水瀬零を神様にしようと思った理由は単純なものだ。
彼が完璧だったから。
彼は世界中から愛されて見えた。弓道部で全国大会にも出る彼は学校中から期待されていて、彼の名前を知らない者なんていなかった。しかも勉強もできたし、性格も穏やかで彼が声を荒らげたところを見た人間もまたただのひとりもいなかったに違いない。一分の隙もない完璧人間。特徴そのままに真面目さんと呼ばれるような私の顔でさえ、月に一度の委員会で一緒というだけで覚えて、廊下ですれ違うと挨拶してくる。
気持ち悪かった。
大根みたいにどこを切っても真っ白な人間。塩水につけておかないとあっと言う間に醜く黒ずんでいくりんごみたいに、定期的に対処しなければすぐ全身が真っ黒に変色する私とは違い、苦もなく白さを保っていられる人。見ていて気分が悪くて仕方なかった。
でも手紙を取り上げて、じゃあね、と笑った彼は大根ではなかった。
少しだけ、りんごのように、見えた。
気持ち悪いし怖かった。それでもそのままにはしておけなくて弓道場の外でこっそりと彼を見張った。
生垣の切れたところから窺うと部活の様子が少しだけ見えた。道着を着て的を見つめる彼には笑顔はなくて、その笑顔のなさは表情が陥没して無になったあのときの彼に近いものに思えた。
「待ち伏せとか、佐古さん、俺のこと本当に嫌いなんだね」
部活が終わり、弓道場から出てきた彼は、嫌いが好きに聞こえるような声音で言い、ぽんぽん、と通学バッグを叩いた。
「大丈夫。君からの熱烈な祈願書はちゃんとここに収めてあるから。心配しなくても誰にも見せてないし話してもいない。話す気もない」
安心して。
にっこりとまた笑われたけれど、安心なんてできるわけがなかった。
「誰にも言わないなら持っている必要もないと思うので返してもらっていいですか」
なんとか声を絞り出すと、水瀬はあっけらかんと、だめ、と答えた。
「俺宛の手紙だし」
「先輩宛ではなく。あれは」
神様宛だ。
汚いものを全部押し付けてもいい、「神様」宛だ。
「訊きたいんだけど、君は俺になにかしてほしいことある?」
そんなの、決まっている。
「手紙を返してほしいです」
「ああ、違う。訊き方を間違えた。手紙を返す以外で俺になにかしてほしいことある?」
質問の意図がわからない。私は顔を歪めて首を振った。
「なにもないです。手紙を返してほしいだけです」
そう言ったとたん、なぜか水瀬が笑い出した。
「今日は蒸し暑い。アイスを食べて帰ろうか。佐古さん」
アイスという食べ物がとてつもなくエグい食べ物に思える。
こんなわけのわからない人とは関わらない方が本当はいいに違いない。けれど彼の鞄には私の祈りが捕まったままだ。
自転車通学の彼は自転車を押して私の横を歩く。車輪が回るからからという音を間に挟みながら彼は淡々と言った。
「俺の前に神様だった人はいた?」
「……なんの目的でそれを訊くんですか」
「言ったと思うけど。君のこと好きになってきてしまったので知りたいって」
本当にこの男は一体どういう思考回路をしているのだろう。間に自転車があってくれて心底良かった。近くを歩いていて万が一にも体温を感じてしまったら総毛立ってしまいそうだ。
「そんな地底人を見るみたいな目するなって」
そんな風に水瀬は言ったけれど、声音には少しも不快感は滲んでいなくて私を落ち着かなくさせた。
「気持ち悪くないんですか。私のこと」
「気持ち悪いことをしているという自覚はあるの? 君は」
問われて私は言葉に詰まった。
水瀬は白けた目でこちらを見やってからのんびりと言った。
「他人への嘲りを同情装った蔑んだ言葉にして別の嫌いな相手向けの手紙にして書く。それにどんな意味があるのか、俺にはまったくわからなかったんだけど、普段の君を見ていたらさ、なんかわかるような気もしてきたんだよ」
