俺は最上碧音、高校三年生。
趣味はゲーム、特技は特になし。ボランティア部の副部長で、生徒会では書記を務めている。それに次男だ。
何をとっても俺という人間は、実に「微妙」なのである。
部長にはなれなかったし、生徒会長という華々しい役職を務めているわけでもない。次男という生まれから考えても、何から何まであと一歩――という立場に置かれていることがとにかく多い。二番手、三番手を続けている。いつも、何かが足りない。
クラスの中で目立つわけでもないし、とりわけ成績がいいわけでもない。それが俺だった。
そんな俺の自慢が、幼馴染の望月伊織だ。成績はトップクラスを維持。ついでにバスケ部の部長。決して派手なわけではないが、容姿端麗で文武両道を地でいく伊織はとても目立つ存在だ。
濡れ羽色の髪は光にあたると黒々と輝き、スッと切れ長な瞳は彼の端正な顔立ちをより引き立たせて見せる。背が高くてまるでモデルのようにスタイルの良い伊織は、女子生徒の憧れの的だ。
伊織の姿を一目見ようと、バスケ部が活動しているときは体育館に女子生徒が大勢訪れ、伊織がシュートを決めた瞬間、体育館中が黄色い声援に包まれる。
それに伊織は面倒見も良くて、ポヤーッとしている俺の世話を幼い頃から焼いてくれた。そんな頼りになる存在でもある。
そんな幼馴染が俺の自慢だったし、俺は小さい頃から伊織のことが好きだった。
伊織に好かれたくて勉強も運動もできないなりに頑張って、伊織と同じ高校にも入学した。高校を卒業しても、きっと同じ大学に行って、俺はずっと伊織の傍にいられる……そう思って疑いもしなかった。
俺は伊織が好きだ。
そして、伊織も俺のことが好きなんじゃないかって、淡い期待を抱いたりもしている。
「あ、碧音。もうすぐ部活が終わるから待ってて。待たせてごめんね」
「大丈夫だよ。ここで待ってるから」
「うん、ありがと」
毎日体育館まで伊織を迎えに行って、一緒に帰る。そしてまた翌日一緒に登校する。それが俺たちの「当たり前」になっていた。
いくら待たされたって構わない。だって、こうやって伊織を近くで見ていられることが俺にとって何より幸せなことだったから。
「先輩たち仲いいっすねぇ」
そんな俺たちを見た、一つ年下の小野寺翠が冷やかしてくる。これもいつもの光景なのだけれど、「おい! そんなこと言ってないで、さっさと練習に戻れ」と少しだけ頬を赤らめながら、翠を叱る伊織を見ることも好きだった。
翠はバスケ部の次期部長と言われるくらいバスケが上手だ。伊織も背が高くて筋肉質だけれど、翠はそんな伊織よりも背が高くて細く締まった体つきをしている。
いつも人懐こい笑みを浮かべ、たくさんの友達に囲まれているイメージだ。翠の周りはいつも笑顔で溢れているような気がする。その場にいるだけで周りを和ませてしまう、不思議な魅力を持っていた。
勿論、女の子にだってモテる。翠がシュートを珍しく外すと「翠、マジ下手じゃん!」と女の子が一斉にからかいはじめる。そんな冷やかしを受けても「うっせぇよ」って翠は笑っていた。
翠は伊織と正反対の魅力を持っているように感じられる。
でも……。
「伊織、ナイッシュー!」
「おう、サンキュ!」
伊織が放ったシュートは綺麗な弧を描き、まるで吸い込まれるようにゴールの中に入っていく。それは思わず鳥肌が立つほどだ。
控え目だけれど、みんなから信頼されている人気者。本当なら、俺なんかと一緒にいる人物ではないのかもしれない。
だけど、俺は伊織の特別なんだ。
そう思うと、心の中がくすぐったくて、温かくなった。
ふと隣に視線を移すと、一人の女の子が立っている。でもなぜか違和感を覚え視線を下げると、制服のズボンを履いていた。
あ、またやっちまった……。俺はいつも見間違えてしまうんだ。
「千颯。お疲れ。部活終わったの?」
「はい」
「そっか」
