初っ端に水族館のことがあった俺のゴールデンウィークは、最悪な形で幕を引く。その後、スマホの電源はオフにしたまま、誰にも会わずに引き籠って家で過ごした。
 高校生活最後のゴールデンウィークがこんな形で終わってしまったことが悲しくて、俺は連休明けに登校することがひどく憂鬱だった。 
 しかし、そんな俺に追い打ちをかける出来事が起きてしまう。立ち直れる日もやってくるかもしれない。そんな一縷の望みを打ち砕いてくるような。それ程その出来事には破壊力があった。


 それはいつも通り、伊織と翠、それに千颯の四人で下校しているときのこと。四人で顔を合わせるなんて、気まずい以外の何ものでもなかった俺は、口数少なく皆の少し後ろを離れて歩いていた。
 スマホの電源をずっとオフにしていた俺は、あの後伊織と千颯がどうなったのかなんて知る由もない。ずっと連絡が取れなかった俺を心配してくれた伊織には「スマホが壊れた」と嘘をついてしまったのだった。
 伊織と千颯は付き合うことになったんだろうか。
 もし付き合うことになったとしたら、もう手を繋いだのだろうか? キスはしたんだろうか? そんな考えなくてもいいことをとりとめなく考えては、どんどん苦しくなっていく。それを繰り返していた。


 校舎から出てもう少しで校門、というところで伊織が急に立ち止まる。それから照れくさそうに髪を搔き上げた。
 嫌な予感しかしない。こんな時の俺の勘は、大体当たってしまうのだ。
「あのさ、碧音、翠。俺と千颯、付き合うことになったんだ」
 その言葉を聞いた瞬間、頭をまるで鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。
 あぁ、やっぱりか……。
 覚悟はしていたのだけれど、いざ現実になってしまうと途端に心が悲鳴をあげだす。最も恐れていた事態に、俺は目の前が真っ暗になった。
 なんとか平静を保たねばと思いながら翠のほうを盗み見ると、俺と同じように傷ついた顔をしている。それを見た俺は、更に心をズタズタに切り裂かれた気分だった。


「そっか、よかったね。おめでとう」
 俺は思ってもいない言葉を口にする。ずっと心の中では、うまくいかなければいい、って願っていたのだから。
でも、「おめでとう」という言葉は、連休中に何度も練習をしてきた台詞だ。自然に祝福できただろうか? 不安が押し寄せてくる。今の俺は、ちゃんと笑えているだろうか? 顔が引き攣っていないだろうか? それが心配だった。
「よかったですね。おめでとうございます」
 翠も笑顔で二人を祝福している。翠はきちんと笑えていて、すごいなと感心してしまった。
「ありがとう」
 そう伊織が照れくさそうに笑う。その横で、千颯は顔を赤らめている。悔しいけれど、そんな千颯はとても可愛かった。
「俺ももうすぐ部活を引退するから、早く帰れるようになると思うんだ。だから、これからは千颯と二人で帰るね」
「そっか、わかった」
「ごめんね、碧音」
「なんで謝るんだよ! 付き合ってるんだから、一緒に帰るのなんて当り前だろう?」
 すまなそうに俺のほうを見る伊織に、胸が締めつけられる。それと同時になんて惨めなんだろう、と悲しくなってしまった。
 これで俺は、伊織の傍にいることさえできなくなってしまったのだ。
「ごめんね、翠。一緒に帰れなくて」
「なんで千颯まで謝るんだよ! 気にすんなって。伊織先輩と仲良くやるんだぞ?」
「うん。もちろん。翠、ありがとう」
 すまなそうに顔を曇らせる千颯に向かって翠が笑いかけると、千颯がホッとしたような顔をした。


「じゃあさ、碧音さん。これからは二人で帰りませんか?」
「え? 翠と二人で?」
「はい。残り物同士、仲良く帰りましょうよ。部活が終わるまで待っててくださいね」
「あ、うん。わかった……」
 俺に笑いかける翠に、「なんで受験生の俺が翠を待ってなくちゃいけないんだよ」なんて文句を言うことなんてできなかった。
 だって、俺には翠が精一杯強がっていることが手に取るようにわかってしまったから。
「残り物同士、か……」
 その言葉は、俺の心にまるで氷のナイフのように突き刺さったのだった。

