「ゴールデンウィークに水族館に行かないか?」
「へ?」
突然の伊織からの一言に、俺はつい先程まで頬張っていたクレープを落としそうになってしまう。
伊織が何気なく発したその言葉には、俺の度肝を抜くほどの威力があった。
それはいつもと変わらない放課後。伊織と並んで駅に向かっているときのことだ。普段と違うのは、伊織の部活が早く終わったことくらいで……。そんな俺の平凡な放課後は、伊織の一言で一変してしまう。
「水族館に、行かないか……」
伊織の言葉が理解できなくて、俺は小声でもう一度その言葉を繰り返す。
今まで伊織とは映画に行ったり買い物に行ったり、二人きりで出掛けたことは何度もあった。でも、今回の誘いは今までとは違う気がする。
伊織の頬はうっすら赤く染まっているし、照れくさいのだろうか。視線を泳がせている。
――なんなんだ。伊織、いつもと様子が違うぞ……。
伊織につられて、俺の頬まで徐々に熱を帯びていく。心臓の鼓動まで速くなっていき、肺が酸素をうまく取り込んでくれない。
なんだ、この変な雰囲気。どうしよう、どうしたらいいんだろう……。
俺は制服の胸のあたりをギュッと掴んで、立ちすくんでしまった。
「二人きりじゃなくて、翠と千颯も一緒に行こうって言ってるんだ。なぁ、碧音も来ないか?」
「え、えっと……」
なんだ。二人きりじゃないんだ。
伊織の言葉に俺は肩を落とす。てっきり二人きりで出掛けるものとばかり思っていたから。翠と千颯が一緒だなんて、想像もしていなかっただけに俺は内心すごくガッカリしてしまった。
「なぁ、碧音……」
不安そうな顔で俺のことを覗き込んでくる伊織。こんな顔をされたら断れるはずなんてない。俺は、こんな風に甘えてくる伊織に弱い。だって、普段しっかり者の伊織が見せるこんな表情は、きっと俺しか知らないはずだ。
俺は、そんな伊織の子供っぽさも好きだった。
「いいよ、行く」
「本当?」
「うん。水族館、一緒に行くよ」
「ありがとう、碧音」
嬉しそうに笑う伊織を見ると、俺まで嬉しくなってしまう。翠と千颯が一緒にいくことは予想外だったけれど、こんな嬉しそうな伊織の顔を見られた俺は、多幸感に包まれた。
「じゃあ、翠に連絡いれとくね」
「うん。わかった」
二人してホームに向かう下りのエスカレーターに乗る。帰宅時間の今は家路に向かう人たちで、駅の構内はごった返していた。
ムワッと漂う蒸し暑さと、地下鉄の独特の香りが鼻をつく。エスカレーターに揺られているうちに、俺はある考えに辿り着いてしまった。
それに気が付いた瞬間、顔から火が出そうになったから、俺は慌てて頬を両手で包み込む。
落ち着け、落ち着け、俺……。
何度も何度もそう自分に言い聞かすけれど、嬉し過ぎて叫び出したい衝動が込み上げてきてしまう。どんなに深呼吸を繰り返したって、この喜びは掻き消すことなんてできそうにない。
「これじゃあダブルデートじゃん」
伊織に問いかけてみたかったけれど、「はぁ? 何言ってんだよ」と笑われてしまうかもしれないと考えると怖くなってきてしまい、俺はその言葉を慌てて呑み込んだ。
ねぇ、伊織。これってダブルデートなの?