佐古さん、と水瀬がくっきりした声で私の名前を呼ぶ。とっさに正面から彼の顔を見て気づく。さっきまで浮かんでいた笑みが彼の唇から消えていた。
「君は俺が嫌いだよね?」
確認された瞬間、条件反射のように私は首を横に振っていた。
「嫌いじゃないです」
水瀬は私の答えを黙って聴いた後、くすりと笑った。
「神様になりたいのは君なんだね、多分」
「……なりたくないです」
この人はなんなのだろう。語る言葉全部意味深で得体が知れない。本当に地底人みたいで、ずっと一緒にいると引きずり込まれそうだ。
「先輩のこと嫌いとかそういうのは、ないです。どんな人にもみんな良いところがあるし、先輩だって素敵だと思います」
顔を見ているだけで不安でたまらなくなる。自分を揺るがされそうでいたたまれなくなる。だから必死で口を動かした。佐古優香。優の文字を持つ自分にふさわしい顔で私は訴える。
「先輩は誤解されていますけど、あの手紙だって悪口ではないです。私は願っているだけです。みんな幸せでほかほかでいてほしいから」
「……ほんと聖人君子みたいだね。言葉だけは」
言葉だけは。付け足されたそれがぐさりと私の胸に刺さった。
「別に聖人君子を気取っているつもりはないです」
少し声が上ずった。動揺するな、動揺するな。念じる声が手の力になって鞄の持ち手に食い込んだ。
「みんなが笑顔でいられるのが一番だって、私はいつだって思っているから」
そう言い切ったとたんだった。隣を歩いていた水瀬が噴き出した。
「なんですか」
「いや、だって」
水瀬は肩を揺らして笑いながら私を見下ろして首を傾げた。
「今時、ロボットだってもう少し感情のこもった言い方できるのに。あれみたいだった。ほら、給湯器がさ、『お風呂が沸きました』って言うじゃん。あれみたいに聞こえて思わず笑っちゃったよ」
ああ、おかしい、と言いながら水瀬は自転車を押して歩いていく。じりじりと頬が熱を持つのがわかって私は俯く。足を止めた私を、佐古さん、と水瀬が呼んだ。
「エナジーバンパイアだよね。君は」
「……この間もそれ言われましたけど、意味わからないです」
「エナジーバンパイアってさ、マイナスなことを言ったりしたりして人の気を引いて相手からエネルギーを奪おうとする人のこと。相手を否定して自分が優位に立つことで元気になろうとかさ、不幸話を鬼のようにして同情させようとか、悪口を言いまわってすっきりする、とかね。そういうの。一緒にいると疲れるタイプの人」
「……私がそうだって言うんですか? 私は誰にもそんなことをしません」
「まあ、確かにひとりで閉じてはいるね。けどそうだなあ、君の場合、新種かも」
だってさ、と水瀬は含み笑う。
「人への悪意を願いなんて言葉でごまかして、人の思いを汚いもののように扱うことで優位に立って心の平穏を得ようとしている。俺にはそう見える。それって立派なエナジーバンパイアだよ」
日が落ちて街灯が点き始める。ばちん、と音がしたのは、点いた街灯に虫が突進した音だったのか。あるいはそれは私自身の心が弾けた音だったか。
「だったら……先輩だってそうじゃないですか」
声が震えた。数メートル先へ進んでいた彼を足早に追いかけ彼の隣に並ぶ。自転車を挟んで水瀬がこちらを見た。その彼を私は睨みつけて怒鳴った。
「わけわからないことばっかり言って私からエネルギー吸い取ろうとしているみたいに見えます。一体なんなんですか? いつだって幸せそうな顔で人に囲まれている先輩がそんなことをするのは正義感ですか? それとも」
それともそうやって悪いものを定期的に見据えることでバランスでも取っているんですか?
