「玄侑さま、少し宜しいですか」
自室に戻ろうとする玄侑を、鷹宵が呼び止める。無言で振り向く主に、鷹宵は確認するように問うた。
「香月さまから印の所為ではない、黒の気配がしましたね。彼女には、なにか細工が施されいてるのですか?」
鷹宵に確認されて、玄侑は感情を載せないまま応える。
「奴が細工を施したようだ。彼女はおおよそ十六、七……、といったところか……。時期的には合致する」
思案する様子の玄侑の言葉に、鷹宵はふむ、と頷く。
「であれば、あれは、玄侑さまが手に入れられた香月さまを潰しに来るやもしれませんね。玄侑さまは、それでも宜しかったので?」
深慮をみせた鷹宵に、玄侑はやはり感情を載せずに応じた。
「そうならなければ、良いのだろう? 何故、印をつけたと思っている」
「愚問でした」
こうべを垂れる鷹宵に、玄侑は背を向け、襖の向こうに消える。鷹宵は、さて、と袂に手を差し込み、腕組みをした。
「……であれば、香月さまには玄侑さまのお力について、知って頂かなくてはなりませんね……。しかし、人間である香月さまがそれをどう思われるか……。玄侑さまはお辛い立場だ」
主を思う表情で、鷹宵は一人ごちる。彼にとって大切なのは玄侑ただ一人であり、そのほかの存在は、たとえ夜斗といえど、重要ではない、と思っている。面倒にならなければ良いが、と、鷹宵は嘆息した。
「いかがですか、夜斗の腕前は!」
夜斗に着衣を着替えさせてもらった香月は、姿見に写る自分の姿を見て呆けた。椿油で梳かしてもらったおかげで長い髪が傷んだ様子も分からないし、唇に添えた紅はそれだけで香月の顔の印象を明るくする。黒地の着物は香月を楚々と見せるが、しかし鈴模様を描く金と同色で刺された七宝文様の半襟は香月の顔周りを華やかに見せていた。擦り切れた着物を着たぼろ雑巾のような何時もの香月は、何処にもいなかった。
夜斗は香月の後ろに控えながら、鏡を見ている香月の様子を窺っているようだった。どこか期待に満ちた、しかし一抹の不安を載せた目の色をしている。
「あの……、素敵にして頂き、ありがとうございます……」
まだ姿見に映る己の姿を自分だと認識できず、戸惑いつつそう言うと。夜斗はやや眉をひそめた。
「……お気に召しませんでしたか……?」
どうやら香月の戸惑いが、違うように取られてしまったらしい。これは訂正しなければならない。
「とんでもないです! あの……、自分ではないような気がして……」
顔の前で両手を開いて左右に振ると、夜斗は香月の戸惑いの理由を理解し、香月の肩に手を置いて、もう一度鏡に向かい合わせてくれた。
「とんでもない、はこちらの台詞です、香月さま。香月さまのお顔立ちはとても美しいです。お目はまあるくていらっしゃるし、小鼻がきゅっとまとまってる。眉は柳の葉のようにやさしさを醸し出しておられますし、お口は舟のような曲線でとても印象がよろしいです。お召し替えし甲斐がありました」
にこにこと微笑む夜斗に、何と応えたらよいものか。そう考えていると、部屋の外から声が掛かった。鷹宵の声だ。
「お召し替えはお済みですか? 屋敷を案内いたしますが」
「は、はい」
慌てて香月が応じると、襖があいて鷹宵がやや目を瞠り、着替えた香月を上から下へと眺め見た。
「……その着物は、夜斗が?」
「いえ、私が選びました」
夜斗の制止を強引に言い推したのは、香月だ。夜斗に迷惑が掛からないよう、それだけははっきりと言う。鷹宵は、そうですか、と頷いて、香月を部屋の外へ促した。艶やかな廊下で続く屋敷の中を、鷹宵は丁寧に説明した。
母屋には鷹宵や夜斗の部屋の他にも幾つも部屋があるようで、その数の多さに驚いてしまう。玄侑にここに連れてきてもらった時に感じた屋敷の大きさなら、この部屋数もさもありなんというところだが、しかしそれにしては居住している人物とはすれ違わない。もしやこの大きな屋敷に、玄侑たち三人だけで暮らしているのだろうか。
そんな疑問を持ちながら香月が先を行く鷹宵の背を見ていると、彼はふと香月を振り返った。
「成程、玄侑さまが印をお付けになるわけです。あなたさまの御身から、大きな力を感じます」