まるで女の子のような見た目をした少年が、俺に向かって微笑みかける。彼は翠と同級生の奥村千颯。千颯がにっこり笑うと、両方の口の端にえくぼができてとても可愛らしい。
千颯は俺より背も低くて、華奢な体つきだ。色素の薄い髪は天然パーマなのだろう。クルクルと緩くカーブしている。幼い顔つきに、小動物のような雰囲気を持った男の子だった。
「今日も翠と一緒に帰るの?」
「はい。毎日一緒に帰るのが当たり前になってて」
「そっか。俺たちと一緒だな」
「ふふっ。そうみたいですね」
千颯は翠の幼馴染らしく、俺が伊織を待っているように、千颯は翠のことを待っている。千颯が翠を見つめる眼差しはいつもとても穏やかだった。
加えて、女子に混ざり華道部で活動しているなんて、俺とは別の世界に住んでいる存在のように感じられる。まるで妖精のような ――俺には千颯が透き通って見えた。
「……伊織先輩って、かっこいいですよね。あ、もちろん翠も凄くかっこいいけど。お二人は僕たちみたいに幼馴染なんですよね?」
「うん。幼稚園からの幼馴染なんだ」
「そっか……いいな、伊織先輩とずっと一緒にいられたなんて。羨ましいなぁ」
「ん? 千颯、今何か言った?」
「あ、いえ。何でもないです」
千颯の声が小さすぎて聞き取れなかった俺が彼の顔を覗き込んだけれど、千颯は顔を真っ赤にしながら俯いてしまった。そんな仕草をする彼はシャイで大人しくて、とても繊細に見える。
「早く終わるといいね」
「はい。早く終わるといいですね」
俺はいつも千颯と並んで、部活が終わるのを待っていた。
◇◆◇◆
「碧音、待たせてごめんな」
「ううん、大丈夫だよ」
慌てたように俺に駆け寄ってくる伊織。そんな伊織も好きだ。汗で髪が額に張り付いて、煩わしそうに前髪を掻き上げる仕草だって本当にかっこいい。少しだけ待ちくたびれていたけれど、そんな思いもどこかに吹き飛んでしまった。
「翠もお疲れ様」
「あぁ! 千颯、待たせてごめんな」
「全然大丈夫。気にしないで。それより翠、おでこ怪我してるよ。ちょっと待って、今絆創膏出すから」
「え? 本当? 全然気が付かなかった」
そんな二人のやり取りがとても微笑ましくて、思わず頬が緩んでしまう。翠は俺たちのことを「仲がいい」ってからかったけど、翠と千颯だって十分仲がいい。
まぁ、俺たちには敵わないけど……なんて少しだけ対抗意識を感じてしまう。そんな自分に気付いた瞬間、頬が熱くなるのを感じた。
「千颯は優しいんだね」
「いえ、そんなこと……」
「前から思ってたんだけど、すごく気が利くし。そういうとこ、とってもいいと思うよ」
「そ、そんな。恥ずかしいです……。伊織先輩だって、とても誠実で優しいと思います」
「本当? 嬉しいなぁ。ありがとう」
伊織が千颯に向かって微笑むのを見た俺は、心の中がモヤモヤしてしまう。「どうせ俺は優しくないよ」なんて、唇を尖らせて拗ねてみせた。
でも、鈍感な伊織はそんな俺に気付くこともなく、「本当にいい子だよね」などと千颯を褒め続ける。そんな伊織の腹を、肘で突いた。いつまで褒めてんだよ……と、イライラしてきてしまったのだ。
顔を真っ赤にして照れている千颯がすごく可愛いことに、少しだけ焦りだって感じてしまう。
伊織は誰からも好かれるから、いつか誰かにとられてしまうんではないかという恐怖が、いつも俺を不安にさせる。
「じゃあ、また明日な。翠、遅くまでゲームなんかしてないで、早く寝るんだぞ」
「わかってますって。お疲れ様でした!」
翠が人懐こい笑みを浮かべて俺たちに向かって手を振る。正門まで四人で向かい、そこで別れるのがいつものパターンだ。
俺たちは駅がある右へ折れる道へ。翠たちはバス停がある逆の方へ。
ここで、ようやく俺は伊織を独り占めすることができるんだ。
「伊織、お腹減ったよね。何か食べてく?」
「あー、うんそうだね」