私みたいに。
言いかけてぎりぎりで私は口を閉じる。けれどざばりざばりと心の内を抉る荒波が収まらない。
どこを切っても真っ白な大根。その大根をめちゃくちゃに踏みつぶしてやりたい。地面をひそかに蹴りつけたとき、ふふ、と水瀬が小さく笑い声を漏らした。
「ああ、やっぱり佐古さんは最高だ。本当に心の底から嫌いでいてくれる」
そう言って水瀬は自転車のハンドルの上に肘を乗せるようにしてこちらに体を傾けてきた。モノトーンの制服をまとった背の高い彼が近づくと、夜の闇がそのまま迫ってくるみたいに見えて私は瞬間的に体を彼とは逆方向へ倒して距離を取る。その私の様子を眺めてから、水瀬は囁き声で言った。
「アイス、おごるから。おいで」
アイスなんていらない。拒絶の声を上げようとした私の目の前で彼はぽんぽん、とバッグを叩く。脅しみたいに。
顔をひきつらせた私に向かい、水瀬はちらりと歪んだ笑みを閃かせてから自転車を押して歩き出す。からからという車輪の音にそのとき、声が混じった。
「良かった、本当に」
彼が完璧だったから。
彼は世界中から愛されて見えた。弓道部で全国大会にも出る彼は学校中から期待されていて、彼の名前を知らない者なんていなかった。しかも勉強もできたし、性格も穏やかで彼が声を荒らげたところを見た人間もまたただのひとりもいなかったに違いない。一分の隙もない完璧人間。特徴そのままに真面目さんと呼ばれるような私の顔でさえ、月に一度の委員会で一緒というだけで覚えて、廊下ですれ違うと挨拶してくる。
気持ち悪かった。
大根みたいにどこを切っても真っ白な人間。塩水につけておかないとあっと言う間に醜く黒ずんでいくりんごみたいに、定期的に対処しなければすぐ全身が真っ黒に変色する私とは違い、苦もなく白さを保っていられる人。見ていて気分が悪くて仕方なかった。
でも手紙を取り上げて、じゃあね、と笑った彼は大根ではなかった。
少しだけ、りんごのように、見えた。
気持ち悪いし怖かった。それでもそのままにはしておけなくて弓道場の外でこっそりと彼を見張った。
生垣の切れたところから窺うと部活の様子が少しだけ見えた。道着を着て的を見つめる彼には笑顔はなくて、その笑顔のなさは表情が陥没して無になったあのときの彼に近いものに思えた。
「待ち伏せとか、佐古さん、俺のこと本当に嫌いなんだね」
部活が終わり、弓道場から出てきた彼は、嫌いが好きに聞こえるような声音で言い、ぽんぽん、と通学バッグを叩いた。
「大丈夫。君からの熱烈な祈願書はちゃんとここに収めてあるから。心配しなくても誰にも見せてないし話してもいない。話す気もない」
安心して。
にっこりとまた笑われたけれど、安心なんてできるわけがなかった。
「誰にも言わないなら持っている必要もないと思うので返してもらっていいですか」
なんとか声を絞り出すと、水瀬はあっけらかんと、だめ、と答えた。
「俺宛の手紙だし」
「先輩宛ではなく。あれは」
神様宛だ。
汚いものを全部押し付けてもいい、「神様」宛だ。
「訊きたいんだけど、君は俺になにかしてほしいことある?」
そんなの、決まっている。
「手紙を返してほしいです」
「ああ、違う。訊き方を間違えた。手紙を返す以外で俺になにかしてほしいことある?」
質問の意図がわからない。私は顔を歪めて首を振った。
「なにもないです。手紙を返してほしいだけです」
そう言ったとたん、なぜか水瀬が笑い出した。
「今日は蒸し暑い。アイスを食べて帰ろうか。佐古さん」
アイスという食べ物がとてつもなくエグい食べ物に思える。
こんなわけのわからない人とは関わらない方が本当はいいに違いない。けれど彼の鞄には私の祈りが捕まったままだ。
自転車通学の彼は自転車を押して私の横を歩く。車輪が回るからからという音を間に挟みながら彼は淡々と言った。
「俺の前に神様だった人はいた?」
「……なんの目的でそれを訊くんですか」
「言ったと思うけど。君のこと好きになってきてしまったので知りたいって」
本当にこの男は一体どういう思考回路をしているのだろう。間に自転車があってくれて心底良かった。近くを歩いていて万が一にも体温を感じてしまったら総毛立ってしまいそうだ。
「そんな地底人を見るみたいな目するなって」
そんな風に水瀬は言ったけれど、声音には少しも不快感は滲んでいなくて私を落ち着かなくさせた。
「気持ち悪くないんですか。私のこと」
「気持ち悪いことをしているという自覚はあるの? 君は」
問われて私は言葉に詰まった。
水瀬は白けた目でこちらを見やってからのんびりと言った。
「他人への嘲りを同情装った蔑んだ言葉にして別の嫌いな相手向けの手紙にして書く。それにどんな意味があるのか、俺にはまったくわからなかったんだけど、普段の君を見ていたらさ、なんかわかるような気もしてきたんだよ」
