は不釣り合いなんだ。
 どんどん卑屈になってしまい、ようやくゲットできた焼きそばパンを目の前にしても食欲が湧いてこない。


『翠、もうメールいいよ。修学旅行に集中しな』
 気付いたときにはそんなメールを送信してしまっていた。いきなり突き放すようなメールを送り付けられた翠は、きっと今頃驚いていることだろう。
 馬鹿なことをした……。咄嗟に後悔したけれど、今更後悔したところで後の祭りだ。俺はスマホを握り締めたまま、ズルズルとその場に座り込む。
「俺、最低だ」
 俺は翠の好意を踏みにじってしまったのだ。この写真だって、翠は深く考えずに送ってきてくれたはずだから。
 それなのに俺が、陽キャの友達だとか、可愛い女の子にくっつかれているだとか……一人で色々妄想して、傷ついているだけだ。本当に自分勝手な被害妄想。
 そんな自分に嫌気がさしたのと同時に、翠への罪悪感がどんどん沖縄の澄み切った空に暗雲を呼び込んでいく。いつしか、台風で大しけになってしまった。


 『碧音さん、急にどうしたの?』という翠からの返信にも、なんて答えたらいいかわからない。
 全身から力が抜けてしまい、カタッと小さな音をたててスマホが床に落ちた。俺はそんな光景を呆然と見つめる。
 スマホを片手に慌てふためく翠の顔が頭に浮かぶけれど、なんて返したらいいのかが思いつかない。
「伊織に相談してみようかな……」
 そんな考えが頭を過ったけれど、俺は慌てて頭を横に振る。
 伊織に相談したら「え? 碧音って翠のことが好きなの?」と変に詮索されそうだから、そんなことできるはずがない。
「どうしよう……」
 その後も翠から届く心配のメールに俺は返信できずにいた。だって、「ヤキモチを妬きました」なんて言えるはずがない。俺は翠の恋人ではないのだから、翠にヤキモチを妬く資格なんて俺にはない。
 ついには『ごめんね。俺、なんか碧音さんを怒らせたかな?』と翠に謝罪までさせてしまった。今の翠は、俺のことが気になって修学旅行どころではないかもしれない。
 ごめん、翠……。
 そんな自分が情けなくて、上手い言葉も見つからなくて……目の前が涙で滲んで、ポタリと制服にしみを作った。


 その後も翠から時々送られてくるメッセージ。それに目を通すけれど、返信をすることができずにいた。
 『さっきはごめんね』って送りたくて文章を打つのだけれど、送信ボタンをタップすることができない。溜息をつきながらメッセージを消す――。それをもう何度も繰り返していた。
 憂鬱な気分のまま帰宅した俺は、風呂に入ってベッドに倒れ込む。寝不足の日々が続いている俺は、最近体調もあまりよくない。
 こんな俺でも、沖縄に行けば気分も晴れるだろうか。
 今日翠が送ってくれた沖縄の海はとても綺麗だった。こんな所が本当に日本にあるなんて想像がつかない。
 翠と一緒に行けたら、きっと楽しいだろうなぁ。そんなことを考えてしまえば、胸が締め付けられるように痛んだ。


 そんな中で俺が一番心を揺さぶられたのが、美ら海水族館の動画だった。ずっと写真が送られてきていたのに、それだけは動画だったのだ。
 見上げる程大きな水槽の中には、美しい魚が群れを成して泳いでいる。色とりどりの魚たちは、まるで夢物語の中に出てくる生き物のようにさえ感じられた。水槽の天井からは光が差し込み、幾筋もの光の筋ができている。それはまるで光の矢のようだ。そのあまりの凄さに、俺は動画を見つめて思わず言葉を失ってしまった。
 そんな水槽の中を堂々とした佇まいで泳ぐジンベイザメ。びっくりするくらい大きいのに、泳ぐ姿はゆったりとしている。その水槽の中で、一際目を引く存在だった。
「すげぇ。これがジンベイザメか」
 行ってみたい。俺はそう思う。
 このジンベイザメを翠と一緒に見ることができたら、どんなに感動するだろうか……。
 動画を送ってくれたとき、『俺たちって本当に小さな存在ですね』というメッセージも添えられていた。
 本当にその通りだね。海は広くて大きい。俺たちは学校とか家庭とか、そんな小さな水槽の中で一喜一憂しているだけなのかもしれない。
 でも俺は、本当の海の広さや、本当に人を好きになるっていう現実をまだ知らない。
「ごめんね、翠」
 小さな声で呟く。また涙が滲んできたから、慌ててパジャマで涙を拭ったとき、俺のスマホが着信を知らせたのだった。


