「願いましては.....」

 この合図で全員がそろばんと、耳と、自分の指先に意識を集中させる。
 私の通うそろばん教室はとても小さなところで、生徒は10人くらい。
 先生は1人で、週に3回の授業があった。
 お母さんが、そろばんはやっておいた方がいいと小学4年生の時から通っている。
 とても優しいおじいちゃん先生で、皆大好きだった。
 物腰柔らかくて、ミスをしてしまっても叱ることはなく、丁寧にできるようになるまで練習してくれた。
 全問正解をすればこれでもかというくらい褒めてくれたし、成績が落ちてしまった時はチョコを1つ差し出して励ましてくれた。

 でも、私が中学校に入学したタイミングでその先生が入院してしまい、先生の息子が後を継ぐことになった。
 この息子先生がひどかった。
 実力主義で、できない人間はゴミ同然という考え方。
 先生自身がとても賢く、努力しない天才と自分で謳うことに頷いてしまうくらいには、”できる側”の人間だった。
 それゆえ”できない人”の気持ちが分からない。
 皆で教え、教わりだった教室はいつしか実力主義のカースト世界へと変わっていった。

 できる人間よりもできない人間の名前が大きな声で呼ばれる世界。
 できない人間には人権のない世界。
 できるのが当たり前な世界。

 ここで私は、だんとつで落ちこぼれだった。
 教室に通えば飛び交う暴言。
「そんな頭でよく今日まで生きてこれたね」
「こんな簡単なミスする人初めて見た」
「清水さん程出来の悪い人間初めて見たよ」
 加えて言葉にされなくてもにじみ出る態度。
 目線や、貧乏ゆすり、舌打ち、ひどい時は机を思いっきり叩くこともあった。
 大きな音や声におびえていた。
 そしていつしかその態度は、生徒へも伝染していく。
「お前のせいで教室の空気が最悪なんだよ」
「何でそんなにできないわけ? いい加減にしてよ。先生をイライラさせないで」
「馬鹿が移るから話しかけてくんな」
「隣に座んなんでくれない? こっちまで先生に怒られてる気分になるのよ」


 徐々に私の居場所はなくなっていった。
 そして気が付けば、何かにつけてずっと謝っていた。
 ”ごめんなさい”
 ”何も出来なくてごめんなさい”
 ”存在してごめんなさい”

 ”生きてて、ごめんなさい”

 
「なぁ、ここ。つまんねえミスすんなって。何回言わせるんだよ」
「ごめんなさい」
「あのさぁ、いっつも葬式みたいな顔してここくるけど、何なの? 嫌ならやめれば?」
「母が、せっかく通わせてくれてるので」
「嘘つけよ。言えないだけだろ? 自分が落ちこぼれで、俺からも生徒からも嫌われてて、存在価値がここにはないって」
 畳みかけられる言葉に、もう心は悲鳴を上げていた。
 私に価値が無いのも、嫌われてるのも、落ちこぼれなのも、全部知ってるから分かったから、もうこれ以上はそっとしておいてよ。
 そんな感情が込みあがって、でも怒りや絶望を感情のまま声に出す覚悟がなかった私は、小さく、ただ小さく言葉をこぼすことしかできなかった。
 でも、私の本音。
 もう、限界だと絶望をこめた本音。
 私は、ここをやめてしまえば全ての価値が、今度こそ本当になくなってしまうんじゃないかと怖かった。
 お母さんに絶望させたくなかった。自分の娘が落ちこぼれで、こんな仕打ちを受けていたんだということを気づかせたくなかった。
 そろばんを続けているのは、すべてを否定された私が唯一持っているプライド。
 これだけは、自分を信じて目を背けたくなかったから。

「違い、ます」

 珍しく反抗してきた私に先生は苛立ちが隠せないでいた。
 明らかに貧乏ゆすりの速度と強さが上がる。
「あっそ。まぁ良いわ。この際だから言うけどさ」
 
 いやだ。もう何も言わないで。もう無理だよ。

「お前、生きてる価値ないからね。そんな落ちこぼれでさぁ。顔も可愛くないし、バカだし。何を糧に生きてんの? 生きてるだけで迷惑とか考えたことないの? 」

「俺がお前なら、耐えられなくて死んでるね~」

 
 この言葉が、最後の記憶だった。
 教室で笑いが起こってたかもしれない。
 なんかそんな記憶が脳みその端っこにいるけど、うっすらだ。
 気が付けば教室を飛び出して、どこか知らない道を歩いてた。
 息がきれてるから、さっきまで走ってたのかもしれない。
 なんかびしょびしょだと思ったら、傘をさしていないのは私だけだった。
 そうだ、今日雨予報だった。
 あ、傘、教室に忘れてきた。

「まぁいっか」

 ここ、どこだ。
 わかんないけど、近くの100均に寄って便箋とカッターナイフを買った。
 脳みそを通してないとはこのことって感じで買ってたから、濡れてる私にびっくりしてる店員さんを見て「私変なやつじゃん」という事に気が付いた。

 なんとか帰巣本能で家までたどり着き、お母さんが仕事からまだ帰ってきていないのを確認してお風呂にお湯を張った。

 手が、震える。
 寒いからじゃない。
 
【遺書】

 目の前に自分で書いた文字を見て、身体の奥底から込みあがるナニカを感じた。
 悲しさとか、悔しさじゃなく、むしろ煮えたぎるエネルギーみたいなもの。
 

「なにこれ、ウケる。私泣いてるんだけど」
 
 1つも笑ってない私が手紙を書いてるときに放った言葉はこれだけ。
 この時の私はとっくにもう壊れていた。
 感情という感情が自分に追いついていなくて、渦巻いて、嵐のようにうごめいて、私にアドレナリンを出した。
 今なら何でもできる気がする。
 私は強い。
 私は天才だ。
 私が死んで、この遺書を誰かが見つけた時、あいつらは地獄に落ちる。
 ざまあみろ!

 私の勝ち


 ****


 お風呂から出て、タオルで体を丁寧にふく。
 じゃないと血がついちゃいそうだったから。
 
 あれ、なんで生きてるんだろう。

 部屋の天井を眺めるその光景はいつもとなんら変わらなくて、日常を生きてることに頭の中は疑問符であふれかえっていた。
 確かに私は遺書を書いた。
 そして新品のカッターで腕を切った。
 それはもう思いっきり。
 あいつらへの憎しみを力に変えて、これでもかと腕に押し付けた。
 確かに血はでた。
 でも、申し訳程度だった。

「なによこれ。なんで。私は、死ぬこともできないの.....?」

 ポトリと言葉を落とすことしかできない私を鼻で笑うように、そこに転がるものが目のふちに入った。
 
 床に転がるそろばん。
 
 これのせいで私は。
 そろばんなんてやってなければ。
 全部、お前のせいだ。
 
 今ある力の全てを、そろばんにぶつけた。
 乱雑につかまれたそろばんはじゃらっと音を鳴らし、そして床に打ち付けられた。
 何度も、何度も、打ち付けられた。
 たまに鈍い音が鳴るけど、まだ壊れない。

 ―――わかってた。手首を切るという決断をした時点で。

 私は、死ぬのが怖い。

 私は、中途半端だ。

 本当に死にたいならもっと確実な方法があったはず。
 でも私には、屋上から飛び降りる勇気も電車に身を投げる勇気もない。
 そろばんを本気で壊す度胸もないんだから当たり前だ。
 
「なんで生きてるんだろ。私」

 気が付けば、床にへたりこみ、血のにじんだ手で少し傷のついたそろばんを力なく握る私を、私が嘲笑していた。