「何食べよっか? ハンバーガーかドーナツか……。うーん、悩むなぁ」
そんな中、伊織がそっと振り返ってふわりと微笑む。微笑んだ相手は俺ではなくて、その視線の先には千颯がいた。
二人が俺と翠に気付かれないよう、そっと手を振り合っていたことに、俺は全く気づかなかったんだ。
もしあの時気が付いていたら、未来が変わっていたかもしれない。
なんて今後悔しても、時間は戻ってくれないのだけれど……。
◇◆◇◆
校庭に咲き乱れていた桜が一斉に散ったと思ったら、新緑が顔を出す季節となる。新葉が少しずつ強くなってきた日差しに照らされ、キラキラと輝いていた。
花々が咲き乱れる春もいいけれど、新緑の季節もまた魅力的な季節だと思う。校舎の中を吹き抜ける風だって、こんなにも爽やかだ。午前中ずっと座りっぱなしだった俺は、大きく伸びをして固まってしまった体を思いきり伸ばす。
気温も急に高くなって、教室の中も少し蒸し暑い。それでも衣替えはまだ先で、俺は制服のネクタイを緩めてブレザーの前ボタンを外す。教科書でパタパタと扇げば、生ぬるい風が吹いてきてホッと胸を撫で下ろした。
去年は伊織と同じクラスだったのに、今年は別々のクラスになってしまった。しかも俺は一組で、伊織は四組。教室が廊下の端と端だから、気軽に顔を見に行くこともできない。
俺はそれがすごく寂しかった。
高校生活の一大イベントである修学旅行は終わってしまったけれど、三年生だって卒業旅行だったり大きなイベントはぽつぽつとある。
そんな大切な一年を、伊織の傍で過ごせないことが、俺の心の中で棘のようにささくれてしまって、なかなかザラザラとした嫌な気持ちは抜けてくれない。
それでも、誰からも好かれる伊織はすぐに新しい友達ができたみたいで……。通りすがりに四組の教室を覗くと、伊織の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。新しいクラスメイトに囲まれて談笑する伊織は、俺の知らない顔をしているような気がして面白くない。
だからと言って、「俺以外の奴と仲良くしないで」なんて伊織に言えるはずなんかない。だって俺は、伊織の幼馴染ではあるけれど、恋人ではないのだから。
――高校を卒業するまでには告白しよう。
俺はそう決心しているのだけれど、なかなか行動に移せない。何度も「好きだ」と喉元まで言葉が出かかったが、それは言葉にはなってくれなかった。
伊織が男である俺を受け入れてくれるのかだってわからないし、幼い頃から兄弟みたいに育ってきた俺を、果たして恋愛対象としてみてくれることなんてあるのだろうか。
告白してフラれてしまったら、きっとこの関係は壊れてしまう……。そう思えば、簡単にこの想いを伝えることなんてできるはずはない。
だけど、そんな思いとは裏腹に、伊織を自分だけのものにしたいという独占欲や、恋人として触れてみたいという欲が日に日に強くなっていく。だって、俺だって健全な男子高校生だ。そういった欲が出てくるのも自然なことだと思う。
「伊織、好きだ。でも怖い……」
俺はそっと呟く。そんな弱虫の呟きは、生徒たちの笑い声と、授業開始を知らせるチャイムの音に掻き消されていった。
◇◆◇◆
「どこでお弁当食べようかなぁ」
俺は母親が作ってくれた弁当を抱えて、先程から校舎の中をウロウロしていた。
今日は四時間目の授業が早く終わったから、購買にも行くことができた。パンと弁当という豪華な昼食にありつけそうだ。
しかしそんな日に限って、クラス替えで仲良くなった新しい仲間は部活の遠征中。教室でひとりポツンと弁当を食べるのも居心地が悪いし、かと言って他の仲間の輪に「俺も入れてくれない?」なんて声をかける勇気は、生憎持ち合わせていない。
仕方なく、俺は落ち着いて弁当を食べることのできる場所を先程から探しているのだ。