 スマホの画面には小野寺翠という文字。俺の心臓が一気に跳ね上がる。
 ブブブブッというバイブレーションの音と共に、ベッドが小さく震えた。
「ど、どうしよう……」
 呼吸が止まって、体が小さく震え出す。早く出なくちゃ、と思うのに、体が強張って動いてくれない。きっと忙しいスケジュールの合間を見て電話をしてきてくれているのだろう。そんな翠の思いを無駄になんてできない。
 そう思った俺は、何回か深呼吸をしてから覚悟を決めて通話ボタンを押した。
『もしもし、碧音さん。よかった、出てくれて』
「翠……」
 ホッとしたような声がスマホ越しから聞こえてくる。初めて翠と電話で話をしたけど、こんな声なんだ……と耳が熱くなった。
 たった数日翠の声を聞いていないだけなのに、ひどく懐かしい。鼻の奥がツンとなった。
『よかった、電話に出てくれなかったらどうしようって思った。あー、緊張した……』
「ごめん、翠。なんか俺、気を遣わせちゃって……」
 きちんと謝らなくては、と思うのに最後のほうは聞き取れないほどの小声になってしまう。本当に俺は臆病者だ。
「翠、今どこにいるの?」
『部屋のベランダです。なんか碧音さん怒ってるのかなって、心配になって電話しちゃいました。すみません』
「あ、翠、俺……」
『碧音さん、何か怒ってるでしょう? 何か気に障るようなことしちゃったかなぁ。俺、無神経だから、知らないうちに何かしちゃったのかもしれない……ごめんなさい』
 きっと翠は今不安そうな顔をしている。声だけでそれが伝わってきた。
 俺はなんて大馬鹿野郎なんだろうか。こんなにも優しい翠を不安にさせてしまうなんて。しかも高校生活の一大イベントである修学旅行中に。自分が情けなくなってしまい、俺は唇を噛み締めた。


「違うよ、翠は何もしてない。全部俺が悪いんだ、ごめん」
『え? どういうことですか?』
 翠が必死な声で食い下がってくる。そんな苦しそうな声に胸が痛んだ。
「俺、ヤキモチ妬いてたんだ」
『ヤキモチ?』
「うん。翠が俺の知らないところで、俺の知らない人たちと笑っているのが寂しかった」
『…………』
 きっと、なんて愚かな奴なのだ、と呆れられてしまったことだろう。翠が黙ってしまったから沈黙が流れる。俺は、その静けさが怖かった。
 でも俺は、今思っていることを素直に伝えたいと思った。これ以上、こんなにも優しい翠を困らせたくはなかったから。
「俺は翠より一つ年上だから、翠と修学旅行にいくことができない。だから、あの写真に写っている人たちが羨ましくて仕方がないんだ。俺だって、翠と一緒にジンベイザメが見たい」
『碧音さん』
「ごめん、こんな子供みたいなヤキモチを妬いて。本当にごめん。ごめん、翠」
 もう謝ることしかできない。楽しい修学旅行中に嫌な思いをさせてごめん。忙しい中電話なんてさせてごめん。それに……翠の恋人でもないのにヤキモチなんか妬いて、本当にごめん。
 ごめんね、翠。


『ふふっ。なんだ、そんなことか』
「え?」
『なんか、もっと凄いことが碧音さんの中で起こってるのかなって心配しちゃったけど。そっか、ヤキモチかぁ。へぇ、ヤキモチねぇ……』
 嬉しそうに「ヤキモチ」と何回か繰り返してから、翠がクスクスと笑いだす。「くだらないことで拗ねないでください」と怒られると思っていた俺は、拍子抜けしてしまい肩の力が一気に抜けていった。
『碧音さんは可愛いなぁ』
「可愛い?」
『はい。俺、ヤキモチを妬いてもらえるなんて思ってなかったから、超嬉しいです。碧音さん、ヤキモチを妬いてくれてありがとう』
「翠……」
 翠はなんて純粋で優しいいい子なんだろう、と俺は感動してしまった。
『……なぁんて、本当はヤキモチを妬いて欲しくてあの写真を送ったんですけどね』
「ん? 何か言った?」
『あははは! なんでもありません!』
 翠がポツリと呟いた声が聞き取れなくて思わず聞き直したら、翠がケラケラと声を出して笑いだす。その声に、心の底から安堵した。
 よかった、翠が怒ってなくて。


『碧音さん、俺たちが大人になったら、沖縄に一緒に行きませんか?』
「沖縄に?」
『はい。沖縄めちゃくちゃいい所です。住みたいなって思うくらい』
「へぇ、そんなにいい所なんだ」
『だから一緒に行きましょうね』
「うん。俺、その日を楽しみにしてる。今から楽しみだなぁ」
『俺も楽しみです!』
 翠と一緒に沖縄旅行……想像しただけで心がウキウキしてくる。あの悠々と泳ぐジンベイザメを実際に見てみたい。本当に翠が送ってくれた写真のような世界が、この日本に存在しているのだろうか。
「翠、たくさん写真ありがとうね」
『いえ、全然。寧ろこんなに送って迷惑かなって思ってたくらいで』
「そんなことない、俺、超嬉しかったよ」
『よかった。あの、俺……』