それでもやっぱり気になって、エスカレーターの一つ下の段にいる伊織の背中を見つめた。
俺が一緒に水族館に行くと言ったことが余程嬉しいようで、珍しく鼻歌なんて口ずさんでいる。伊織が幸せそうにしているのを見ることは、俺だってすごく嬉しい。でもなんだろう、心がザワザワする。
その原因を一生懸命考えてみたけれど、結局理由なんてわからなかった。
◇◆◇◆
水族館に行くことを約束した翌日。俺は四時間目の授業が終わると同時に教室を飛び出した。
今は購買に焼きそばパンを買いに行かなくちゃとか、お弁当を食べなくちゃという考えは、頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっている。
俺が全速力で向かったのは、屋上へと続く階段だった。
きっと、あそこへ行けば翠がいる――俺は逸る気持ちを抑えて走る。どうしても、翠に聞きたいことがあったから。
「はぁはぁ……」
体育以外で運動なんてしない文化部の俺は、少し走っただけで息があがってしまう。廊下の突き当りを曲がると、そこには屋上へと続く階段がある。
頼む翠、今日も授業をさぼっていてくれ! 俺は心の中で祈りながら階段の一番上に視線を移すと、そこには前と同じように翠が眠っていた。
やっぱり今日も授業をサボっているのか……なんて一瞬呆れてしまったけれど、今はそれどころではない。俺は階段を駆け上がると、無遠慮に翠の体を両手で揺すった。
「ねぇ、翠! 翠、起きてよ! 聞きたいことがあるんだ!」
「わ! な、なんだ碧音さんか……超びっくりした」
目を見開きながら飛び起きた翠。そんな翠の体を更に揺らしながら、俺はまくし立てた。
「ねぇ、俺と伊織と、翠と千颯の四人で水族館に行こうって伊織に誘われたんだ! なんで? なんで突然? しかもこんなん、まるでダ、ダブル……」
「ダブル?」
「ダ、ダブルデェ……ト……みたいじゃん……」
物凄い勢いで翠の元までやって来たくせに、肝心なところで恥ずかしくなってしまい、最後のほうは蚊の鳴くような声になってしまう。
よく考えてみたら、これじゃあまるで「俺は伊織が好きです」と翠に告白しているようなものだ。今更それに気が付いた俺は、顔を真っ赤にしながら俯く。
きっと、翠に俺の気持ちを気付かれた。恥ずかしさのあまり、鼻の奥がツンとなる。穴があったら入りたい……俺は頭を掻き毟った。
「本当に、ダブルデートみたいですよね?」
「え?」
「俺も、伊織さんから四人で水族館に行こうって提案されたとき、ぶっちゃけそう思いました」
翠が照れくさそうにはにかむ。その顔がキラキラしていて、俺の鼓動が速くなる。
「やっぱり碧音さん、伊織さんのことが好きだったんですね?」
「べ、別に、俺は伊織のことなんか……」
「ふふっ。隠さなくてもいいですって。伊織さんと一緒にいるときの碧音さんを見てれば、バレバレですから」
「え? 本当に?」
「多分、みんなにはバレてないと思うけど、俺は見ててわかりました。碧音さんは、伊織さんのことが好きなんだって」
からかうわけでも、馬鹿にするでもなく目の前の翠が優しく微笑む。そんな翠の表情に全身から力が抜けていった。
「でも、翠だって千颯のことが好きなんだろう?」
「はい?」
今度は翠が狼狽える番だった。顔を真っ赤にさせながら、目を見開いている。翠こそ、自分が千颯のことを好きだって俺に気付かれていないと思っていたのだろうか。
そう思うと、可笑しくなってくる。
「あー、俺もバレてたのかぁ。めっちゃ恥ずかしい」
「そんなことないよ。俺だって伊織のことが好きだもん」
「碧音さん」
「絶対に秘密だからな。俺、こんなこと翠にしか話したことないんだから」
「わかりました」
俺は、今まで誰にも伊織が好きだと話したことなんてなかった。ずっと心の中に秘めてきた想いを誰かに打ち明けることができて、ホッとした自分もいる。
「これがダブルデートだとしたら、このデートをきっかけに、碧音さんと伊織さんがうまくいくといいですね」
「そ、そんなことあるわけないじゃん……」
「勿論俺も、千颯とうまくいくといいなって思ってます」
「なぁ、もしかして……」
「はい。水族館デートで千颯に告白しようって決めてるんです」
「告、白……」
告白という二文字に、俺の心が跳ね上がる。
「翠、すごいね」
それと同時に翠に感心してしまった。俺はずっと伊織のことが好きで、もう何度も告白をしようと決心したのに……結局は怖くなってしまい、「好きだ」と想いを伝えることができないでいた。
だから、翠がとても眩しく見える。
