夕日がゆっくりと襲いかかってくる。
 窓際の席で私は机の中のものを手荒く机の上に放りだす。
 ない。やはりなかった。落としたのだろうか。その可能性に気づいたとたん、猛烈にトイレに行きたくなった。つんと体の奧に痛みを覚え、私は唇を引き結んでますます荒々しく机の中を掻きまわす。けれど見つからない。
 落としたとしたらあそこだ。
 慌てふためきながら私は先ほどまでいた生物室へ向かう。まだ部活時間中の今は、校舎全体が大声でがなりたてている時間帯だ。あれが人の目に留まる可能性も高い。
 まったく。自分でも軽率だと思う。長年の習慣ゆえの油断もあったかもしれない。それでも「神様」の名前を書いたあれを落とすなんて。
 そもそも彼を「神様」にしたのが間違いだったのか。いや、彼以外「神様」にふさわしい人なんて思いつかなかったのだから仕方ない。
「あれ、佐古(さこ)さん? どうしたの? 慌てて」
 廊下の途中で同じクラスの櫻井(さくらい)さんに声をかけられ、私は足を止める。別に好きでも嫌いでもない子。しかも今は激しく急いでいる。あんたに構っている場合じゃないんですけど、と出合い頭に辻斬りしたいくらい苛立って言い返そうかと思った。でも私はそうしない。

 どんな相手にも誠意と愛を持たなければならない。
 人を不快にしてはいけない。
 人に悪意を抱いてはいけない。
 人に向かって悪い言葉を吐き出してはいけない。
 もしも心に黒雲が浮かんでしまったら、その雲にはコンクリートブロックをつけて海の底へ深く深く沈めなければならない。

 幼いころから心の襞にモーゼの十戒みたいに刻んでいる戒めを、ひっそりと脳内で念じつつ、私は微笑む。
「委員会出たときに忘れ物しちゃっただけ。気にしてくれてありがとう」
 優しく見える完璧な笑顔を、鏡の前で練習したそのままに再現して言うと、櫻井さんは目をぱちぱちさせた。
「え! 佐古さんみたいな真面目さんでも忘れ物することあるんだね」
 なにそれ。誉め言葉のつもり?
 沈めたブロックが浮き上がりそうだ。私は笑みを深くする。
「櫻井さんは部活?」
「あ、うん。そうなんだけどね」
 言いながら彼女はちらっと周りを見回す。
「あのさあ、佐古さんなら口堅いしいいかな……。ちょっと話聞いてほしくて」
 もぞもぞと櫻井さんが両手を動かす。いつもなら応じるけれど今日はそれどころじゃない。
「ごめん、少し急いでいるから明日でもいいかな。大丈夫?」
 気遣いを顔にしっかり滲ませて言うと、櫻井さんは、いいのいいの、と組んでいた手をほどいてひらひらさせた。
「急ぎっていうかもやもやしちゃっただけだから」
「明日聞くよ。ごめんね、本当に」
 できるだけ丁寧に言う。櫻井さんは、うん、と頷いて、またね、と手を振って去っていく。

 まったく。
 まったくまったく。
 真面目さんってなに。その呼び方むかつくんだってわかんないのかな。
 そもそも自分の感情くらい自分で上手に処理してよ。なんでもかんでも相談してすっきりしようとするんじゃないよ。こっちはゴミ箱じゃないんだっつーの。

 ぷくぷくと沈めたコンクリートブロックが再び水中で揺らぐ。
 いけないいけない。ちゃんと沈めなければ。
 私は深い息を吐いて走り出す。
 立ち止まっている場合じゃなかったのだった。
 あれを、見つけなければ。
 いつも通りの背筋を伸ばした歩き方を放棄し、私は廊下を駆ける。最初から急いでいる顔をもっと演出していればタイムロスもなかったのにと舌打ちをしつつ、沈みゆく太陽によって刻まれた窓の影を大股でまたぎ越える。
 先ほどまで保健委員会が行われていた生物室だが、引き戸の向こうからは声も音も響いてこない。ほっとしつつ私は扉に手をかける。
 からり、と引き戸が引っかかりなく開く。でも私は入り口のラインを越えて室内に入ることができなかった。
 窓際の真ん中の席に人影が見えた。
 その人は茜色にどっぷりと染まった教室で手にしたなにかを熱心に読んでいた。
 粘ついた赤に浸されたそれをめくる、ぺらり、ぺらり、という音が私の耳を抉った。

 やめて。
 やめて。

 悲鳴が喉の奥で弾ける。喉から這い上がり口の端に手をかけ、今にも飛び出そうとする。
 でも、私はそれを必死に押しとどめてただ固まっていた。
 そこにいたのは、「神様」だったから。
 重みを思わせる夕焼けの中、ふっと彼が顔を上げる。さらりとした前髪をひょいと流し、彼は私を見た。
「これさあ、佐古さんの忘れ物だよね」
 神様こと水瀬零(みなせれい)はそう言った。いつも通りおっとりと好感以外の思いをこちらに抱かせまいとするみたいな整った微笑を浮かべて。
「これって……なんですか」
 わかっているくせにそう答えた。

