制服姿で行けるところなんてどれほどもない。どこへ行くのかと思ったら彼が私の腕を引いてやってきたのは弓道場だった。
「弓道部のいいとこは、体育に弓道がないから授業出たくないときの避難場所にここ使えるとこだ」
のんびりと言い、水瀬は先に立って弓道場へと入る。入ってすぐの神棚に癖なのか習慣なのか小さく礼をする彼の背中を見、私も見様見真似で礼をしてみる。その私の様子を見て、ふふ、と水瀬が笑った。
「そういうとこがやっぱり佐古さんだな」
「……神様は大事にすべきだと思うから」
「じゃあ俺のことももうちょっと敬ってよ。神様だろ。一応」
茶化すように言ってから彼はふうと息を吐いて道場の板壁にもたれかかる。手招きされ、彼の隣、もうひとり間に座れそうな距離を開けて腰を下ろすと彼はまた笑った。
「恐れ多いと思われているのか、全力で嫌われているのか。全力で嫌われているのだとしたらそれはそれで有難いけれど」
「先輩の感覚、私には全然わからないです」
本当にこの人は地底人みたいだ。
同じ地球にいるのにまったく違う地平に生きている人みたいだ。
「嫌われたら……怖いじゃないですか。同じ言葉話してても全然伝わらなくなっちゃいそうで。最終的には価値なしって思われて、なんていうか尾てい骨みたいな扱いされるの、先輩は嫌じゃないんですか」
「尾てい骨?」
「つまり……いるのに意識されない人間みたいな」
「透明人間的な?」
それにしても尾てい骨って、と水瀬が笑う。
問いに頷きながらも、ああ、不毛な質問をしているなと私は思っていた。だってこの人にはそんな経験はないに違いない。誰もが振り返る。誰もがこの人の目の中に映ろうとする。
この人の、好き、をほしいと願う。
「君にとって俺は尾てい骨みたいなものなのかな」
半笑いで言われて私は固まった。
尾てい骨。
そこに確かにあるのに不要とされるもの。私にとって彼はそうなのだろうか。
確かに意識の外に置いておきたいと思うことはある。見えなければ自分の本性に気づかずにいられるのにと思うことだってある。でも。
私はちらり、と弓道場の入り口近くにある神棚に目を向ける。
神様。
どうして私はこの人を神様に選んだのだろう。目障りだったから? ああ、そうだ。自分と違い過ぎて劣等感を刺激されるから? それもそうだ。綺麗過ぎて腹立たしくて穢してしまいたかったから? それももちろんそう。
ただ、それだけなら神様にはしなくたってよかったはずだ。この胸に湧き上がった醜い感情に願いをデコレーションして海の底の底へ押し込めて終わりだ。そうすれば消えるのだから。
でも私は、彼を神様にした。
そこでふと私は思考を止める。
この人を神様にしようと決意した瞬間。それを私は思い出す。
それは……この人の足元を見たときだ。
この人は上靴のかかとを踏んで履いていた。履きつぶされた哀れな上靴と彼の取り澄まされた笑顔を見比べたあの一瞬で、彼は私の「神様」になった。
「先輩は……透明になりたいですか」
問いかけた声がなぜか震えた。
さわり、と湿った風が射場に流れ込んでくる。絡みつく歓声を払うかのようなうんざりした顔で、水瀬が湿気を孕んだ前髪をかきあげた。
「ほしいと望まれるよりは透明のほうがずっといい。愛情と義務の境目を見せられるのはしんどいから」
「……そうですよね」
全然わかっていないくせにそう答えた自分が一番嫌いだと思った。でもそうしか言えなかった。
私が嫌いでいるほうがこの人は楽なのだ。泥をかけられている方がこの人にとっては安心できるのだ。
わかりやすく強引に求められる関係がこの人にとっては苦痛なのだ。
──子どものころ、最初に神様にしたのはダンゴムシだった。
なんのために存在しているのか、まったく私にはわからない生き物だった。つつくと小さく丸まって少しでも体を小さくしようとする。
まるで私みたいでむかついた。だから神様にした。
こいつにならいくらでも汚いことを押しつけてもいいと思った。
その次に神様にしたのは鮭の骨。
何度も何度も喉に刺さっては私を苦しめる、意味がわからないやつ。良いところなんてまったくなくて、忘れたころにふっと刺さっては存在を主張するその感じがやっぱり自分みたいで苛立った。