「このダブルデートで、俺たちの関係に進展があるといいですね! そう思うと今からドキドキする!」
「そうだね、うまくいくといいね」
頬を赤らめながら笑う翠につられて、俺まで嬉しくなってきてしまう。
二人で顔を見合わせて笑った。
「あの、翠。お弁当一緒に食べよう」
声のする方を見ると、お弁当箱を二つ抱えた千颯が階段の下に立っている。茶色の髪がフワフワと風に揺れ、幼い面立ちがとても可愛らしい。
俺と翠が大騒ぎしていたのを、不思議そうな顔をしながら見つめていた。
「あ、千颯。今行く! じゃあまたね、碧音さん」
「うん。またね」
翠は俺に手を振りながら、千颯の元へ駆け寄っていく。その嬉しそうな姿は、まるで飼い主を見つけた大型犬のようだ。
「あ、あの、碧音さん。これ、伊織先輩に渡してもらえませんか?」
「え? これを伊織に?」
突然千颯に声をかけられた俺は、思わず目を見開く。大人しい千颯から話しかけられることなんて、今までなかったから。
「この前体調不良で学校を休んだとき、心配して電話をもらったんです。そのお礼を準備したんですけど、渡す勇気がなくてこうやってずっと持ち歩いているんです」
「へぇ、伊織が千颯に電話したんだ……」
「はい。申し訳ないんですが碧音先輩から伊織先輩に渡しておいてもらえませんか? 僕、どうしても恥ずかしくて……」
耳まで真っ赤にさせながら必死に言葉を紡ぐ千颯は、やっぱり可愛らしい。そんな千颯を、見ていると危機感を覚えてしまう。
でも千颯の思いを無碍にすることもできなくて、俺は気乗りしないまま小さな紙袋を千颯から受け取った。
「わかった。伊織に渡しておくね」
「はい。ありがとうございます」
千颯は俺に向って礼儀正しく頭を下げてから、翠と一緒に教室へと向かって行く。そんな光景はとても微笑ましかった。
「翠、うまくいくといいね」
そんな二人に向かい、そっと俺は呟いた。
◇◆◇◆
水族館デートの当日、俺の心臓はうるさいほどドキドキしていた。まるで遠足の前日のように興奮してしまい、夜だって眠ることができなかった。
数日前に母親に買ってもらった洋服を見ると、この洋服ダサくないかな……と段々不安になってきてしまう。一応ファッション雑誌に目を通して、流行はチェックしたつもりだ。
「あー! 緊張するー!」
俺は頭を抱えてベッドに倒れ込む。伊織とは何回も二人きりで出掛けたことはあるけれど、今回はいつもの外出とは違う気がする。デートという言葉を意識せずにはいられないのだ。
「駄目だ……死んじゃいそう……」
俺は陸に打ち上げられた魚のように、浅い呼吸を繰り返す。少し気を抜くと意識を失ってしまいそうになった。そんなことをしているうちに、集合時間はすぐそこまで迫ってきている。
「あ、ヤバイ⁉ 遅刻する!」
俺は慌ててリュックサックを担いで、部屋を飛び出した。
「碧音さん。こっちです!」
「あ、翠……。遅くなってごめんね」
「大丈夫です。俺たちが早く来ちゃっただけですから」
俺が集合場所に着いたときには他の三人はもう集まっていて、翠が笑顔で手招きをしてくれる。俺は息を切らしながら皆に合流した。
「じゃあ、電車に乗ろうか」
「はい」
伊織の言葉に翠が嬉しそうに返事をした。
翠から今日を楽しみにしていたということが伝わってくる。そんな翠を見ていると、徐々に肩の力が抜けていった。
普段、制服やジャージ姿しか見たことのなかった翠と千颯の私服姿はとても新鮮だった。
翠は、俺が参考にしたファッション誌のモデルが着ていたような服装をしていて、思わず視線を奪われてしまう。白い長袖シャツに、細見えするジーパンを履いているだけなのに、スタイルのいい翠は、どんな洋服でも着こなしてしまいそうだ。かっこよくて、思わず惚れ惚れしてしまった。
逆に千颯は、ベージュのダボっとしたシャツにスキニーパンツ。全体的にゆるっとした印象を与えて、とても可愛らしい。
でも……俺は伊織をチラッと盗み見る。やっぱり伊織が一番かっこいい。シンプルな洋服をさらりと着こなし、制服の時よりも大人びて見えた。
伊織はいつも全身真っ黒な洋服を着ていることが多い。黒で流行りのセットアップを着こなしている。でも顔が華やかなせいか、全然暗い印象なんて与えない。
伊織を見ているだけで、俺の心臓がやかましい程に高鳴った。
「ヤバイ、また緊張してきた」
俺は火照る頬を抑えながら、改札口へと向かったのだった。
水族館に到着する頃には、俺は疲れ切ってしまっていた。加えて昨夜あまり眠れなかったせいか、頭がボーッとしている。