佐古さん、と水瀬がくっきりした声で私の名前を呼ぶ。とっさに正面から彼の顔を見て気づく。さっきまで浮かんでいた笑みが彼の唇から消えていた。
「君は俺が嫌いだよね?」
確認された瞬間、条件反射のように私は首を横に振っていた。
「嫌いじゃないです」
水瀬は私の答えを黙って聴いた後、くすりと笑った。
「神様になりたいのは君なんだね、多分」
「……なりたくないです」
この人はなんなのだろう。語る言葉全部意味深で得体が知れない。本当に地底人みたいで、ずっと一緒にいると引きずり込まれそうだ。
「先輩のこと嫌いとかそういうのは、ないです。どんな人にもみんな良いところがあるし、先輩だって素敵だと思います」
顔を見ているだけで不安でたまらなくなる。自分を揺るがされそうでいたたまれなくなる。だから必死で口を動かした。佐古優香。優の文字を持つ自分にふさわしい顔で私は訴える。
「先輩は誤解されていますけど、あの手紙だって悪口ではないです。私は願っているだけです。みんな幸せでほかほかでいてほしいから」
「……ほんと聖人君子みたいだね。言葉だけは」
言葉だけは。付け足されたそれがぐさりと私の胸に刺さった。
「別に聖人君子を気取っているつもりはないです」
少し声が上ずった。動揺するな、動揺するな。念じる声が手の力になって鞄の持ち手に食い込んだ。
「みんなが笑顔でいられるのが一番だって、私はいつだって思っているから」
そう言い切ったとたんだった。隣を歩いていた水瀬が噴き出した。
「なんですか」
「いや、だって」
水瀬は肩を揺らして笑いながら私を見下ろして首を傾げた。
「今時、ロボットだってもう少し感情のこもった言い方できるのに。あれみたいだった。ほら、給湯器がさ、『お風呂が沸きました』って言うじゃん。あれみたいに聞こえて思わず笑っちゃったよ」
ああ、おかしい、と言いながら水瀬は自転車を押して歩いていく。じりじりと頬が熱を持つのがわかって私は俯く。足を止めた私を、佐古さん、と水瀬が呼んだ。
「エナジーバンパイアだよね。君は」
「……この間もそれ言われましたけど、意味わからないです」
「エナジーバンパイアってさ、マイナスなことを言ったりしたりして人の気を引いて相手からエネルギーを奪おうとする人のこと。相手を否定して自分が優位に立つことで元気になろうとかさ、不幸話を鬼のようにして同情させようとか、悪口を言いまわってすっきりする、とかね。そういうの。一緒にいると疲れるタイプの人」
「……私がそうだって言うんですか? 私は誰にもそんなことをしません」
「まあ、確かにひとりで閉じてはいるね。けどそうだなあ、君の場合、新種かも」
だってさ、と水瀬は含み笑う。
「人への悪意を願いなんて言葉でごまかして、人の思いを汚いもののように扱うことで優位に立って心の平穏を得ようとしている。俺にはそう見える。それって立派なエナジーバンパイアだよ」
日が落ちて街灯が点き始める。ばちん、と音がしたのは、点いた街灯に虫が突進した音だったのか。あるいはそれは私自身の心が弾けた音だったか。
「だったら……先輩だってそうじゃないですか」
声が震えた。数メートル先へ進んでいた彼を足早に追いかけ彼の隣に並ぶ。自転車を挟んで水瀬がこちらを見た。その彼を私は睨みつけて怒鳴った。
「わけわからないことばっかり言って私からエネルギー吸い取ろうとしているみたいに見えます。一体なんなんですか? いつだって幸せそうな顔で人に囲まれている先輩がそんなことをするのは正義感ですか? それとも」
それともそうやって悪いものを定期的に見据えることでバランスでも取っているんですか?
私みたいに。
言いかけてぎりぎりで私は口を閉じる。けれどざばりざばりと心の内を抉る荒波が収まらない。
どこを切っても真っ白な大根。その大根をめちゃくちゃに踏みつぶしてやりたい。地面をひそかに蹴りつけたとき、ふふ、と水瀬が小さく笑い声を漏らした。
「ああ、やっぱり佐古さんは最高だ。本当に心の底から嫌いでいてくれる」
そう言って水瀬は自転車のハンドルの上に肘を乗せるようにしてこちらに体を傾けてきた。モノトーンの制服をまとった背の高い彼が近づくと、夜の闇がそのまま迫ってくるみたいに見えて私は瞬間的に体を彼とは逆方向へ倒して距離を取る。その私の様子を眺めてから、水瀬は囁き声で言った。
「アイス、おごるから。おいで」
アイスなんていらない。拒絶の声を上げようとした私の目の前で彼はぽんぽん、とバッグを叩く。脅しみたいに。
顔をひきつらせた私に向かい、水瀬はちらりと歪んだ笑みを閃かせてから自転車を押して歩き出す。からからという車輪の音にそのとき、声が混じった。
「良かった、本当に」



