鏡の前、手洗い場で手を洗っていると、ねえ、と声をかけられた。振り向いた先に、同じクラスの畑中さんと隣のクラスの蓮田さんが立っていた。
「佐古さんさあ、訊きたいことがあるんだけど」
声が刺々しい。心臓がしゅん、と不吉なリズムで跳ね、先ほど行ったというのに下腹部がつんと痛んで便器にUターンしたくなった。
「え、あの」
「二年の水瀬先輩、知ってるよね」
知ってる。頷きかけて、ああ、これはやばい、と頭の中でサイレンが鳴った。
こういうこともあり得ると思っていたのに。だから嫌だったのに。
「最近、毎日一緒にいるって聞いたんだけど、それ、本当? 一緒に帰ってるとかなんとか。まさか付き合ってはいないよね?」
「……あ、ええと」
そんなわけないよ、私みたいな陰キャが。
そう言い切ることはできた。言葉を重ねてしらばくれることも。だがさすがに無理だった。
水瀬零は目立ち過ぎる。有名人過ぎる。
しかも彼は隠さない。私への好意を全身で表す。
学校で私を見つけると彼は周りの空気なんて気にもかけないで長い足で颯爽と駆け寄ってくる。部活が終わるまで待ってて、と甘い声で命令する。人目があろうとなかろうと、平気で私に笑いかけてくる。いつもの彼とは違う、色の濃い笑顔で。
私はそのすべてに抗えない。
「付き合っては、いない。からかわれて、るだけ」
「嘘。佐古さんの方が付きまとってる感じじゃん」
「そんなこと」
してない、と口の中で言ったが、彼女たちは私の反論になんて最初から聞く耳を持ってはいなかった。
「あんまり派手なことしないほうがいいよ。なにが起きるかわかんないし」
「そうそ。うちら忠告したから」
なにが起きるかわからないじゃないでしょ。次はこれくらいじゃすまない、でしょ。
忠告じゃないでしょ、警告でしょ。
心の中で悪態をついたけれど、彼女たちは言いたいことだけ言って去っていってしまった。
「これもさ、人助けよね」
「だね。勘違いしたままでいたら佐古さんが可哀想だし。良いことしたあ」
去り際、そんな声が聞こえた。
ざあざあと流れっぱなしになっていた水道のノズルを元の高さにのろのろと戻した私の背中でトイレのドアがぱたり、と開く。鏡の中を確かめると、櫻井さんが立っていた。
「あ、櫻井さん……」
呼びかけた私の声だけが反響する。
彼女は顔を俯けたたまま、私の隣の隣の洗い場で手を洗う。手元だけを黙々と見つめて猛スピードで手をこすり、そのまま出ていく。と思いきや、トイレの入り口で彼女は私に背中を向けたまま潜めた声で言った。
「ごめんね。佐古さんと仲良くすると……私までいろいろ言われちゃうから」
彼女はそそくさと出ていく。その一連のやり取りの間、彼女が私に目線を向けることは一度もなかった。
冷え切ったトイレのタイル一枚一枚から、大勢の視線と囁きかわす声が漏れだしてくる。それらは私の皮と肉をもってシールドしようと、私の中核を容赦なく焼いた。
私は……大人しくて優しい佐古優香。誰にでも平等に笑顔を向けて、誰の背中だって温かい掌で撫でる。天使のような人。みんなに好かれている、佐古優香。
でも、みんなって誰だったのだろう。みんなって、なに?
好かれる、ってなに?