 大丈夫。あれには自分の名前を書いていない。言い逃れはまだできる。まだ。

 そろそろと後ずさろうとした私の前で水瀬が不意に立ち上がる。逆光で彼の表情が読めなくなる。ぽこっとそこだけ彼の奥に引っ込んだみたいに、彼の笑顔が見えなくなる。
 ぺたりぺたりと近づいてくる音。顔立ちは綺麗なのに上靴の履き方はだらしない彼の足音が近づいてくる。
「怯えないでよ」
 大多数の人間からは柔らかくて優しいと言われているだろう声と共に手が伸びる。くいと腕を掴まれ、そのまま教室に引き込まれる。と同時に、彼は鮮やかな手つきでからりと引き戸を閉めた。
「これ。佐古さんが書いたんだよね」
 引き戸に背中を押しあてた私に向かい、水瀬は相変わらず逆光に表情を陥没させたまま、私の顔の前で手にしたそれをひらひらと振ってみせた。
「違います」
「佐古さんの筆跡だと思うけど。君、よく書記をしてくれるし。ほら、この『月』の字。払いが異様に長いよね。水、もそうかな。この手紙と一緒」
 言いつつ、水瀬が手にした便箋でまだ消されていなかった黒板の文字を指し示す。黙り込んだ私に向かい、彼はふいっと顔を近づけてきた。
 眼球を容赦なく撫でてくる夕日の色に似た、重い柑橘系のなにかの匂いがした。
「今日、家庭科でクッキー作りがありました。そのとき同じクラスの原内さんが私に言いました。『大田くんにクッキーあげたいんだけど私失敗しちゃったの。佐古さんの少し分けてくれない?』と。確かに焼いてなお吐瀉物みたいな見た目ですし、大田くんももらっても困るでしょう。私は快く分けてあげました。その後、原内さんは言いました。『このこと絶対他の人に言わないでね。大田くんにも絶対内緒でお願いね』。もちろん誰にも言いません。大田くんにはすでに彼女がいてその彼女のクッキーですら、『甘いものは苦手なんだよ』と大田くんが受け取らなかったことも私は言いません。私は口を閉ざします。黙っていろと言われましたし。ただただ可哀想だなあと思うだけです。人のクッキーで好きな人の気を引こうとすることもそうですが、気を引いたとしても逆効果になることも知らないなんて。しかも甘党の私が作ったクッキーは超絶甘い。ああ、本当に可哀想です。神様、水瀬零さま。彼女の恋がどうかどうかうまくいきますように」
 滔々と朗読され、顔の熱が上がるのがわかる。水瀬はぺらぺらと便箋を弄びつつ囁いた。
「これさあ、原内さんの幸せを祈ってる風に締めくくってるけど、どう見ても悪口だよね。それをなんで君は俺宛の手紙にしたためているわけ?」
「……私じゃないです」
「いやいや。無理無理。君のその顔。完全に私が犯人ですって言っちゃってるから」
「夕日のせいです」
「そんな漫画みたいな言い訳はさすがにイタいって。佐古さん、先輩からの質問にはちゃんと答えないと」
 くすくすと水瀬が肩を揺らして笑う。その彼の様子に私は違和感を覚え、重たく作った前髪の下からそうっと彼を窺った。
 普段の彼は……こんな喋り方をしない。だって彼はいつも水みたいにさらりとしていて誰にでも平等で誰にでも優しくて。
 神社の御神木みたいな清浄さを持っている人、それが水瀬零で。
 でも、今私を覗き込んでくる水瀬には清らかさは皆無だ。こちらに落ちてくる彼の声を覆うのは、からめとって離すまいと言いたげな蜘蛛の糸めいた粘つきだけ。
「神様ってなに。これ」
「意味はないです」
「意味がないってことはないだろ。普通、神様なんて称号を委員会が一緒なだけの先輩に付けたりしないと思うけど。ってかさ、君、あっさりゲロっちゃったね。この手紙書いたのが自分だって」
 くっくっと楽しそうに水瀬が喉の奥で笑う。私はすくみあがり、ますますドアに背中を摺り寄せる。残照にその身を焼かれた便箋を、私の目線の高さで彼は上下に揺らしてみせた。
「勘違いしているみたいだけど別に俺は責めてないよ。ただただ面白いだけ。なんだって俺が神様なの? もしかして俺のことが好きとかそういうやつ?」
 なんなんだこの男。
 やっぱりこいつは「神様」だ。
 悪意まみれの泥海にふさわしい、神様だ。
「好きじゃないです」