◇◆◇◆

 伊織と千颯の交際の知らせを聞いてから、俺の心はずっと憂鬱だった。ご飯だって美味しくないし、夜も眠れない。
 二人は今頃一緒にいるのかな……。そんなことを考えて、更に気持ちは落ちていく。
 別れてしまえばいい。そう心の底で願っていることに気付いた俺は、首を振ってその雑念を振り払う。そんなことを考えてしまう自分は最低だ。どんどん卑屈になってしまうことが、俺は悲しかった。
 そんな俺の心の支えになってくれたのが翠だった。
 伊織が率いるバスケ部は全国大会には及ばず、三年生はそのまま引退となる。そして新しい部長に選ばれたのは翠だった。
「翠、バスケ部をよろしくな」
「はい」
 伊織に肩を叩かれる翠は、いつもより逞しく見えた。
 失恋を引き摺ってどんどん腐っていく俺と、未来へと歩き出している翠。この差は何だろうか……。俺は、翠が眩しく感じられた。
 そんな翠とは約束通り、毎日一緒に帰るようになった。いつも俺は、体育館の入り口で伊織のことを見つめていた。でも俺は、今同じ場所で翠を見ている。そして、俺の傍にいつもいた千颯はいない。
 こんな環境の変化をなかなか受け入れられることができない。俺一人だけが取り残されてしまったような気分だ。
「体育館に伊織がいない」
 ポツリと呟いたところで、時間は戻ってくれるはずなどない。俺は、伊織のいない体育館で途方に暮れてしまっていた。


「碧音さん、お待たせ。帰りましょう」
「うん。翠、お疲れ様」
「疲れました。部長って思っていた以上に大変なんですね」
 こうやって卑屈になった俺を現実へと連れ戻してくれるのが翠だった。翠の明るい笑顔に、俺はもう何度も救われている。
「翠、部長になったお祝いに、駅前のたこ焼き奢ってあげるよ」
「本当ですか? 嬉しいなぁ。俺、明太子マヨが好きです」
「いいね! 美味しそうだ」
 嬉しそうに顔を綻ばせる翠と一緒に歩き出す。それでも、なんやかんや言って少しずつ慣れてきたこの違和感。俺の隣を歩いているのは伊織ではなくて、翠だ。
 翠は伊織よりも背が高いから、伊織と話す時よりも少しだけ目線を高くしなければならない。そんな些細な変化も受け入れられつつある。


 そして俺が全く予想していなかったことは、翠が毎日駅まで送ってくれるということだった。いつも俺たちは校門で別れていたのに、翠は駅まで毎日ついてきてくれる。そこで俺たちは別れた。
 「女の子じゃないんだから、わざわざ送ってもらわなくても大丈夫だよ」と言うと、「俺が好きでやってることだから気にしないでください」と逆に怒られてしまった。そう言われてしまえば、それ以上は何も言い返せずに、翠に毎日駅まで送ってもらっている。
 翠がいつも使っているバス停は駅とは正反対だ。何だか申し訳ないような、気恥ずかしいような思いを感じずにはいられない。
 翠に大切にされているように感じられて、心がくすぐったくなってしまった。
「いただきまぁす!」
 翠が部長になったお祝いにとたこ焼きを奢ってあげれば、大きな口で美味しそうに頬張っている。そんな姿はとても可愛らしい。
 あんなにたくさんいる部員の中から部長に選ばれることは、とても凄いことだ。それはいつも近くで伊織を見ていたから知っている。
 何事にも一生懸命取り組む翠。いつしか翠は、俺の心のよりどころになってしまっていた。


「翠、たこ焼き美味しい?」
「超美味いです。碧音さんも一つどうぞ?」
「え? だ、大丈夫だよ! 翠のお祝いなんだから翠が食べてよ」
「でも、一つだけどうぞ」
 翠がたこ焼きを一つ串に刺し、俺の目の前に差し出す。それを見て俺は戸惑ってしまった。もしかして、これを「あーん」と口を開けて食べろというのだろうか? しかも、こんな人が大勢いる駅の構内で? 俺の顔は一瞬で真っ赤になってしまった。
「大丈夫だから翠が食べて」
「え? 本当にいいんですか?」
「いいのいいの! 俺、お腹減ってないから」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 翠が再び大きな口を開けてたこ焼きを頬張る。それから「美味い」と幸せそうに笑った。
 俺の心臓は未だにドキドキと鼓動を打ち続けている。翠のような陽キャには、こんなスキンシップは日常茶飯事なのだろうか……。俺は乱れた呼吸を整えるために、翠に気付かれないよう、そっと深呼吸を繰り返したのだった。