優しくもないくせにそれっぽい言葉を吐き出すと、そのたびに刺さってもいない鮭の骨の感触を喉に感じて苦しくなった。
水瀬は……どうだったろう。
私となにも似ていない彼。両手に抱えきれないくらい色とりどりの花を抱えた彼。
皆と同じように笑って、日々という風の中を努力ひとつせずに軽々と飛んでいける彼。
そんな中で目を引いた、哀れに崩れた上靴のかかと。
完全なように見せかけて……完全じゃない、彼。
優しい顔で人に微笑みかけて、その実張りぼての、私。
──ああ、本当に可哀想です。神様、水瀬零さま。彼女の恋がどうかどうかうまくいきますように。
彼の上靴と濁った私の祈りが新聞に刻まれたふたつの誤字のように私の中でかすかに震えた。
「特別ってやつが俺にはわからなかったんだ。ずっと」
ざらざらとふいに音がする。見ると弓道場の屋根の向こうが雨に閉ざされようとしていた。と同時に、瓦屋根を勢いよく雨粒が叩く音が頭上から降ってきた。
雨音に包まれたその中で彼の声が静かに板張りの床へと吸い込まれていく。
「特別の向こうに見えたのは好きで。その向こうには『ほしい』があって。そう考えたらただうざくて。だったら透明でいたほうが楽だって思ってた。誰とでも適当に笑ってさ。ただ……なんだろうな、佐古さんの手紙は俺に向かっているのに俺になにかを求めてはいなくて。それがずっと気になってた。嫌いなんだろうなあとは感じるけど、嫌い、以上のなにも伝わってこない感じが……逆に気になった」
雨音がうるさい。彼の声を拾おうと私は少しだけ彼のほうに重心を傾ける。水瀬も同じようにこちらに体を傾けたのがわかった。
「無償の愛とか、そんなの全然わかんねえって思うけど……見るのも嫌だって透明にしたいくせにやっぱりできないって感じで、佐古さんが俺のことを嫌ってくれたらいいのにとは、思った」
激しい雨が地面を叩く。土を打とうと飛来した雫が風にあおられて屋根の奥深くへ流れ込んでくる。水滴が顔に襲い掛かってくる。思わず腕を上げて拭おうとした私の肩が不意に彼によって掴まれた。
長い腕が伸びてきてぎゅうっと抱きしめられる。その彼の体からはあの日、夕日に煙った教室で嗅いだ柑橘系のなにかの香りがした。
とたんに、整理整頓され、定められたポジションで息を潜めていた幾人もの私が、香りによって弾き飛ばされるのを感じた。好き、の私も、嫌い、の私も。優しい私も、憎らしい私も。ヴェール越しの私も、むき出しの私も。なにもかもが一斉に吐き出され、インテリアを根こそぎ失った空っぽの体の中にひとつだけ、思いが残った。
その思いに従い、私は彼の胸に鼻をめり込ませ、鼻腔一杯に香りを頬張る。
彼は私をエナジーバンパイアだと言った。エネルギーを吸うというエナジーバンパイア。仮に彼の言う通り私がそうだとしても、今の私が吸いたいのはエネルギーなんかじゃなかった。
エネルギーなんてどうでもいいから、この香りをすべて自分の体に取り込み、香りだけで体を満たしてしまいたかった。
人にとって不要な存在のはずの尾てい骨の奥が、なぜか蠢いた気がした。
そんな狂った思いが私の中に浮かんでしまったこの瞬間。
彼は私の中で神様じゃなかった。
私はこれから真っ白でいられるのだろうか。
すべての人から嫌われないようにするために、今自分を包むこの人に向かって自分の悪意を投げつけ、白さを保ってこれからもやっていけるのだろうか。
わからない。
わからなくて、怖い。
「俺、うざいなあ」
彼の体を通して彼がぼやくのが聞こえる。答えることもできないままでいる私にというよりは独り言みたいに彼は言った。
「ほしいが嫌いなくせに……自分はちゃっかりほしいと思ってる。ほんと意味不」
ごめん、と彼が言う。解けようとした彼の腕を引き止めるように私は彼の背中に腕を回した。
なんだかいいと思った。こういうのでいいと思った。
相容れない数多の感情。その感情と感情が出会ってぶつかってほどけて溶けていく。それでいいと思った。
柑橘系の香り。蜜柑なのか、柚子なのか。その香りに雨の香りが混ざる。
爽やかさと陰鬱さ。絡みつく暑さとじんわりと温かい体温。
寂しいとうざったい。