 むしろ嫌いです。

 直接は言わなかった。心の内を墨汁で塗りたくるみたいに念じただけだった。でも念じた瞬間、ああ、いけない、人を嫌いなんて思ったらいけないと即座に私は自分を否定する。
 人に悪意を持ってはいけない。いつだってまっさらな状態で人を見なければならない。嫌いなものだって痛いものだって。
「ああ、そっか。嫌いなんだね」
 ふっと私の耳に声が落ちる。斜陽が後ずさりし始めた教室の中は、薄青い空気に沈み始める。窓からの強すぎる光がなくなったせいか、引っ込んでいた彼の表情が戻ってきた。
 取り澄ましたいつもの顔で彼は笑う。
「別にいいよ。世界中の人間に好かれたいと思っているわけでもないし、俺を嫌いな人間がいたって当然だから。けれどこれはなかなか面白い嫌われ方だな」
 世界中の人間に好かれたいと思っているわけでもない。
 何気なく発せられた言葉が胸の奥を焼いた。
 やっぱりこいつは「神様」で充分だ。
 手紙を手にしたまま、彼は教室の中ほどへ移動する。そのまま手近な席に腰を下ろす。しげしげと手紙を眺めつつ彼は世間話の続きのように言った。
「人の悪口を嫌いな相手に言う心理ってなに。俺にはまったくわからない」
「……別にわかってもらおうと思ってないですし、そもそも悪口ではないです」
「申し訳ないけれど俺は君のことが好きになってきてしまったので、その辺りぜひ教えてもらいたいんだけど」

 好き?

 こいつは今、好きと言ったのだろうか。顔をしかめると水瀬はまた体を揺らして笑った。
「露骨だな。そもそもさ、俺は君になにをした? 嫌われるようなことはなにもしてないと思うけど。むしろ好かれていると思っていたくらいだ。君、いつも満面の笑みで挨拶してくれてたし……しかしこの手紙を見ると、それも演技ということかな」
 別に演技をしてきたつもりはない。私は常日頃から誠意を心に抱いて歩いてきただけだ。
 誰も不快にさせない。誰をも穏やかな気持ちにさせる。
 まっすぐに相手を見つめて、その感情をしっかりと受け止めて。
 そうしてちゃんと人と接してきたつもりだ。
 この手紙は……その私を作るために必要なもの。
 浮かんでしまった汚いものを拾い集めて、極限まで煮詰めて……まとめて捨てる。
 汚いものは汚いところへ寄せておけばいい。使い終わったナプキンだって腐臭を放つ他の誰かのナプキンと同じ場所に葬る。それと同じ。
 でもこの場合はどうしたらいいだろう。目の前の彼は私の行動に対し、気分を害したのだろうか。だとしたら誠意のある対応というのはどんなものだろう。悩みながら私は頭を下げてみる。
「ごめんなさい」
「なに? なんで謝るの」
 水瀬の声の中から戸惑いが顔を覗かせる。私はそろそろと頭を上げながら補足した。
「不快な思いをさせたと思うので」
 不快、と水瀬が呟く。彼は短いため息をつくと、ぽい、と手にした便箋を机の上に放りだし、気だるげに片肘で頬杖をついた。
「人の悪口を聞かされても別に俺は不快ではない」
「悪口のつもりはないですが、嫌なものですよね。これは愚痴や不満も含んだものに見えますし。そういうのを聞かされるのは嫌なものですよね。重くなるじゃないですか。面倒じゃないですか。うんざりするじゃないですか」
「君はそうなの? それにしては愉しんで書いているようにも思えるけどね、この手紙」
「愉しんでなんてないです。みんな悩んで泣いています。幸せになってほしいって願ってるだけです」
「そうかな?」
 とんとん、と指先で便箋を叩きつつ、水瀬は言った。
「人なんて喜び事よりも禍事のほうが愉しくて当然だろ。友達からの愚痴を愉しんで聞いて愉しんで書く。人間らしいんじゃないの」
「私はそんな人間じゃない!」
 思わず言い返すと、水瀬は目を見張ってこちらを見つめてから、くすりと笑った。
「いや、そういう人間でしょ。まあまあの最低ぶりが俺には心地よくすらあるよ」
 言いながら水瀬は手紙を今一度掬い上げる。折り目通りに丁寧に畳み、彼はそれを上着のポケットに仕舞った。そのまま席を立ち、教室を出て行こうとする。
「返してください」
 彼の腕を掴もうとして私は躊躇する。中途半端に浮いた私の腕を冷めた目で見下ろし、水瀬は言った。
「エナジーバンパイアって知ってる?」
 問われた意味がわからなくて固まる。水瀬は楽しそうにこちらを見下ろしてから、じゃあまたね、と笑って教室を出て行った。
 私からの祈りの手紙を人質にしたまま。