◇◆◇◆

 それからも、俺が翠を待って一緒に下校する、という不思議な習慣は続いていた。
 俺は三年だから、もうとっくに部活動を引退している時期だった。
 しかし、俺は未だに週一しかないボランティア部の活動に顔を出している。
 翠を待つ間は、時間がどうしても余る。週に一度しかない活動だとしても、何もしない時間がただあるよりはと、活動を続けていた。
 そんなことはせずとも、本当ならすぐにでも帰ってもいいはずなのに、なぜかそれはできなかった。
 俺が翠を必要としているように、翠も俺を必要としているかもしれない。そう考えると、俺だって翠の傍にいてやりたいと思ってしまうのだ。
 残り物同士仲良くしましょう、という翠の言葉が未だに頭を離れない。きっと、翠だって失恋したばかりだから辛いはずだ。笑顔の奥に隠された悲しみが、俺には見えるような気がする。
 少し前、一緒に駅に向かっているときに翠に質問を投げかけたことがある。それは、俺がずっと心の中に抱いていた疑問だったのだけれど、いくら考えても答えなんて出なくて――ずっと苦しかったのだ。


「ねぇ、翠。もしもだよ、伊織と千颯が付き合う前に、俺たちが二人に告白してれば、もしかしたらうまくいってたのかな?」
 こんなことは所詮「たられば論」であって、いくら考えても真実に辿り着くことなんてない。でも俺はどうしても自分の納得いく答えがほしかったのだ。
 突然そんな問い掛けをされた翠が一瞬目を見開いて、それからいつもみたいに笑った。
「別に今からでも遅くないです。碧音さんが本当に伊織さんのことを好きならば、想いを伝えればいいと思います」
「で、でもそれって横取りじゃ……」
「確かにそうなりますね。でもそれだけ伊織さんのことが好きってことでしょう? 好きって想いに、ブレーキをかけ続けることって本当に苦しいですよね。だって、こんなにも好きなんだもん」
 そう話す翠はなんだか辛そうで、きっと翠も自分と同じことを考えて葛藤していたのだろうと悟る。
 それでも、絶対に俺たちには横取りなんてことを、できるはずがない。そんな勇気があったら、はじめから、もっと早くに想いを伝えることができていたはずだ。
「翠も辛いね」
「ふふっ。碧音さんだって」
 こんな時に顔を見合わせて苦笑いできる相手がいることに、俺は幸せを感じていた。


 雨が降っている日の放課後。朝は雨が降っていなかったから、俺は油断をして傘を持たずに登校してしまった。それでも天気予報が的中してしまい、午後からしとしとと雨が降り出したのだった。
「あぁ、ヤバイ……」
 生憎折り畳みの傘を持ち歩いていない俺は、真っ暗な空を見上げて溜息をつく。もうすぐ、ジメジメとした梅雨の時期がやってくるのかもしれない。梅雨は湿度が高いし、蒸し暑いから大嫌いだ。
 俺は重たい足取りで体育館へと向かう。部活をしている翠を見ればきっと元気が出る。そんなことを考えながら――。


「碧音さん、お待たせしました。帰りましょう」
「うん」
 俺に笑顔で近付いてくる翠。
「お疲れ、翠! また明日」
「おう! お疲れ」
 翠の肩を叩き体育館を後にしていく部員たちに、翠は笑顔で手を振る。
 そんな部員たちに「いつから三年と仲良くなったんだ?」と不思議そうな目で見られても、翠は全然気にする様子はない。
 翠は強い。そして真っ直ぐだ。まるで夏に向かって咲く準備をしている向日葵のように――。俺には翠が眩しくて仕方がなかった。
「まだ雨降ってるんですね」
「うん。翠、今日は駅まで送ってくれなくても大丈夫だよ。俺、傘を持ってないし。駅まで走って帰るから」
「そんなの駄目です! 風邪ひいたらどうするんですか?」
「大丈夫だって!」
「駄目です、俺の傘に入ってください。男二人でも、くっつけば大丈夫だから」
 そう言いながら俺の腕を引き寄せる。開かれた翠の傘の下に俺は引きずり込まれてしまった。
 これは世間一般に言う相合傘では……。俺の頭がパニックを起こす。相合傘って男女でするからいいのではないだろうか? そもそも、今の時代は相合傘なんて言わないのだろうか? そんな疑問がグルグルと頭の中を駆け巡る。