「碧音、大丈夫か?」
伊織が心配そうな顔で覗き込んでくる。その心遣いが嬉しくて、心が温かくなった。
もしこのデートがうまくいったら、俺は伊織に告白するんだ。そう心に決めている。今一緒にいる翠だって、千颯に告白するって言っていた。俺だって、いつまでも怖気づいてはいられない。
水族館の最寄り駅は、早くも家族連れやカップルでごった返している。みんなとても嬉しそうで、そんな人たちを見ているだけで不思議と幸せな気持ちになってきた。
水族館に近付くにつれて、少しずつ感じる海の香り。水族館はもうすぐそこだ。
「よし!」
俺は大きく息を吸い込んでから、心の中で気合いを入れた。
◇◆◇◆
「これからどうする?」
伊織が皆を見渡して意見を求める。その言葉に「待ってました」と言わんばかりに、翠が瞳を輝かせた。
「俺、イルカショーが見たいです。千颯は?」
「あ、僕もイルカを見てみたい」
嬉しそうな翠の言葉に、千颯が賛同する。二人で顔を見合わせて笑う光景はとても微笑ましい。
「いいね、イルカショー。碧音もイルカショーでいい?」
「うん。でもペンギンショーやアシカショーもあるんだね」
「本当だ。どうせなら全部見ようか?」
「うん」
お客さんで溢れる水族館の中、チケットを購入することができた俺たちは、ようやく広場へと辿り着くことができたのだった。
「わぁ、海だぁ」
広場に着いた瞬間、俺たちの目の前に海が広がる。その海は遊泳禁止になっている場所で、波もかなり高い。写真で見るような透き通った海ではないけれど、普段海を見ることなんてない俺たちはとても感動してしまった。
「海って大きいな……」
俺が口を開けたまま海に見惚れていると、そんな俺を見た伊織がクスクスと笑っている。
「碧音、そんなに大きな口を開けてたら虫が飛び込んでくるよ?」
「え、あ、うわっ、恥ずっ!」
俺は慌てて口を両手で塞ぐ。そんなやり取りも楽しくて俺は嬉しくなってしまった。すごく、デートっぽい。
ゴールデンウィーク中の水族館は想像以上に混雑していたけれど、「碧音ついてきてる?」と俺を気遣うように時々後ろを振り向いてくれる伊織の優しさがくすぐったくて。混雑もいいもんだな、なんて思ってしまった。
「千颯は暑くない? 体調が悪くなったら遠慮なく言ってね」
「い、伊織先輩、ありがとうございます」
「ほら、こっちのほうが日陰だからこっちにおいで」
「で、でも……」
「いいからおいで。熱中症になっちゃうよ」
「はい。ありがとうございます」
今度は千颯の元に駆け寄り、千颯の手を引き日陰へと誘導する伊織。
「何か飲む? あっちに自動販売機もあるよ」
「あ、あの自動販売機に売ってるペットボトル、イルカのイラストが描いてあります。可愛いですね」
「本当だ。可愛い。水族館限定みたいだね」
伊織と千颯は顔を見合わせて微笑み合っている。伊織は優しいけれど、その優しさが自分以外に向けられることが面白くない。
それに、わざわざ手を引くことなんてないだろうに……。俺は唇を尖らせながら、そんな二人のやり取りを見つめていた。
水族館内は薄暗くて、静かな音楽が流れている。外は日差しが強くて汗が滲むほど暑かったから、涼しい館内に入った瞬間、思わずホッと息をついた。
混雑しているからゆっくり一つ一つの水槽を眺めながら……なんてことは無理だけれど、可愛らしい魚が水槽の中を泳ぐ姿に癒される。
ペンギンの水槽の前に行っても人がたくさんいるから、遠くからペンギンを眺めることしかできない。それでも「ペンギン可愛いなぁ」と呟けば、伊織が「本当だね」って笑ってくれた。
その笑顔に俺の心臓は止まりそうになってしまう。これじゃあ、まるで本物のデートみたいだ……。顔がどんどん熱くなっていく。水族館が薄暗くて良かった。こんな顔を伊織に見られたくなかった俺は、慌てて視線を逸らす。
「千颯、こっちに赤ちゃんのペンギンがいる!」
「あ、本当だ。可愛いね」
すぐ傍では翠と千颯の楽しそうな声が聞こえてくる。そんな二人を見ていると、羨ましくなってきてしまった。だって、今の俺にはこの状況を楽しむ余裕さえないんだから。
「こんな調子で、告白なんてできるかなぁ」
俺はそっと溜息を吐く。その時だった。
「千颯は可愛いなぁ」
「え?」
「な、なんでもない」
俺が聞き返すと、伊織は慌てて口を閉ざした。いつもと違う伊織の様子に、俺は眉を顰めた。
「あ、碧音。イルカショーの時間になっちゃう!」
「え? 本当?」
「うん。翠と千颯にも声をかけてドルフィン水槽に行こう。早めに行かないと席が埋まっちゃいそうだもんね」