黒と、白。
その狭間で、私は彼の体に回す腕に力を込めた。
「弓道部のいいとこは、体育に弓道がないから授業出たくないときの避難場所にここ使えるとこだ」
のんびりと言い、水瀬は先に立って弓道場へと入る。入ってすぐの神棚に癖なのか習慣なのか小さく礼をする彼の背中を見、私も見様見真似で礼をしてみる。その私の様子を見て、ふふ、と水瀬が笑った。
「そういうとこがやっぱり佐古さんだな」
「……神様は大事にすべきだと思うから」
「じゃあ俺のことももうちょっと敬ってよ。神様だろ。一応」
茶化すように言ってから彼はふうと息を吐いて道場の板壁にもたれかかる。手招きされ、彼の隣、もうひとり間に座れそうな距離を開けて腰を下ろすと彼はまた笑った。
「恐れ多いと思われているのか、全力で嫌われているのか。全力で嫌われているのだとしたらそれはそれで有難いけれど」
「先輩の感覚、私には全然わからないです」
本当にこの人は地底人みたいだ。
同じ地球にいるのにまったく違う地平に生きている人みたいだ。
「嫌われたら……怖いじゃないですか。同じ言葉話してても全然伝わらなくなっちゃいそうで。最終的には価値なしって思われて、なんていうか尾てい骨みたいな扱いされるの、先輩は嫌じゃないんですか」
「尾てい骨?」
「つまり……いるのに意識されない人間みたいな」
「透明人間的な?」
それにしても尾てい骨って、と水瀬が笑う。
問いに頷きながらも、ああ、不毛な質問をしているなと私は思っていた。だってこの人にはそんな経験はないに違いない。誰もが振り返る。誰もがこの人の目の中に映ろうとする。
この人の、好き、をほしいと願う。
「君にとって俺は尾てい骨みたいなものなのかな」
半笑いで言われて私は固まった。
尾てい骨。
そこに確かにあるのに不要とされるもの。私にとって彼はそうなのだろうか。
確かに意識の外に置いておきたいと思うことはある。見えなければ自分の本性に気づかずにいられるのにと思うことだってある。でも。
私はちらり、と弓道場の入り口近くにある神棚に目を向ける。
神様。
どうして私はこの人を神様に選んだのだろう。目障りだったから? ああ、そうだ。自分と違い過ぎて劣等感を刺激されるから? それもそうだ。綺麗過ぎて腹立たしくて穢してしまいたかったから? それももちろんそう。
ただ、それだけなら神様にはしなくたってよかったはずだ。この胸に湧き上がった醜い感情に願いをデコレーションして海の底の底へ押し込めて終わりだ。そうすれば消えるのだから。
でも私は、彼を神様にした。
そこでふと私は思考を止める。
この人を神様にしようと決意した瞬間。それを私は思い出す。
それは……この人の足元を見たときだ。
この人は上靴のかかとを踏んで履いていた。履きつぶされた哀れな上靴と彼の取り澄まされた笑顔を見比べたあの一瞬で、彼は私の「神様」になった。
「先輩は……透明になりたいですか」
問いかけた声がなぜか震えた。
さわり、と湿った風が射場に流れ込んでくる。絡みつく歓声を払うかのようなうんざりした顔で、水瀬が湿気を孕んだ前髪をかきあげた。
「ほしいと望まれるよりは透明のほうがずっといい。愛情と義務の境目を見せられるのはしんどいから」
「……そうですよね」
全然わかっていないくせにそう答えた自分が一番嫌いだと思った。でもそうしか言えなかった。
私が嫌いでいるほうがこの人は楽なのだ。泥をかけられている方がこの人にとっては安心できるのだ。
わかりやすく強引に求められる関係がこの人にとっては苦痛なのだ。
──子どものころ、最初に神様にしたのはダンゴムシだった。
なんのために存在しているのか、まったく私にはわからない生き物だった。つつくと小さく丸まって少しでも体を小さくしようとする。
まるで私みたいでむかついた。だから神様にした。
こいつにならいくらでも汚いことを押しつけてもいいと思った。
その次に神様にしたのは鮭の骨。
何度も何度も喉に刺さっては私を苦しめる、意味がわからないやつ。良いところなんてまったくなくて、忘れたころにふっと刺さっては存在を主張するその感じがやっぱり自分みたいで苛立った。