「力……、とは……」
やはり妖魔の気配のことだろうか。鷹宵にそう訊ねると、彼は微笑みを崩さずに、違いますよ、と、香月の不安を否定してくれた。
「あなたさまの持つ、その秘めたるお力のことです。玄侑さまを救っていただける、そのお力」
「救う……?」
鷹宵は静かに頷く。
「玄侑さまの黒の気をご覧になられましたか?」
桔梗が触れた時の、あれだ。妖気によく似ていて、疑問だった。鷹宵が言葉を発するときに眉宇を寄せたので、慎重に頷くと、鷹宵は怒ることなく香月の首肯を受け入れた。
「玄侑さまはそのことについて、ご自身を悔いて呪っておられる……。それを救っていただけるのが、香月さまのそのお力なのです」
成程。詳細は分からないが、玄侑が香月に力を貸してほしいと言ったのは、大まかにそう言う理由なのだと、香月は理解した。
「どのようにしたら、玄侑さまのお力になれますか……? 玄侑さまは、私に親切にしてくださった、初めての方なのです」
物心ついてから今日まで、香月に向けられる視線は酷く冷たい拒否のそれだった。損得勘定とはいえ、あのように真摯な眼差しを向けられたことは初めてだった。夜闇を駆けてきた香月にとって、否定の色がない眼(まなこ)は、それだけ光が満ちたような気持ちになれた。
半ば必死に、香月は鷹宵に聞いた。鷹宵はそんな香月を邪険に扱うことなく、温顔にたがわぬ落ち着いた口調で答えてくれた。
「そうですね。それでしたら」
鷹宵が言葉を続けようとしたところに、玄侑が音もなく姿を現した。
「そのようにペラペラと無駄口を叩くな。鷹宵」
声に振り向くと、玄侑は不快そうな顔をして香月たちを見ていた。香月は玄侑に向き直り、頭を下げる。一方の鷹宵は微笑みを崩さぬまま玄侑に、そのような怖いお顔をされますと、香月さまに怖がられますよ、と注意した。
「香月がどう思おうが、俺の関知するところではない。他者になにかを押し付けられることほど嫌なことはあるまい。それでなくとも彼女とはひとつ交渉が成立している。これ以上を求めるつもりはない」
憮然とした様子で言う玄侑の言葉は、しかし香月にやさしかった。香月は再び、頭を下げた。
「過分なご配慮、ありがとうございます……。ですが、傷を癒して頂いただけでなく、玄侑さまとお約束をいたしました。お力になれることでしたら、なんなりとお申し付けください」
「軽々しいことを言うな。俺が君に要求することは、君の身に負担を生じさせる。それ以外に君に何かを要求しようとは思わない」
そっけない言い方だが、端々に香月を気遣う言葉がちりばめられていて、この神さまはその言動でいくらか損をしているのではないだろうか、と思ってしまう。冬の夜空に浮かぶ凍てついた月のような風貌よりも、そこに宿る確かな彼の人格を認めて、香月は口の端(は)を緩めた。
「……何がおかしい」
ふと、微笑んだのを見咎められて、香月はこうべを垂れた。香月が玄侑に対してどんな感想を持とうが、彼は神であり、香月は人間。畏怖と畏敬の気持ちを忘れてはいけなかった。
「申し訳ございませんでした」
頭を低くし、謝罪する。玄侑はしかし、表情を変えぬまま香月を見た。
「何に対して、謝っている」
「え……」
「俺は、何がおかしかったのか、と聞いた。問いに謝罪で応えるのが、人間なのか」
香月はぽかんと目の前の神さまを見つめた。家で香月に求められていたことは、逆らわないこと、妖魔に身を差し出すこと、そして家族を不快にさせないことだった。故に香月の口からは、簡単に謝罪の言葉が滑り出るようになっている。着替えをするときに夜斗に意見したことの方が、香月にとっては意思を奮い立たせる必要のある行動だった。
「い……、いえ……、あの……」
戸惑う。畏敬をもって崇めるべき神に向かって、こんなことを言ってもいいのだろうか。しかし玄侑は香月の目を宵闇のような黒の瞳でじっと見つめており、返答しない、という選択肢はありえなかった。腹に力を入れて、恐る恐る口を開く。
「げ、玄侑さまは、おやさしいな、と……、思ったのでございます。それが、嬉しかったのです……」