「わかった。イルカショー、超楽しみ」
でもやっぱり楽しくて、俺は伊織に向って微笑んだのだった。
「あぁ、無理だ……」
俺はベンチに座って大きく溜息をつく。
午前中に行われたイルカショーを見たところで、俺はショーに集中することなんてできなかった。隣に座っている伊織のことが気になって、時々その様子を盗み見ていたのだ。
伊織は、高くジャンプをしてヒレでボールをキックしたり、水槽の中を楽しそうに泳いだりするイルカを見て楽しそうに笑っていた。けれど、俺はイルカより伊織のことばかり見ていた気がする。
伊織、やっぱりかっこいい……。
そんなことを思いながら伊織を眺めているうちに、イルカショーは終わってしまう。イルカが上げる水しぶきより、伊織のほうがキラキラと輝いて見えた。
それに先程みんなで食べたハンバーガーだって、味なんかしなかった。きっととても美味しいんだろうけど、緊張のあまりハンバーガーを味わっている余裕などないのだ。
だってこの四人での外出は、俺の想像以上にダブルデート感満載だったのだから。
「あぁ、疲れた……」
午後の三時を過ぎた頃にはグッタリしてしまい、倒れそうになってしまう。
「碧音、大丈夫? 暑気あたりした?」
「ううん、大丈夫。ごめんね、心配かけて」
「ほら、これ飲んで」
「あ、ありがとう」
伊織が買ってきてくれたスポーツドリンクは冷たくて、一口飲むだけで火照った体にスッと浸透していくようだ。
昼食を食べた後に見た、ペンギンやアシカのショーだって楽しかったし、すごいなって感心してしまった。でも、ただそれだけなのだ。
今の俺はどんなものを見ても、きっと心に入ってこないだろう。だって俺は、伊織のことしか見えていないんだから。
そんな俺を見て、伊織が静かに微笑む。その柔らかな表情に、今度こそ俺の心臓が止まりそうになってしまった。
あぁ。俺は、伊織が好きだ……。
確認するかのように心の中で呟く。「俺は伊織がずっと好きだった」と、今なら自分の想いを伝えられるような気がする。
ふと翠と千颯に視線を移すと、少し離れた場所にある亀の水槽を二人で楽しそうに眺めていた。
今なら、告白できるかも……。
少しずつ心が固まっていく。この水族館の楽しい雰囲気に便乗して、冗談のように想いを伝えてみよう。今、俺と伊織はとてもいい雰囲気だから、もしかしたら「俺も碧音が好き」って言ってもらえるかもしれない。
告白、しようかな……。
「ねぇ、伊織……」
俺が口を開きかけた瞬間、伊織から言われた言葉に、俺は思わず自分の耳を疑ってしまった。
「あのさ、碧音。俺、千颯と二人きりになりたいんだ。少しだけ別行動してもらえるかな?」
晴天の霹靂、藪から棒とは、まさにこういうことを言うのだろう。
五月を迎えたばかりの日差しは強くて、額から汗が流れ落ちた。
「え?」
「ごめんな、碧音。こんなこと頼れるの、お前しかいなくて。俺、ずっと千颯のことが気になってたんだ」
目の前にいる俺の想い人は、頬を赤く染めながら照れくさそうに笑っている。
咄嗟に言われたことが上手く咀嚼できなくて、俺の周りから一瞬で音が消えた。自分の視界の隅で、あんなに楽しそうに笑っている家族連れの声が聞こえないなんて――そんなことが本当に起こるんだ、って冷静に考えてしまう自分もいる。
「なぁ、お願いできないかな?」
その言葉が最後の一押しだった。俺の胸は張り裂けそうなほど痛いくせに、笑わなければならないんだって咄嗟に思う。伊織の前から逃げ出したい衝動をぐっと堪えた。
そして俺は、全てを察したのだ。
あぁ、これはダブルデートなんかじゃなかったんだ。
突然クラクラと眩暈に襲われて、目の前が真っ暗になる。倒れてしまいそうになるのを、目を瞑って必死に耐えた。
こんなのないよ……。
このダブルデートの真実を、俺は知ってしまった。
予想外だったのは、俺がずっと想いを寄せていた伊織は、俺じゃなくて千颯のことが好きだったということ。もしかしたら自分に気があるかも、なんて勘違いしていたことが恥ずかしくなった。
俺にできることはたったひとつ。「わかった。じゃあ二人で楽しんでね」と笑いながらこの場を立ち去ること。「あ、そうだ。俺、明日用事があるから先に帰ってるね」なんて言葉を付け加えることができたら百点満点だ。
そのとき俺は、今日自分に与えられた役割を知る。
そうか。俺は伊織と千颯が自然と二人きりになるための口実だったんだ――。こんなこと、もっと早く気が付けばよかった。
「わかった」とその場を去ることも、「そんなの嫌だ」と拒否することもできない俺は、ただ茫然とその場に立ち尽くす。