ふらふらとトイレを出て私は教室へと向かう。けれど足が重い。自分で作った世界が私の足を邪魔する瓦礫にでもなったみたいだ。
闇雲に歩く。行く宛なんてない。もう、怖い。なにもかもが、怖い。触れるもの、見えるもの、聞こえるもの。全部全部が怖い。
怖く、なりたくなかったのに。
その私の二の腕が唐突にぐい、と掴まれた。
「佐古さん。なにしてんの。授業始まるよ」
見上げた先に見つけた顔は、今もっとも見たくない憎いものだった。移動教室帰りなのだろうか。肩に油絵具用の画材バッグが提げられていた。
「離して」
力の限り腕を引く。でも彼は離さない。それはそうだ。この人は私が嫌がることをいつだって笑顔でするような人なのだから。自らにかけられた泥をものともしないどころか、美味しそうにその泥をすする……私の神様なのだから。
「嫌いです。本当に嫌い。触らないで。寄らないで。私に構わないで。大嫌い」
体の中の漆喰が剥がれ落ち、言葉となってぽろぽろと溢れ出てくる。
「私のほしいもの持ってるくせに。あんたのせいで私、見てもらえなくなった。誰にも! 誰にも!」
「……俺のせい?」
声が近い。でも私はこの人を見たくない。自分と違い過ぎるこの人を視界に入れたくない。
私が持っていないものを簡単に手に入れてそれでもまだ足りなくて、人を弄んで愉しむ、そんな人を私は見ていたくない。
私の頭の上で水瀬が短く息を吐いたのがわかった。
「佐古さん。現実を見なよ。最初から君なんて誰も気にしてないよ」
きっぱりと言われかっと頭が熱せられた。
「そうでしょうね。私は先輩みたいになんでもできる人と違うから。なんでも持っててなんでももらえる人と違うから。才能って言葉あるじゃないですか。私、あれ大嫌いです。あれがあるかないかで人からの目は変わる。頑張って積み上げても才能には敵わない」
授業が始まったのか、渡り廊下に人はいない。けれど水瀬は動かない。水瀬に捕らわれた二の腕がきりりと痛んだ。
「君がなにを積み上げたって?」
「優しさ」
静かな声で放たれた問いを渾身の力で打ち返す。ふっと水瀬が目を見開いた。馬鹿みたいに澄んだ目が憎らしくてたまらなかった。
「なんにもない人間はね、優しくなくちゃ意味がないんですよ。優しくなくちゃ価値もなくなるんですよ。だから私には黒いところなんてあっちゃダメなんです。なんにもない私は、真っ白過ぎて見てると目が痛くなるくらいでなくちゃ誰も見てくれなくなる」
人はオセロの黒と白みたいなものだとよく言う。黒も白もあって人だと。だがそんなの嘘っぱちだ。人は黒い部分を感じたら白い部分なんて忘れる。黒いものがすべてになる。
悪意、嫌悪、嫉妬、嘲り。一瞬でも黒を感じたなら、これまで注がれた優しさや温もり、労り、すべてが霞む。白は消えて黒一色へと変わる。オセロ盤の緑の大地にそよぐ花は太陽の光も全部塗り替える黒百合だ。
俯く私の腕ががくん、と揺さぶられた。
「違うよ、佐古さん。君が黒かろうが白かろうがそんなことどうでもいいんだよ。みんな最初から君なんて気にもしてないんだから」
言われなくたってわかっている。わかっているからこそ自分は黒いすべてを脱ぎ捨ててきたのだ。自然には白くなれない自分の中から悪意の塊を何度も何度も吐き出して光の届かない深部へ埋め続けてきたのだ。
見てもらうために。光の下へ少しでも近づくために。
恵まれ続けてきたこの人にはわからない。わかってたまるか。
力の限り身をよじると腕は外れた。でも彼の声までは防げなかった。
「そんなだから誰にも見てもらえないんだよ。お前がそもそも誰も見てないから」
耳の奥がじりりと焦げた。水瀬は無表情にこちらを見下ろしている。
突然飛び出した「お前」になのか、言われた内容になのか、わからないが私は束の間戸惑う。返す言葉を失った私の腕が再び手荒く掴まれた。
「行こう」
「ど、ど、どこへ」
どもった私を引きずりながら彼は面倒くさそうに言う。
「どうせ俺と付き合ってるとか付き合ってないとかくだらないことねちねち言われたんだろ。馬鹿馬鹿しい。もう馬鹿馬鹿しくて反吐が出そうで今すぐ放送室行って『佐古優香と俺が付き合ってなかったとしてもお前らとは付き合わねえんだし関係ないんじゃね? 人のこととやかく言ってる暇あったら自分の顔面偏差値に合うやつとよろしくやれよ、ばーか』くらい大声で言ってやりたいんだけど、それこそ関係ないやつからしたら馬鹿じゃね? みたいな話だからやめといてやる」
「……意味がわからないです」
「わからなくていい。ただ言えるのは、俺は別に佐古さんの優しさなんてどうでもいいって思ってるってこと」
「……私の努力なんて意味ないとか、言いたいんですか」
ああ、本当にこの人は自分がどれほど恵まれているのか、全然わかってない。この人のこの無自覚が本当にむかつくし、それを目にするたび、消えてほしくなる。
「おーおー、睨んでくれるねえ。わかりやすく」
でもなぜか水瀬は私がそうすればするほど嬉しそうにする。私は前々から思っていたことを口にした。
「被虐性がある人ですか。先輩は」
「ひぎゃくせい」
「つまり、思いっきりMだとか」
「あー。いやまあ、ないとは言わないけど。俺はね、優しさアレルギーなんだよ」