「でも、こんなところを誰かに見られたらどうするの?」
「そんなの気になりません。なにか言いたい奴には言わせておけばいいんですよ。それより、俺は碧音さんが風邪をひくことのほうが嫌ですから」
 俺が傘の下からそっと抜け出そうとすると、再び傘の下へと引きずり込まれてしまう。これは観念するしかない……と俺は覚悟を決めて、翠に体を寄せたのだった。
 駅に向かう途中、雨はどんどん強くなっていく。翠が色々と話をしてくれるんだけど、雨が傘に当たる音で聞き取ることが難しい。それでも翠の話は楽しいから、俺は必死に耳をそばだてた。
 まだ時々、胸が張り裂けそうに痛むことがあるけれど、翠の存在が今の俺を支えてくれている。自分は独りぼっちじゃないんだって思うだけで、俺の心は奮い立つ。今にも折れてしまいそうな心を、なんとか支えながら生きていた。


「はい、駅に到着。碧音さん、濡れてないですか?」
「うん、大丈夫。翠のおかげだよ、ありがとう」
「どういたしまして」
 翠はさしていた傘を畳んでからニッコリと微笑む。それから、少しだけ人気の少ない所へ俺の手を引いていった。
 なんだ?と不思議に思い翠を見上げると、顔を真っ赤にさせた翠と視線が絡み合う。その表情に俺の胸が跳ね上がった。
「やっぱり少し濡れちゃいましたね。寒くないですか?」
「だい、じょうぶ……」
「風邪、ひかないようにしてくださいね」
「うん」
 そう言いながら俺の前髪を優しく搔き上げてくれる。伊織はこんな風に俺に触れてくることなんてなかったから、翠に少し触れられるだけでドキドキしてしまう。


「碧音さん、知ってますか? ここにホクロあるの」
「ホクロ?」
「そう。右のおでこの生え際に、三つ並んだホクロがあるんです。いつもオリオン座みたいだなって見てました。綺麗だなって……」
「綺麗……?」
「はい」
 翠が、少しだけ顔を赤らめながら俺の額を撫でる。もしかしたら、ホクロを撫でてくれているのかもしれない。
 そんなところにホクロがあるなんて知らなかった……。翠の大きな手が、優しく俺の髪を撫でてくれる。それが恥ずかしくて、俺は全身に力を込めた。
「温かくして休んでくださいね」
 翠の低い声が鼓膜に響いて、それだけで失神しそうになってしまう。伊織に失恋してすぐに翠にこんなにときめいてしまうなんて……。もしかしたら、俺は案外尻軽なのか? と不安になってしまった。
「俺、千颯に失恋してから、一人でいることが怖いんです。だから、こうやって碧音さんと一緒にいるとホッとする」
「翠……」
「だから、これからもこうやって一緒にいてください」
「うん。わかった。大丈夫だよ、翠」
 初めて見た翠の弱気な一面に、俺の心が小さく震える。やっぱり翠は強がっているだけで、本当はすごく傷ついているんだね。俺と同じだ……。
「また明日、一緒に帰りましょうね」
「わかった。明日も翠の部活が終わるのを待ってるからね」
「絶対ですよ! 約束ですからね!」
「はいはい。約束だよ」
 俺の制服の裾を掴み、少しだけ拗ねた素振りを見せる翠。つい先程まで、バスケットコートの上で部員を引っ張っていた部長には見えない。そんな翠のギャップに、少しだけときめいてしまった。
 でも、その時俺は気付くことができなかった。翠の傘を持っていた方の手と反対側の肩が、雨で濡れていたことに――。
 俺を大切に想ってくれる翠の優しさを、俺は見逃してしまった。