『これから本日最後のイルカショーが始まります。是非会場にお集まりください!』
そのとき、館内放送がイルカショーの開催を告げる。そのアナウンスさえも遥か遠くに聞こえて、意識が少しずつ遠退いていった。
つい数時間前にイルカショーを見た時はあんなに楽しかったのに。自分が惨めで情けなくて、鼻の奥がツンとなった。
「ねぇ、碧音さん。俺ともう一度イルカショー見に行かない?」
「……翠……?」
突然腕を掴まれる感覚に、一瞬で現実に引き戻された。ぼんやりした頭で顔を上げると、そこには翠が立っていた。
俺はその存在に救われた気がする。
「ごめん、伊織先輩に千颯。俺、少しだけ碧音さんと二人きりで遊んでみたいんだ。これから別行動してもいいかな?」
「あ、うん。別に俺は構わないよ」
翠の言葉を聞いた瞬間、伊織の表情がぱぁっと明るくなった。
そんなに千颯と二人きりになれることが嬉しいんだ……。嬉しそうな伊織を見た俺の心は、再びズキンズキンと痛みだした。
「行こう、碧音さん」
「でも……」
「いいから行こう」
「……う、うん……」
俺の腕を掴んだまま歩き出す翠の手を振り払おうとしたけれど、あまりの力強さにそれは叶わなかった。
しかも俺は気付いてしまった。
伊織の前では屈託のない笑顔を浮かべていた翠の目元が、うっすらと赤く染まっていることに。
「あの、翠!」
「ごめんな、千颯。俺、碧音さんと遊んでくるから、伊織さんを頼む」
歩き出した俺と翠を引き留めるかのように声をかけてきた千颯を振り返ることもなく、翠は言葉を紡ぐ。でも、その声だって小さく震えていた。
「行きましょう、碧音さん」
「うん」
俺は翠に連れられて歩き出す。
予想もしていなかった事態に、目頭が熱くなって目の前が涙で滲んだ。
心が粉々に砕け散ってしまいそうなほど痛んで、足もふらふらして力が入らない。もしここに翠がいなかったらと思うだけで、血の気が引く思いがした。
気が付けば、水族館の出口が見えてくる。「ねぇ、翠。どこに向かってるの? イルカショーはこっちじゃないよ」……そう問いかけようとしたけれど、あまりに早足で翠が歩くものだから、ついて行くのに必死になった。
黙って歩く翠の背中を無我夢中で追いかける。身長差があるのだから、歩幅とか考えてほしい――そう文句の一つも言ってやりたくなってきた頃。
「わ!」
突然翠が立ち止まったから、俺は止まることもできずに翠の背中に衝突してしまう。今度は急に止まるのかよ? その行動が理解できずに、俺は打ちつけた鼻を擦りながら翠の様子を窺った。
「碧音さん。俺たち残り物同士じゃないですか?」
「え? 残り、物……」
「そう。残り物。碧音さん、さっき伊織さんに何か言われたんじゃないですか? すごく真っ青な顔をしてましたよ」
「み、見てたの?」
「はい」
翠のその言葉に恥ずかしくなってしまう。そんなところ、誰にも見られたくなかったから。でも、そんな翠だってつい先程と様子が違って見えたから、俺は恐る恐る声をかけた。
「もしかして、翠も千颯に何か言われたの?」
「まぁ、そんなとこです。きっと、碧音さんと同じようなことを言われたんじゃないでしょうか」
「同じようなことって?」
「千颯に、伊織先輩が好きだから協力してほしいって頼まれました」
「そんな……」
翠の言葉が刃のように鼓膜に突き刺さる。でも、それは事実で、俺はたった今失恋したのだ。それにきっと翠も……。「突然のことで、びっくりしました」なんて笑う翠の姿が、痛々しく見えた。
「なんか……涙出ちゃいますね」
翠が目にたくさんの涙を浮かべながら、それでも笑顔を作る。あぁ、翠もこの状況に傷ついているんだ……。そう感じた俺は、更に心がズキンズキンと痛みだした。
俺たちは、この後どうしたらいいんだろう……。
不安が津波のように押し寄せてくる。残り物の俺たちは、一体どうしたらいいんだろう。
「碧音さん、こっちに来て」
「え、でも……翠、どこに行くの?」
「いいから黙ってついてきて」
翠のこんな声色を聞いたのは初めてだったから、俺はそれ以上何も言い返せなくなってしまった。今の翠は、なんだか怖い。
ただ翠に腕を引かれ、黙って後をついて行くことしかできなかった。
翠に腕を引かれた俺の目からは、熱い涙が溢れ出す。もう、我慢なんてできなかった。
「うぅ……」
「泣くな、碧音さん」
「でも、でも……こんなのってないよ……」
「だから、泣くなって」
堪えきれず、俺の目からはボロボロと涙が流れ落ちる。いくら涙を拭っても、止まってはくれなかった。