優しくもないくせにそれっぽい言葉を吐き出すと、そのたびに刺さってもいない鮭の骨の感触を喉に感じて苦しくなった。
水瀬は……どうだったろう。
私となにも似ていない彼。両手に抱えきれないくらい色とりどりの花を抱えた彼。
皆と同じように笑って、日々という風の中を努力ひとつせずに軽々と飛んでいける彼。
そんな中で目を引いた、哀れに崩れた上靴のかかと。
完全なように見せかけて……完全じゃない、彼。
優しい顔で人に微笑みかけて、その実張りぼての、私。
──ああ、本当に可哀想です。神様、水瀬零さま。彼女の恋がどうかどうかうまくいきますように。
彼の上靴と濁った私の祈りが新聞に刻まれたふたつの誤字のように私の中でかすかに震えた。
「特別ってやつが俺にはわからなかったんだ。ずっと」
ざらざらとふいに音がする。見ると弓道場の屋根の向こうが雨に閉ざされようとしていた。と同時に、瓦屋根を勢いよく雨粒が叩く音が頭上から降ってきた。
雨音に包まれたその中で彼の声が静かに板張りの床へと吸い込まれていく。
「特別の向こうに見えたのは好きで。その向こうには『ほしい』があって。そう考えたらただうざくて。だったら透明でいたほうが楽だって思ってた。誰とでも適当に笑ってさ。ただ……なんだろうな、佐古さんの手紙は俺に向かっているのに俺になにかを求めてはいなくて。それがずっと気になってた。嫌いなんだろうなあとは感じるけど、嫌い、以上のなにも伝わってこない感じが……逆に気になった」
雨音がうるさい。彼の声を拾おうと私は少しだけ彼のほうに重心を傾ける。水瀬も同じようにこちらに体を傾けたのがわかった。
「無償の愛とか、そんなの全然わかんねえって思うけど……見るのも嫌だって透明にしたいくせにやっぱりできないって感じで、佐古さんが俺のことを嫌ってくれたらいいのにとは、思った」
激しい雨が地面を叩く。土を打とうと飛来した雫が風にあおられて屋根の奥深くへ流れ込んでくる。水滴が顔に襲い掛かってくる。思わず腕を上げて拭おうとした私の肩が不意に彼によって掴まれた。
長い腕が伸びてきてぎゅうっと抱きしめられる。その彼の体からはあの日、夕日に煙った教室で嗅いだ柑橘系のなにかの香りがした。
とたんに、整理整頓され、定められたポジションで息を潜めていた幾人もの私が、香りによって弾き飛ばされるのを感じた。好き、の私も、嫌い、の私も。優しい私も、憎らしい私も。ヴェール越しの私も、むき出しの私も。なにもかもが一斉に吐き出され、インテリアを根こそぎ失った空っぽの体の中にひとつだけ、思いが残った。
その思いに従い、私は彼の胸に鼻をめり込ませ、鼻腔一杯に香りを頬張る。
彼は私をエナジーバンパイアだと言った。エネルギーを吸うというエナジーバンパイア。仮に彼の言う通り私がそうだとしても、今の私が吸いたいのはエネルギーなんかじゃなかった。
エネルギーなんてどうでもいいから、この香りをすべて自分の体に取り込み、香りだけで体を満たしてしまいたかった。
人にとって不要な存在のはずの尾てい骨の奥が、なぜか蠢いた気がした。
そんな狂った思いが私の中に浮かんでしまったこの瞬間。
彼は私の中で神様じゃなかった。
私はこれから真っ白でいられるのだろうか。
すべての人から嫌われないようにするために、今自分を包むこの人に向かって自分の悪意を投げつけ、白さを保ってこれからもやっていけるのだろうか。
わからない。
わからなくて、怖い。
「俺、うざいなあ」
彼の体を通して彼がぼやくのが聞こえる。答えることもできないままでいる私にというよりは独り言みたいに彼は言った。
「ほしいが嫌いなくせに……自分はちゃっかりほしいと思ってる。ほんと意味不」
ごめん、と彼が言う。解けようとした彼の腕を引き止めるように私は彼の背中に腕を回した。
なんだかいいと思った。こういうのでいいと思った。
相容れない数多の感情。その感情と感情が出会ってぶつかってほどけて溶けていく。それでいいと思った。
柑橘系の香り。蜜柑なのか、柚子なのか。その香りに雨の香りが混ざる。
爽やかさと陰鬱さ。絡みつく暑さとじんわりと温かい体温。
寂しいとうざったい。
黒と、白。
その狭間で、私は彼の体に回す腕に力を込めた。