「……あ、ここがいいかも」
俺が見つけたのは屋上へと続く階段だった。屋上に出ることができないよう鍵がかかってはいるけれど、屋上から差し込む日差しがポカポカと温かそうだ。
しかも、教室がある棟から離れた場所にあるここには、他の生徒の姿もない。それどころか、声すら聞こえてこない穴場スポットのように感じられた。
「よし、ここにしよう」と、ふと階段の最上階に視線を向けると、そこには男子生徒の姿が――。先客がいたのかと、慌てて踵を返そうとしたけれど、その顔には見覚えがあり……。俺は思わず、そいつの顔を見つめてしまった。
漆のように黒い髪は日差しを受け艶々と輝き、長い睫毛が顔に影を落としている。立ち上がると恐らく背が高いだろう。制服はだらしなく着崩されているけれど、それがなんだか艶っぽくて、俺は同性相手にドキドキしてしまう。
長い手足を無造作に投げ出し、そいつは気持ちよさそうに眠っていた。壁にもたれかかり、穏やかな寝息を立てる姿はとても綺麗で……俺は一瞬で視線を奪われてしまった。
廊下を拭き抜けていく風からは、ほんの少しだけ夏の香りがする。
あぁ、そうだ。もうすぐゴールデンウィークだっけ……。俺は頭の片隅で全然関係のないことを考えてしまう。だって、こいつの顔なんて、毎日見ているはずなのに……こんなにかっこよかったなんて気が付かなかった。どうやって冷静さを取り戻していいのかわからない。
爽やかな風が、俺と未だに夢の中にいるそいつの髪を優しく撫でていく。俺の鼓動の音がやけに鼓膜に響いて、うるさくて仕方がない。
あんまり気持ちよさそうに眠っているから、起こすのが可哀そうだけれど……。でも、こいつだって昼食をとらなければお腹が空くはずだ。それに部活だってあるだろうし。
俺は相変わらず眠り続けるそいつの傍に座って、肩をそっと揺らした。少し触れただけなのに、綺麗についた筋肉の硬さにびっくりしてしまう。
「翠、ねぇ、翠。なんでこんな所で寝てるんだよ? どっか調子が悪いのか?」
「ん、んん……ッ」
「翠、もうお昼ご飯食べたの?」
「んー? あ、碧音さんだ……」
階段で眠っていたのは、二年生の翠だった。
うっすらと目を開けた翠は、俺を見つけると顔をくしゃっとさせながら笑う。そんな幼い表情が可愛らしく感じられた。切れ長の瞳を擦りながら、大きな欠伸をひとつ。まだかなり眠たそうだ。
「もしかして、もう昼休みっすか?」
「うん、そうだけど……翠、いつからここで寝てたんだ?」
「うーん、三時間目からかな?」
「え? 三時間目からって……じゃあ、もしかして授業は?」
「授業? サボったに決まってるじゃないですか?」
「サボったの!?」
悪びれる様子もなく声を出して笑う翠を見て、俺は呆気にとられてしまう。翠って授業を平気でサボるタイプなんだ……と、驚いてしまった。
同じバスケ部でも、翠と伊織はこんなにも違う。伊織は授業をサボる、なんてことはしそうにない。
――あ、いけない。まただ……。
俺は咄嗟に頭を横に振る。わざわざ他の人と伊織を比べて天秤にかけてしまうのが、俺の悪い癖なのだ。
天秤にかけて、「俺の幼馴染はやっぱりすごい」って得意になったところで、何の意味もない。こんな失礼な癖は直さなくてはいけないと思うのだけれど、どうしても直らない。それほど伊織は俺にとって自慢の幼馴染なのだ。
「今から購買に行っても、もうパン残ってないですよね?」
「え? 翠、お弁当ないの?」
「はい。四時間目の授業が終わったら購買に行く予定だったから。くはぁ……」
翠はもう一度欠伸をしながら、大きく伸びをしている。それから鼻の頭を掻きながら、恥ずかしそうに肩を竦めた。
「実は、いつも起こしに来てくれる千颯が、今日は体調が悪くて欠席なんです。だからこんな時間まで寝ちゃって……」
「そっか。翠の面倒をいつも千颯がみてくれてるんだもんね」
