*
そういう出来事があって、香月は青年――黒神――が自分を連れて家族の前に立った時も、言葉を発しなかった。ただ家族からの、死んだはずなのに、という言葉に、自分は本当に家族にとって疎んじられた存在だったのだ、と心を暗くした。必死に妖魔の前に身を投じていた日々は何だったのか。家族の役に立っていたのではなかったのか。そういう痛苦が胸の中を埋め尽くしていた。
そんな香月を黒神はどう思ったのか、家族を一蹴した彼は香月を抱いたまま、鏡からこぼれ落ちる光の粒に包まれた。眩しさに目を閉じれば、ふう、と風の通り抜ける感触がし、それにつられて目を開けると、目の前には見たこともない風景が広がっていた。
抜けるような雲一つなく明るい空の色。その下には裾野広く白くそそり立った山が遠方に見え、輝く丸い月を戴いている。月と言っても香月の知る月の明かりとは全く異なり、その月は透明な光で地上をあまねく照らし、香月たちの姿もくっきりと照らしていた。
また、何処からか微かにりん……、りん……、という鈴に似た音が響いており、月の冴えたる明かりにその音(ね)は、とても心が落ち着き、風情があるものだと思った。
そしてそれらを背景に、眼前には荘厳な日本家屋が建っている。蓮平の母屋も香月には大きく感じられたが、この家はその五倍の広さはありそうだ。他にも小屋があるようで、ここには一体何人の人が暮らしているのだろうと思う。さらに家屋を彩るのは萌黄の庭木や今を盛りとばかりに咲き誇る色とりどりの花々だった。視線を下に移せば、滾々と水が湧く池が配されており、天の月を映して、贅をつくした家だと分かる。
「……、…………」
香月がその景色に圧倒されていると、黒神は、どうした、と尋ねた。
「いえ……。光の満ちている景色が初めてだったので……」
香月は妖魔をおびき寄せる餌として蓮平に居た。家から逃げ出るなどの気持ちは毛頭なかったが、それでも父親は香月を狭く暗い牢に閉じ込めて、仕事の時だけ外に出した。曰く、
『お前が不用意に外に出れば、街は妖魔で埋め尽くされる。我が家の強固な結界の中に、お前は居なくてはならない』
とのことで、香月も自分の体質について理解したころから、それは当たり前のことだと思っていた。だから、牢から出るときは夜に限られていたし、光あふれる風景を見たことがなかった。
「景色がはっきりと見えるということは、こんなにも心を動かされるものなのですね……。空も月も、緑も花も、池の水も、蹲踞で跳ねるしずくの一つすらも輝いていて、とても綺麗……」
口元をほころばせ、目を大きく見張って辺りを見ている香月に、黒神は、そうか、と言った。
「これからはここに居ることになるのだから、好きなだけ見たら良い。誰も君がすることを邪魔しない」
黒神の言葉に、香月は初めて彼を仰いだ。先程家族に見せた冷徹な表情とは違い、無表情だが香月を厭っている色はない。彼の様子を認識して、香月が彼の要求に応える限り、それは約束されるのだ、と理解した。
「ではその為に、私は何をしたらよいのでしょうか」
香月は黒神が自分に求めた約束の内容を知ろうと口を開いた。しかしその時、屋敷から人が出てきた。
「おかえりなさいませ、玄侑(げんゆう)さま!」
「お疲れさまです、玄侑さま。無事に神力の付与は出来ましたか? ……おや、そちらのかたは?」
黒神を出迎えに出てきたのは、齢十ほどの外見の少女と、二十四~五の青年だった。彼らの言から、黒神が『玄侑』という名であること知る。黒神――玄侑――は、彼らに対してにこりともせずに、儀式はしなかった、とだけ応えた。
「鷹宵(おうしょう)、この娘に屋敷を案内してやってくれ。夜斗(やと)、香月の着替えを」
夜斗と呼ばれた少女が笑みを湛えて、香月を屋敷の奥へと促した。磨き抜かれた廊下を夜斗に案内されて進めば、いくつもの襖を通り越した先にある部屋に案内される。部屋は新しいイ草の香りがし、飾られてはいないがこの屋敷の主……、つまり玄侑の好みを表しているようにも思えた。
夜斗は部屋にしつらえられている桐の箪笥から着物を出して畳の上に並べ始めた。
「玄侑さまのお色でもありますので、黒の着物しかございませんが、どれも良い品でございます」