「碧音さん、泣くな」
「うぅッ、すぃ……ふぇ……」
子供のように泣く俺の涙を、シャツの裾で拭ってくれた。伊織はこんな風に、シャツで涙を拭うことなんてしないだろう。きっと、綺麗に畳まれたハンカチで拭ってくれるはずだ。
そう思うと、体が勝手に拒絶反応を起こして「いやいや」をするように首を横に振った。そんな俺を宥めるように、背中をそっと擦ってくれる。これでは、どちらが年上だかわからない。俺は恥ずかしくなって、勢いよく鼻をすすった。
「ねぇ、碧音さん。俺行きたい場所があるんです。ちょっと付き合ってくれませんか?」
「行きたい、場所?」
「はい。この水族館のちょっとした人気スポットなんですけど」
優しく声をかけてくれる翠の顔を見上げると、また涙がボロボロと溢れ出した。
「行こう、碧音さん」
「うん、行く……」
俺が鼻をすすると「子どもみたいっすね」ともう一度、シャツの裾で涙を拭いてくれた。気にせず鼻水まで拭いてくれたものだから、申し訳なくなってしまう。
「歩けますか?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ頑張ってくださいね。少し遠くまで歩きますから」
「うん」
翠が俺の手を取り歩き出す。こんなたくさん人のいる所で男が子どもみたいに泣いたり、男同士で手を繋いで歩いたり……恥ずかしいことばかりの連続だ。
でも俺は翠の手を振り解くことなんてできない。だって今この手を離したら、俺は本当に独りぼっちになってしまうから。
「ふぇ……うぅ……すぃ……」
「泣かないで、碧音さん」
「もう俺……心が壊れちゃいそうだよ……」
そう思うと急に恐怖が襲ってきて、俺は翠の手を自分から強く握り締める。泣き続ける俺の手を引いて、翠はどんどん歩いていくのだった。
◇◆◇◆
翠に連れて来られた場所は、小高い丘の上に建つ展望台だった。
目の前には遥か彼方まで海が広がり、止まることのない波が海岸に押し寄せ続けては引いていく。潮風が俺と翠の髪を優しく撫でてくれた。
それでもここからでは海の深さを測り知ることができず、少しだけ恐怖心も感じてしまう。見つめていると、まるで、この大きな海に吸い込まれてしまいそうだった。
「わぁ、すごい景色だ」
「ですね」
もうすぐ夕方を迎えるこの時間帯は、辺りが夕日に包まれ赤く染まり始めている。水平線に消えていく太陽を見送ることに、少しだけ寂しさを感じた。
泣き過ぎて目元がヒリヒリと痛い。でもこの夕焼けで、この泣き腫らした目を隠すことができるだろうか。
「碧音さん、一番上まで行ってみよう」
「うん」
「はい、手、貸して」
翠が優しく微笑んだ後、俺に手を差し出してくれる。その手をそっと掴んだ後、俺は少しだけ不安になった。
翠は、俺のことを千颯と思っているのではないか? という考えが頭を過る。もしそうでないとしたら、翠は俺の想像していた以上に優しくて気の利く男なのかもしれない。
こんなに優しい翠と付き合わないなんて、もったいないなって思ってしまう。だって、今目の前にいる翠は年下とは思えないくらい頼りがいがある。この優しさに縋りつきたい衝動に駆られた。
「夕日、綺麗だったぁ。ねぇ、また一緒に来ようね?」
「あぁ。また一緒に来よう。今度は、お前の誕生日にでもさ」
「マジで? 超嬉しい!」
展望台の頂上に登れば、数組のカップルが寄り添っていたけれど、すぐに下へと降りていってしまう。そんな仲睦まじい光景を、俺はぼんやりと眺める。気付けば翠と二人きりになっていた。
今日一日、肌がヒリヒリと痛んだ。日差しが強かったから、もしかしたら日に焼けたのかもしれない。夕方になり風が少しだけ冷たく感じられる。そんな潮風が火照った体を冷やしてくれるようだ。
でも今は、心がズキズキと張り裂けそうなほど痛い。痛くて、苦しくて、俺は未だに今自分に起こっている現実を受け止めきれずにいる。
そんな俺に、翠が穏やかな声で囁いた。
「ここはね、願いが叶うって言われている灯台なんです」
「願いが叶う?」
「はい。別名『永遠の灯台』。ここで永遠の愛を誓ってキスをすると、そのカップルはずっと幸せでいられるっていうジンクスがあるんです。だから、ついさっきまでカップルがたくさんいたでしょう?」
「そうか、だからなんだね……」
翠の言葉に思わず納得してしまう。
「永遠の灯台かぁ」
俺は今自分たちがいる灯台の名を呟く。この灯台は水族館から大分離れた場所に建っている。それでも永遠の愛を求めて恋人たちが訪れるのだろう。
でもそんな灯台に、なんで俺と……?