なんだそれ。そんなの聞いたことない。顔をしかめると、水瀬は相変わらずぺたぺたとだらしない靴音を響かせながら肩をすくめた。
「嫌いなんだよ。優しさ。あと好きってやつも。だってさ、そういうのの裏に『ほしい』が見えること多いから。まあ、我ながらひどいとは思ってはいる。そもそも無償の愛なんてやつをほしがっていいほど俺は誰かを見てはいなかったし、そんな俺が求めるほうが間違ってるよ。自分を見てほしい、自分を大切にしてほしいって思うのは人として当たり前の感情なんだから。その手段として優しさを差し出すやつだっているのも理解できる。もちろんそうじゃないやつもきっといるんだろうな。でも俺に近づいてくるやつはみんなほしいがあった。そんなほしいが見えるたびぞっとした。優しさふりかざせば、その同じ優しさ、いいや、それ以上のなにかを俺も返さないといけないのか? 返さない俺は人としてダメなのか? それって脅迫とどう違うんだって思っていた」
うわー、こいつ歪んでいる。
そう思った。思ったけれど同時に嫌と言うほどわかるとも思った。わかってしまう自分に寒気がした。
私も『ほしい』から優しさを振りかざしている。
「優しさにこびてる私はさぞ滑稽だったんでしょうね」
「……なあ、優しくないやつは生きてる価値ないとか思ってんの? 優しさにこびることすらできない俺は下の下?」
「こびなくてももらえるならもらっておけばいいじゃないですか、先輩は」
呟いたが水瀬は無言だ。ぐいぐいと私の腕を引き昇降口まで来た彼は、私のクラスの靴箱の前で私を見た。
「佐古さんの靴箱、どこ」
「自分で出すので。手、離してください」
「それは無理。離したら逃げそうだから」
確かに逃げるならこのタイミングがベストだ。言われて自分がさっきから彼の言葉に耳を傾け続けていて彼の手から逃げ出す努力をしていなかったことに今頃気がついた。
「逃げませんから。逃げずに一緒に行きますから」
水瀬が疑わしそうに目を細める。その彼を見上げ、私はため息交じりに言った。
「どのみち先輩には人質を取られているので。脅迫に屈するしかないです」
「脅迫」
呟いてから水瀬はついと目を逸らした。そうだね、と続けた彼の声は乾いていた。
「佐古さんさあ、訊きたいことがあるんだけど」
声が刺々しい。心臓がしゅん、と不吉なリズムで跳ね、先ほど行ったというのに下腹部がつんと痛んで便器にUターンしたくなった。
「え、あの」
「二年の水瀬先輩、知ってるよね」
知ってる。頷きかけて、ああ、これはやばい、と頭の中でサイレンが鳴った。
こういうこともあり得ると思っていたのに。だから嫌だったのに。
「最近、毎日一緒にいるって聞いたんだけど、それ、本当? 一緒に帰ってるとかなんとか。まさか付き合ってはいないよね?」
「……あ、ええと」
そんなわけないよ、私みたいな陰キャが。
そう言い切ることはできた。言葉を重ねてしらばくれることも。だがさすがに無理だった。
水瀬零は目立ち過ぎる。有名人過ぎる。
しかも彼は隠さない。私への好意を全身で表す。
学校で私を見つけると彼は周りの空気なんて気にもかけないで長い足で颯爽と駆け寄ってくる。部活が終わるまで待ってて、と甘い声で命令する。人目があろうとなかろうと、平気で私に笑いかけてくる。いつもの彼とは違う、色の濃い笑顔で。
私はそのすべてに抗えない。
「付き合っては、いない。からかわれて、るだけ」
「嘘。佐古さんの方が付きまとってる感じじゃん」
「そんなこと」
してない、と口の中で言ったが、彼女たちは私の反論になんて最初から聞く耳を持ってはいなかった。
「あんまり派手なことしないほうがいいよ。なにが起きるかわかんないし」
「そうそ。うちら忠告したから」
なにが起きるかわからないじゃないでしょ。次はこれくらいじゃすまない、でしょ。
忠告じゃないでしょ、警告でしょ。
心の中で悪態をついたけれど、彼女たちは言いたいことだけ言って去っていってしまった。
「これもさ、人助けよね」
「だね。勘違いしたままでいたら佐古さんが可哀想だし。良いことしたあ」
去り際、そんな声が聞こえた。
ざあざあと流れっぱなしになっていた水道のノズルを元の高さにのろのろと戻した私の背中でトイレのドアがぱたり、と開く。鏡の中を確かめると、櫻井さんが立っていた。
「あ、櫻井さん……」
呼びかけた私の声だけが反響する。
彼女は顔を俯けたたまま、私の隣の隣の洗い場で手を洗う。手元だけを黙々と見つめて猛スピードで手をこすり、そのまま出ていく。と思いきや、トイレの入り口で彼女は私に背中を向けたまま潜めた声で言った。
「ごめんね。佐古さんと仲良くすると……私までいろいろ言われちゃうから」
彼女はそそくさと出ていく。その一連のやり取りの間、彼女が私に目線を向けることは一度もなかった。
冷え切ったトイレのタイル一枚一枚から、大勢の視線と囁きかわす声が漏れだしてくる。それらは私の皮と肉をもってシールドしようと、私の中核を容赦なく焼いた。
私は……大人しくて優しい佐古優香。誰にでも平等に笑顔を向けて、誰の背中だって温かい掌で撫でる。天使のような人。みんなに好かれている、佐古優香。
でも、みんなって誰だったのだろう。みんなって、なに?