◇◆◇◆

 それから俺と翠は、お互いの心の隙間を埋めるように時間を共有するようになった。休み時間に送られてくる「授業つまんなーい」という駄々っ子のようなメールも、屋上に続く階段で相変わらず寝ている姿も、俺の心の尖った部分を丸くしてくれるような気がした。
 伊織が抜けた俺の心の隙間を、翠が埋めてくれている。それは傷を舐めあっているだけなのかもしれないけれど、それでもいいって思える自分がいた。
 そんなある日、昇降口で千颯の姿を見つけた。少し髪が伸びた千颯は相変わらず女の子みたいで可愛らしい。雨が降っているせいか、普段フワッとしている癖毛が、今日はクルクルと緩いウェーブを描いている。
「久しぶりだね」なんて声をかける心の余裕がない俺は、遠くから千颯を見つめていた。
 きっと伊織と一緒に帰るために待ち合わせをしているのだろう。少しだけそわそわした様子を見せる千颯を見ると、心の中がモヤモヤとしてくる。幸せそうな千颯は、俺が欲しかったものをあっさりと手に入れてしまった。それがすごく羨ましい。悔しいくらい、羨ましい。
「俺、まだ全然失恋から立ち直れてないんだな」
 それを思い知らされて泣きたくなってしまう。翠と一緒にいると安心するけれど、俺はまだ伊織のことが……。胸が張り裂けそうに痛む。


 俺は千颯に気付かれないように、そっと翠のいる体育館に向かおうとした。そのとき突然千颯が振り返る。それからニコッと微笑みながら俺に向かい頭を下げた。
 本当に礼儀正しくて、いい子だな……と感じる。
「碧音さん、こんにちは。もしかして、これから翠を迎えに行くんですか?」
「あ、うん。そうだよ」
 その可愛らしい千颯の笑顔を直視することができなくて、俺は思わず視線を逸らした。「千颯は、伊織と待ち合わせしてるの?」……そう聞いてみたかったけれど、怖くて言葉にすることができなかった。
「翠、元気にしてますか? 最近ちゃんと話をする時間もないんですけど」
 千颯は心配したような顔をしながら、雨が降り続く空を見上げた。
「ああ見えて翠、風邪をひきやすいんです。特にこういう季節の移り変わりの時期は、いつも風邪をひくんです。だから心配で……。喉を痛がるときには、いつもマスクをあげてたんですけど。翠、大丈夫かなぁ」
「へぇ、そうなんだ。翠はいつも元気だから、そんなこと知らなかったよ」
「ふふっ。そうですよね。翠はいつも元気ですもんね。でも、案外風邪をひいたりお腹を壊したり……本当に子供みたいで、手がかかるんです」
「そっか……」
 千颯の言葉に俺の胸がまた痛む。でも先程までの痛みとは、少しだけ違う気がした。
 千颯は、俺の知らない翠を知っている。そんな現実を突き付けられた気がして、寂しさを感じてしまったのだった。
「碧音さんも風邪をひかないように気を付けてください。朝晩の寒暖差が激しいですし。これよかったら舐めてください。すっごく美味しい飴なんです」
「あ、ありがとう」
「いえいえ。僕と翠も、この飴が大好きなんですよ」
 千颯は優しく微笑みながら、小さなのど飴をくれた。優しい千颯は、俺のことまで気遣ってくれる。本当に優しくて可愛い子だな……って思う。
 それと同時に、そんな千颯を見ていると自分がひどく醜い存在に感じられてしまった。
「じゃあ、千颯、俺行くね」
「はい。お忙しいところ、呼び止めてしまってすみませんでした」
 最後まで優しい千颯から逃げるように、俺は体育館へと向かったのだった。


 体育館につくと、そこには一生懸命部活をしている翠がいる。すっかり部長らしくなって、大所帯のバスケ部をしっかりまとめ上げていた。
 そんな翠を見てホッと胸を撫で下ろす。きっとあのまま千颯を見ていたら、俺は嫉妬の渦に呑み込まれてしまっていたかもしれない。
 考えなくてもいいことを考えて、苦しくなって……。今の俺は翠がいるからこうやって立っていることができるんだ。
「あ、碧音さん。もう少しで終わるから待っててください」
 笑いながら俺に手を振る翠の笑顔に、目頭が熱くなる。少し気を抜くだけで、涙が溢れてきてしまいそうだ。
「早く部活終わらないかな……」
 俺はそう思いながら、翠を遠くから見つめた。