「そうなんです。だから寝過ごしちゃいました。今日は昼飯なしだなぁ」
そう笑う翠の顔は赤らんでいて、二人はもしかして幼馴染以上の関係なのかなって、思わず詮索したくなってしまった。
千颯はしっかり者だから、自由奔放な翠の世話を焼いていた。それは、甲斐甲斐しく旦那さんの世話をする奥さんのようにも見えて、とても微笑ましい。
そんなことを言っている俺だって、本当にボーっとしているから、いつも伊織に迷惑ばかりかけてしまっている。それは、高校生になった今でも変わらない関係だ。
俺と伊織、それに翠と千颯。
俺たちの関係は、なんだかよく似ていて勝手に親近感を覚えてしまう。お互い、いつまでもこんな関係が続くといいなと、思いながら。
「いいよ。俺の弁当半分あげる」
「え? いいんですか?」
「うん。今日、偶然購買でパンも買えたんだ。だから、パンとお弁当半分こしよう?」
「ラッキー! 碧音さんありがとう!」
嬉しそうに目を細める翠を見ていると、俺まで嬉しくなってしまう。もし弟がいたらこんな感じなのだろうか。
それに……大型犬を飼うとこんな感じなのかもしれない。
そう考えると、可笑しくなってきてしまった。
「碧音さんって優しいんですね。伊織さんも幸せ者だなぁ」
「え?」
伊織さんも幸せ者だなぁ、という翠の言葉を理解できずに、ポカンと翠の顔を見上げる。一体どういう意味だろう。
もしかして、俺と伊織の関係を誤解しているのかもしれない。「俺たちはただの幼馴染だから」と言葉を紡ごうとしたとき、ついっと翠の手が伸びてきた。
「じゃあ、この焼きそばパンいただきます」
「あ、ちょっと翠! 半分こって言っただろう!」
俺の膝に置かれた紙袋の中から、焼きそばパンを取り出そうとする翠の腕に咄嗟にしがみつく。焼きそばパンは滅多にゲットすることのできない人気メニューだ。それを簡単に渡すことなんてできない。
「翠、半分こだよ、半分こ!」
「え? だって俺、焼きそばパン食いたいですもん」
「俺だって食いたい!」
「あははは! わかりましたよ。半分こね。碧音さんは可愛いなぁ」
必死に抵抗する俺の頭を、翠が突然くしゃくしゃっと撫でる。予想もしていなかった出来事に、思わず目を見開いた。
心臓がトクンと跳ね上がる。
翠にしてみたら当たり前のスキンシップなのかもしれないけれど……突然イケメンに頭を撫でられた俺は、顔から火が出そうになってしまった。
それと同時に、翠はいつもこうやって千颯の頭を撫でてやっているのだろうか、という疑問が頭を過る。もしそうだとしたら羨ましい。俺だって、伊織に頭を撫でられてみたい。
今まで伊織以外の奴と深く関わることなんてなかった俺は、人懐こい翠の存在に戸惑いを覚えていた。
「はい、じゃあ焼きそばパン半分こで」
「あ、うん」
俺は差し出された焼きそばパンを受け取る。そんな俺を見て、翠がもう一度微笑んだ。
「やっぱり激レア焼きそばパンは美味いなぁ」
俺は翠と今までちゃんと話をしたことはなかったけれど、こんなにも人懐こくて優しそうに笑うのだと驚かされてしまう。
こういう人間だから、彼は誰からも好かれて、いつも彼の周りには人がいっぱいいるのだろう。そもそも、俺とは住んでいる世界が違うのかもしれない。
このひととき、俺は翠と一緒に過ごす居心地の良さを密かに感じていた。
◇◆◇◆
翠と昼食を一緒に食べた日の放課後。いつものように翠と校門で別れた俺と伊織は、駅に向かった。
別れ際に「碧音さん、焼きそばパンありがとう!」と手を振ってくる翠はやっぱり大きな犬みたいで、思わず口角が上がってしまう。
後輩って可愛いもんだな……と呑気なことを感じていた。
そんな俺たちを見た伊織が、不思議そうに首を傾げる。
「随分翠と仲良くなったんだな?」
「あ、うん。今日一緒にお昼ご飯を食べたんだ」
「へぇ、そうなんだ」