好かれる、ってなに?
ふらふらとトイレを出て私は教室へと向かう。けれど足が重い。自分で作った世界が私の足を邪魔する瓦礫にでもなったみたいだ。
闇雲に歩く。行く宛なんてない。もう、怖い。なにもかもが、怖い。触れるもの、見えるもの、聞こえるもの。全部全部が怖い。
怖く、なりたくなかったのに。
その私の二の腕が唐突にぐい、と掴まれた。
「佐古さん。なにしてんの。授業始まるよ」
見上げた先に見つけた顔は、今もっとも見たくない憎いものだった。移動教室帰りなのだろうか。肩に油絵具用の画材バッグが提げられていた。
「離して」
力の限り腕を引く。でも彼は離さない。それはそうだ。この人は私が嫌がることをいつだって笑顔でするような人なのだから。自らにかけられた泥をものともしないどころか、美味しそうにその泥をすする……私の神様なのだから。
「嫌いです。本当に嫌い。触らないで。寄らないで。私に構わないで。大嫌い」
体の中の漆喰が剥がれ落ち、言葉となってぽろぽろと溢れ出てくる。
「私のほしいもの持ってるくせに。あんたのせいで私、見てもらえなくなった。誰にも! 誰にも!」
「……俺のせい?」
声が近い。でも私はこの人を見たくない。自分と違い過ぎるこの人を視界に入れたくない。
私が持っていないものを簡単に手に入れてそれでもまだ足りなくて、人を弄んで愉しむ、そんな人を私は見ていたくない。
私の頭の上で水瀬が短く息を吐いたのがわかった。
「佐古さん。現実を見なよ。最初から君なんて誰も気にしてないよ」
きっぱりと言われかっと頭が熱せられた。
「そうでしょうね。私は先輩みたいになんでもできる人と違うから。なんでも持っててなんでももらえる人と違うから。才能って言葉あるじゃないですか。私、あれ大嫌いです。あれがあるかないかで人からの目は変わる。頑張って積み上げても才能には敵わない」
授業が始まったのか、渡り廊下に人はいない。けれど水瀬は動かない。水瀬に捕らわれた二の腕がきりりと痛んだ。
「君がなにを積み上げたって?」
「優しさ」
静かな声で放たれた問いを渾身の力で打ち返す。ふっと水瀬が目を見開いた。馬鹿みたいに澄んだ目が憎らしくてたまらなかった。
「なんにもない人間はね、優しくなくちゃ意味がないんですよ。優しくなくちゃ価値もなくなるんですよ。だから私には黒いところなんてあっちゃダメなんです。なんにもない私は、真っ白過ぎて見てると目が痛くなるくらいでなくちゃ誰も見てくれなくなる」
人はオセロの黒と白みたいなものだとよく言う。黒も白もあって人だと。だがそんなの嘘っぱちだ。人は黒い部分を感じたら白い部分なんて忘れる。黒いものがすべてになる。
悪意、嫌悪、嫉妬、嘲り。一瞬でも黒を感じたなら、これまで注がれた優しさや温もり、労り、すべてが霞む。白は消えて黒一色へと変わる。オセロ盤の緑の大地にそよぐ花は太陽の光も全部塗り替える黒百合だ。
俯く私の腕ががくん、と揺さぶられた。
「違うよ、佐古さん。君が黒かろうが白かろうがそんなことどうでもいいんだよ。みんな最初から君なんて気にもしてないんだから」
言われなくたってわかっている。わかっているからこそ自分は黒いすべてを脱ぎ捨ててきたのだ。自然には白くなれない自分の中から悪意の塊を何度も何度も吐き出して光の届かない深部へ埋め続けてきたのだ。
見てもらうために。光の下へ少しでも近づくために。
恵まれ続けてきたこの人にはわからない。わかってたまるか。
力の限り身をよじると腕は外れた。でも彼の声までは防げなかった。
「そんなだから誰にも見てもらえないんだよ。お前がそもそも誰も見てないから」
耳の奥がじりりと焦げた。水瀬は無表情にこちらを見下ろしている。