◇◆◇◆

 その日の帰りも、翠は俺を駅まで送ってくれた。今日は朝から雨が降っていたから、俺は傘を持っていた。二人で傘をさすと自然と距離ができてしまい、俺はそれを寂しく感じる。「また傘を忘れちゃったから、翠の傘にいれてくれないかな?」なんていう嘘は、きっと通用しないだろう。
 俺は、人肌が恋しかった。翠に触れたくて、触れてほしくて……これじゃあ、まるで発情期を迎えた猫みたいだと、自分のことが嫌になってしまう。
 でも、翠の話し声も、少しだけ感じることのできる温もりも、今の俺には心地がいい。今の俺は、翠だけが頼れる存在に思えた。
 年下なのに、しっかり者の翠。時々見せる子どものような仕草も可愛らしく思える。


「碧音さん、駅に着いたよ」
「うん」
 これで翠とはお別れだ。今日は金曜日だから、少しの間だけ翠に会うことができなくなってしまう。それが寂しかったし、不安でもあった。
 もっと翠と一緒にいたい。そう感じた俺は、翠の手を無意識に掴んでしまった。「ずっと一緒にいて」と素直になれない俺は、そんなことを言えるはずなんてない。かと言って、子どもみたいな我儘を言って翠を困らせたくなんてなかった。
 でも、俺、翠と離れたくない。
「どうしたの?」
 そんな俺の顔を笑いながら翠が覗き込んでくる。俺は翠の手を掴む指に力を込めた。翠の手は雨のせいか冷たい。自分の手で冷え切った手を温めてやりたかった。


「……なんか、離れがたいですよね?」
「え?」
「俺、碧音さんと離れたくないです。もっと一緒にいたい」
「翠……」
 翠の言葉に俺はハッと顔を上げる。視線の先には優しく微笑む翠がいた。優しくて頼りがいのある翠。きっと翠と別れた瞬間、俺は不安に打ちのめされてしまう。それがすごく怖かった。
「そんな不安そうな顔をする碧音さんを、一人で帰したくない。伊織さんの代わりでもいいから、一緒にいてあげたいです」
「俺も……一人になりたくない……」
 ポツリと呟いてから唇を噛む。いつから俺は、こんなにも臆病者になってしまったのだろうか。
「うん。本当は俺だって一人になるのが怖いです」
「翠も怖いの?」
「すごく怖いです」
 そう笑う翠の笑顔が今にも泣き出しそうに見える。涼しげな瞳にうっすらと涙が滲んでいた。
「馬鹿だね、俺たち。また来週会えるのに」
「本当ですよね」
 まるで、これが今生の別れのように感じてしまった俺たちは、なんだか可笑しくなってしまい顔を見合わせて吹き出してしまう。冷静に考えてみれば、メールだってできるし、電話だってできる。
 いつだって、会うこともできるんだ。でもなんでだろう。今は離れたくない。


「次の駅まで一緒に歩きましょうか?」
「え? でも、そんなことしたら翠の帰りがどんどん遅くなっちゃうよ?」
「別に構わないですよ。もうすぐ試合だから、筋トレのために歩きます」
 そう言いながら歩き出す翠の後を追いかける。なんだかドキドキしてきてしまった。  
「雨が降ってなければ、もっと翠の傍にいけるのに……」
 早く雨が止めばいいな。それか今度からは折り畳み傘を使って、都合が悪いときはリュックサックにしまっておけばいい。そうしたら、いつでも「傘を忘れちゃって」って言い訳ができるから……。
 だって俺は、やっぱり翠から離れたくない。
 これが失恋の寂しさから一人になりたくないだけなのか、純粋に翠と一緒にいたいのか。どちらなのかなんて、今の俺にはわからない。ただ、翠の存在に救われていることは事実だ。


「あと一駅先に行きましょうか?」
「え? もう一駅? 翠、大丈夫?」
「全然大丈夫です!」
 そんなことを言っているうちに、いつの間にか自宅の近くにある公園まで辿り着いてしまったから、「あり得ないでしょ⁉」と二人で腹を抱えて笑ってしまった。
「今度は、俺が翠を送ってこうか?」
「そしたらキリがないでしょ?」
「そうだね、ずっと家に辿り着かない」
 そんな会話で、俺たちはもう一度顔を見合わせて笑う。
 いつの間にか雨は上がって、空にはたくさんの星が瞬いていた。