そう呟く伊織は眉を顰めている。そんな伊織を見ていると、もしかして翠との関係にヤキモチを妬いているのかな?と、勝手に想像して嬉しくなってしまう。
伊織が、俺に対して独占欲を持ってくれているとしたら、それはすごく嬉しい。俺の頬が自然と吊り上がっていくのを感じた。
「そう言えば、今日千颯いなかったな?」
「体調不良で学校を休んでたみたいだよ」
「そっか……。千颯、体調が悪いんだ。心配だな」
伊織の口から出た千颯という名前に、俺は思わず唇を尖らせた。やっぱり、伊織から自分以外の名前が出てくるのは面白くない。
独占欲に嫉妬だなんて、本当に子供みたいだ。
これじゃあ、伊織にヤキモチを妬いてもらう前に、俺自身が嫉妬に身を焦がしてしまうかもしれない。情けなくて、思わず立ち止まって俯いた。
俺ばっかり伊織のことが好きで、悔しい。グッと拳を握り締める。
そんな俺に気付いたのか、伊織が振り返った。
「碧音、どうかしたか?」
心配そうな伊織の声に心が震える。
俺は、伊織の声も温もりも大きな手も。それだけじゃなくて、綺麗な髪も柔らかそうな唇も、伊織の全部を俺だけのものにしたい。
伊織の全部がほしいんだ……。
唇を噛み締めて顔を上げると、伊織が心配そうな顔をしている。こんな風に困らせたい訳じゃないのに、俺の心の中にあるカップからは、伊織が好きという想いが溢れ出してしまっていた。
心が痛くて、千切れてしまいそうだ。目頭が熱くなって、目の前がユラユラと揺れる。
「大丈夫? 碧音もどこか体調が悪いのか?」
「伊織……」
「どうした? 熱でもあるとか?」
「……ひゃッ」
伊織が俺の額にそっと手を当てる。きっといつもと違う俺を見て心配してくれているだけなのだろうけど。俺は思わず飛び上がってしまうくらいびっくりしてしまった。
額に当てられた伊織の手は、想像以上に大きくて筋張っている。それに、ヒンヤリと冷たかった。
「熱はなさそうだな。このまま電車で帰れる? それともおじさんに迎えに来てもらうか?」
「え、あ、だ、大丈夫。電車で帰れるよ」
「そっか。辛かったらちゃんと教えてね」
「……うん、わかった……」
照れくさくて思わず俯いた瞬間、「じゃあ行こうか」と呟いた伊織が、俺の額に当てた手を少しだけずらして前髪を掻き上げてくれた。
その感触に俺の心臓が飛び跳ねる。徐々に心拍が速くなって、呼吸が浅くなっていった。それからゆっくり、体に熱が広がっていく。俺の心が小さく震えた。
どうしようもなく心臓が早鐘を打ち、涙が溢れそうになる。
伊織に頭を撫でられるって、こんな感じなんだ。
昼休みに翠に頭を撫でられたときとは全く異なる感情が、俺の中でシャボン玉みたいに破裂したのを感じる。嬉しいのに、すごく照れくさい。でも、幸せで思わず叫び出したくなった。
『俺は伊織が好き』
この想いを伝えたくて仕方がない。もう心の中に閉じ込めておくことなんてできなくて、伊織が好きだって全身が悲鳴をあげている。息苦しくて、心臓が痛い。
『好き』
大きく息を吸って吐き出す。この思いを伝えようと口を開いた瞬間、伊織がフワッと微笑む。その笑顔を見た俺の心が一気に冷静さを取り戻していった。
好きって伝えたいけれど、もし拒絶されたら?
思わず唇を噛み締めて、もう一度俯いてしまう。この関係が終わってしまったら、こんな風に伊織に笑いかけてもらうことさえなくなるんだ。
危なかった……。俺は首を小さく横に振る。
「伊織、電車に乗り遅れちゃう」
「え? 碧音、ちょっと待ってよ」
今にも泣き出しそうな顔をしていることに気付かれたくない俺は、駅に向かって走り出した。
俺は伊織とずっと一緒にいたい。
そんな強すぎる想いが、俺をどんどん臆病者へと変えていく。それが辛くて苦しくて、でも幸せで……心がグチャグチャになってしまった俺は、それを振り払うかのように改札口へと向かって走ったのだった。