俺が翠を見上げると、翠は声も出さずに泣いていたから、俺は息を呑む。あの翠が涙を流すなんて……。あの元気な翠が泣いている光景を見ることになるなんて、まったく想像していなかった。
でも翠も、俺と同じ思いをしているんだ。
綺麗な涙が涼しげな目元から溢れて、頬を静かに伝っていく。その光景がとても綺麗で、俺は言葉を失ってしまった。
「俺、今日ここで千颯に告白しようと思ってました」
「翠……」
「でも、千颯は伊織さんのことが好きだった。俺、千颯はずっと俺のことが好きなんだろうって、自惚れてました。超恥ずかしい」
そう言いながら鼻をすする翠を見ていると、俺は再び涙を溢れさせていた。
「翠が、翠が可哀そうだ……」
「あお、とさん……」
「翠はこんなにいい奴なのに、千颯の馬鹿野郎……くぅ、うぅッ……ふぇ……馬鹿野郎……」
「碧音さん。俺は大丈夫だから」
「翠が大丈夫でも俺は大丈夫じゃない! 伊織も千颯も酷すぎるよ。俺たちを利用するなんて。許せない、許せない……!」
「許せないですよね。わかります。でもきっとあの二人に悪気なんてないんですよ」
「悪気がない?」
「はい。だって、俺たちが自分たちのことを好きだなんて全く知らないんですから。だから、利用しようなんて思っていないはずです」
子供のようにすすり泣く俺の頭を優しく撫でてくれる。
俺は今日まで知らなかった。失恋がこんなにも辛く、苦しいものだなんて。今まで、失恋なんてしたことがなかったから。俺は、ずっと伊織だけが好きだったから。
こんなにも心が張り裂けそうなほど痛い。この灯台から身を投げることができたら、どんなに楽だろうかと考えてしまう程に……。
「泣かないで、碧音さん」
「……え……」
気が付いたときには俺は翠の腕の中にいた。今までこんな風に誰かに抱き締められたことがなかった俺の心臓が、一瞬止まった気がした。
薄いシャツ越しから伝わってくる翠の体温と鼓動。翠の心臓も俺の心臓と同じくらいドキドキしていた。
翠の意外と逞しい腕に、厚い胸板。顔に翠の髪がかかってくすぐったい。突然抱きしめられたという現実が受け止めきれずに、俺は身動きをとることさえできなかった。
「泣かないで、碧音さん」
「だって、翠も泣いてる」
「ううん、泣いてないです」
「嘘つき。泣いてるじゃん」
俺のシャツに温かな翠の涙が吸い込まれていく。俺が遠慮がちに翠の腰に腕を回すと、ギュッと抱き締め返してくれた。その力強さに体の力が抜けていき、俺はそっと翠の胸に体を預ける。
波の音と、翠の心音が混ざり合って心地いい。あんなに苦しかった胸の痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
「よかった、翠がいてくれて……」
「え?」
思わず本音が口から零れ落ちた。
もし今日自分一人だけだったら、今頃どうしていただろうか。想像しただけでぞっとするようだ。
「ありがとう、翠。俺と一緒にいてくれて」
「碧音さん……」
「ありがとう」
思わず翠の胸に頬ずりをする。俺を抱き締める腕が伊織だったらよかったのに……と、そんなことが頭をかすめるけれど。そんなことを言ったら、きっとそれは翠も同じだろう。
今翠が抱きしめていたい相手は、俺ではなくて千颯なのだ……。これは、残り物同士が体を寄せ合い、傷を舐めあっているだけなのだから。
でも、翠の腕の中はひどく居心地がいい。
「碧音さん」
「ん?」
ふと名前を呼ばれた俺は顔を上げる。その瞬間、俺の額に柔らかいものが押し当てられた。涼しい潮風が俺たちの髪を静かに揺らしていく。打ち寄せる波音と、高鳴る鼓動が混ざり合って鼓膜に響いた。
「あ……」
それが翠の唇だと気づいた俺は、思わず体に力を込める。ギュッと瞳を閉じて翠のシャツを握り締めた。
翠の唇は一度離れて、今度は頬にチュッとキスを落とす。翠の唇が触れた場所がジンワリ熱を帯びていった。
俺は言葉を発することもできずに呆然と翠を見つめる。そんな俺に翠が照れくさそうに笑った。
「ごめんね、碧音さん。今のは忘れてください」
波の音と翠の心音が鼓膜に響く。それ以上に、自分の破裂しそうな程の心臓の音が、体中に響き渡った。
「忘れてください」
「う、うん。わかった……」
俺は強い戸惑いを感じながらもそっと頷く。
これが、俺と翠の悲しい始まりだった。