突然飛び出した「お前」になのか、言われた内容になのか、わからないが私は束の間戸惑う。返す言葉を失った私の腕が再び手荒く掴まれた。
「行こう」
「ど、ど、どこへ」
どもった私を引きずりながら彼は面倒くさそうに言う。
「どうせ俺と付き合ってるとか付き合ってないとかくだらないことねちねち言われたんだろ。馬鹿馬鹿しい。もう馬鹿馬鹿しくて反吐が出そうで今すぐ放送室行って『佐古優香と俺が付き合ってなかったとしてもお前らとは付き合わねえんだし関係ないんじゃね? 人のこととやかく言ってる暇あったら自分の顔面偏差値に合うやつとよろしくやれよ、ばーか』くらい大声で言ってやりたいんだけど、それこそ関係ないやつからしたら馬鹿じゃね? みたいな話だからやめといてやる」
「……意味がわからないです」
「わからなくていい。ただ言えるのは、俺は別に佐古さんの優しさなんてどうでもいいって思ってるってこと」
「……私の努力なんて意味ないとか、言いたいんですか」
ああ、本当にこの人は自分がどれほど恵まれているのか、全然わかってない。この人のこの無自覚が本当にむかつくし、それを目にするたび、消えてほしくなる。
「おーおー、睨んでくれるねえ。わかりやすく」
でもなぜか水瀬は私がそうすればするほど嬉しそうにする。私は前々から思っていたことを口にした。
「被虐性がある人ですか。先輩は」
「ひぎゃくせい」
「つまり、思いっきりMだとか」
「あー。いやまあ、ないとは言わないけど。俺はね、優しさアレルギーなんだよ」
なんだそれ。そんなの聞いたことない。顔をしかめると、水瀬は相変わらずぺたぺたとだらしない靴音を響かせながら肩をすくめた。
「嫌いなんだよ。優しさ。あと好きってやつも。だってさ、そういうのの裏に『ほしい』が見えること多いから。まあ、我ながらひどいとは思ってはいる。そもそも無償の愛なんてやつをほしがっていいほど俺は誰かを見てはいなかったし、そんな俺が求めるほうが間違ってるよ。自分を見てほしい、自分を大切にしてほしいって思うのは人として当たり前の感情なんだから。その手段として優しさを差し出すやつだっているのも理解できる。もちろんそうじゃないやつもきっといるんだろうな。でも俺に近づいてくるやつはみんなほしいがあった。そんなほしいが見えるたびぞっとした。優しさふりかざせば、その同じ優しさ、いいや、それ以上のなにかを俺も返さないといけないのか? 返さない俺は人としてダメなのか? それって脅迫とどう違うんだって思っていた」
うわー、こいつ歪んでいる。
そう思った。思ったけれど同時に嫌と言うほどわかるとも思った。わかってしまう自分に寒気がした。
私も『ほしい』から優しさを振りかざしている。
「優しさにこびてる私はさぞ滑稽だったんでしょうね」
「……なあ、優しくないやつは生きてる価値ないとか思ってんの? 優しさにこびることすらできない俺は下の下?」
「こびなくてももらえるならもらっておけばいいじゃないですか、先輩は」
呟いたが水瀬は無言だ。ぐいぐいと私の腕を引き昇降口まで来た彼は、私のクラスの靴箱の前で私を見た。
「佐古さんの靴箱、どこ」
「自分で出すので。手、離してください」
「それは無理。離したら逃げそうだから」
確かに逃げるならこのタイミングがベストだ。言われて自分がさっきから彼の言葉に耳を傾け続けていて彼の手から逃げ出す努力をしていなかったことに今頃気がついた。
「逃げませんから。逃げずに一緒に行きますから」
水瀬が疑わしそうに目を細める。その彼を見上げ、私はため息交じりに言った。
「どのみち先輩には人質を取られているので。脅迫に屈するしかないです」
「脅迫」
呟いてから水瀬はついと目を逸らした。そうだね、と続けた彼の声は乾いていた。