 翠が何かを言いかけたとき、『翠、誰と長電話してんの? 彼女かぁ?』『いいなぁ、モテ()は……』という声が聞こえてくる。どうやら同室の仲間が、長電話をしている翠を冷やかし始めたらしい。
『うっせぇな。彼女じゃないけど、大切な人と話してたの。もう切るよ』
「大切な人……」
 翠が冷やかしてくる仲間にサラッと言った言葉に、俺の心臓が跳ね上がる。俺は翠にとって大切な人なんだ……。顔に熱が籠って、鼓動がどんどん速くなっていった。
『じゃあそろそろ切りますね』
「うん。あの……友達にからかわれちゃったみたいで、ごめんね?」
『大丈夫です。俺が、碧音さんの声を聞きたかっただけだから。じゃあ、明日には帰りますからお土産待っててくださいね」
「ありがとう。気を付けて帰ってきてね」
『はい。じゃあ、おやすみなさい』
「うん、おやすみ」
 プツッと通話が終了した後も、俺はスマホをなかなか耳から離せずにいた。この短時間に色々な情報が頭に飛び込んできて、パンクしてしまいそうだ。
 おやすみなさい。
 その言葉が、特別な呪文のように聞こえてきて、胸が熱くなる。よかった、翠にきちんと謝ることができて。俺は胸を撫で下ろした。


 翠との通話が終わっても、鼓動はドキドキしたままだ。伊織に失恋してから、ずっと眠れない日々が続いていた。嫌な夢ばかり見るし、朝起きると体が重たくて仕方ない。
「でも、今日は違う意味で眠れなそうだな」
 俺は枕を抱き締めて、ベッドの上を転げ回ってしまった。

◇◆◇◆

 翌日、『帰ってきました! 碧音さん()の近所にある公園に来てもらえますか? お土産渡したいんです』というメッセージが翠から届く。今何時だ? と時計を見ると、夜の十時。
 今帰ってきたばかりだというのに、こんな時間にわざわざ家の近所の公園まで来てくれるというのだろうか……びっくりを通り越して、申し訳ない思いに苛まれてしまう。
 疲れているだろうから、ゆっくり休めばいいのに。そう思うけれど、翠に会いたいという思いがむくむくと芽を出してきてしまった。
 俺は逸る気持ちを抑えて、急いでパジャマを脱ぎ捨てる。スウェットに着替えてから近所の公園へと向かった。


 俺が走って公園へとたどり着くと、「おーい! 碧音さん!」と手を振る翠を見つけた。久しぶりに会った翠は、沖縄の太陽みたいに笑っている。
「あ、翠! おかえり!」
 そんな翠の傍に俺は急いで駆け寄った。少し走っただけなのに息が切れて苦しいけれど、翠に会えたことでそんな苦しさも喜びに変わっていく。
 よかった、元気に帰ってきてくれて。そんな嬉しさで胸が満たされていった。
「はい、碧音さん。お土産のジンベイザメ!」
「え? 何これ?」
 翠が飛び切りの笑顔で脇に抱えていたものを俺の前に差し出す。突然翠に渡されたものの正体がわからなくて、俺は思わず目を見開いた。


「美ら海水族館で売ってたぬいぐるみの中で、一番大きなジンベイザメです!」
「すごい、超大きいじゃん!? 軽く一メートル以上ありそう!」
「でしょ? これを持ち歩くのは骨が折れましたよ」
「あははは! あり得ない! 大き過ぎるだろ!?」
「だって、一番大きなジンベイザメを碧音さんにあげたかったんです!」
「本当に大きい! あははは!」
「超大変でしたよ! 色んな人にジロジロ見られましたし、先生にも限度があるだろう? って怒られました」
 腹を抱えて笑う俺を見て、つられて翠も笑い出した。だって、修学旅行中こんな大きなジンベイザメを抱えている翠の姿を想像するだけで可笑しくなってくる。
 でもすごく嬉しい。
「ありがとう、翠。俺嬉しい」
「よかった、碧音さんが喜んでくれて」
「うん。大切にするからね」
「はい」
 俺は嬉しくて、ジンベイザメを抱き締めながら頬ずりをする。ジンベイザメのぬいぐるみは柔らかくて、ほんのり潮風の香りがした。


 その夜、俺は夢を見た。
 それは大海原をジンベイザメに乗って冒険をする夢。そこには楽しそうに笑う、翠の姿もあった。
 俺たちは広い海をジンベイザメに乗り駆け巡る。途中沈没した海賊船を見つけたり、可愛らしいイルカの群れにも遭遇した。それは、壮大な冒険で胸がドキドキしっぱなしだった。
 そして翌朝、俺は一度も目を覚ますことなく朝を迎えた。こうやってちゃんと眠れたのは、本当に久しぶりだ。よく眠れたせいか体は軽いし、朝日がいつもよりキラキラと輝いて見える。
「ありがとう、翠」
 そう囁いてから、俺は隣にいるジンベイザメのぬいぐるみを抱き締めたのだった。