並べられた品々は、成程どれも正絹の手触りの良さそうな着物が夜斗の手によってどんどん並べられていく。柄は控えめなものが多いだろうか、桔梗が着ていたような洋風の大柄なものはなく、古くから親しまれてきたやさしい柄のものばかりだ。
だが、それが良い、と香月は思う。自分は桔梗のような華やかな風貌ではないし、そもそも傷んだ紺の絣の着物をずっと着ている。袖口が擦り切れてなかったりするだけ、並べられた着物はどれも香月にとって上等なものだ。
ぼうっと見とれていると夜斗が、お気に召すものはありますか? と笑みを絶やさず問うてきた。
「え……っと……」
選択権を与えられたのは初めてである。玄侑が香月に契約を持ちかけてきた時だって、彼は否を待つ雰囲気ではなかった。今までの生活に至っては、言うまでもない。
夜斗が香月の顔を、じっと見つめている。期待をはらんだ目だ。どれを選ぶことが夜斗にとって良いのだろうか。考えに考えた挙句、香月は弱々しく口を開いた。
「え……、選べません……。どれも、私には過ぎるお品です……」
この屋敷に仕える使用人がここにいたとして、彼らと同等の着物だったらまだ選べた。しかし夜斗が並べたのは、どれも夜斗が身に着けているものよりも上等だ。おそらく玄侑が身に着けているものと同等の。玄侑に拾ってこられたばかりの香月が、そんなものを選べるはずがない。
好意で選ばせてくれようとしている夜斗に申し訳なく思っていると、夜斗は、では私が選んでもよろしゅうございますか、と微笑んだ。
「夜斗の頭を存分にお使いください。玄侑さまがお連れになった香月さまには、その権利があります」
そう言って、夜斗は並べた着物を端から香月に当てていった。桜花文(おうかもん)、乱菊、唐花(からはな)と様々な色柄が香月の体を覆っていく。
「これは少し地味ですね……。こちらは黒が地とはいえ、ちょっと派手派手しいかしら……」
畳に並べ置かれた着物をどんどん香月に当てて、どんどん却下していく。最終的に残ったのは、椿文、秋草の霞取り、扇流しのみっつだった。
「これだけ絞れば、選べますか? 香月さまの自由を奪うわけにはまいりませんからね。こちらからお好きなものをお選びください。どれを選んで頂いても、夜斗の折り紙つきです」
さあどうぞ、と自信たっぷりに夜斗が促す。椿文様の着物は金の縁取りに赤や白の椿が地色の黒に良く映えており、また霞取りの着物は柔らかな風情を感じる逸品だ。扇流しの着物には大輪の菊がちりばめられており、桔梗が着用していた流行り柄の着物よりもよっぽど豪華だ。柄は言うに及ばず、そっと触れるとその上等さが分かり、それだけで腰が引けてしまう。
「え……、えと……」
みっつの着物を見比べる振りをして内心おろおろしていると、ふと目の端に留まった着物があった。並べられた着物よりも若干生地がくたびれているように見受けられる。しかし見ればわかる上質な鈴柄の着物だった。
「……あの、こちらはどのようなお着物でしょうか……」
香月がその着物を指し示して問うと、夜斗はあっ、と気づいたように鈴柄の着物を他の着物に紛れ込ませた。
「これは随分古いものでして、香月さまがお召しになるのには、相応しくないものです」
やや動揺したように、夜斗が言う。しかし香月は夜斗が隠した着物を、体を乗り出して触った。……やはり良いものだ。手に馴染む感じは、この着物の持ち主が、この着物をとても大事にしていた証拠。指先に感じる触感に確信して、香月は夜斗に懇願した。
「ですが、鈴は神事にも使われる、縁起の良い柄だと思います。玄侑さまは神さまで在られますから、お傍に居るのにこの柄は大変相応しいかと思います」
ひた、と夜斗を見つめると、夜斗はうろうろと視線をそらした後、ちらり、と香月を横目で見、そしてかくり、と首を垂れた。大きく零れるは、盛大なため息。
「……分かりました。香月さまは玄侑さまがお連れになったお方。夜斗は玄侑さまをお支えする身ですので、香月さまのお望みをかなえて差し上げるのも、夜斗の役目でしょう」
そう言うと、夜斗はパッと顔を上げ、ドン、と右手で胸を叩くと袂を巻き上げた。
「そうと決まれば、お召し替えいたしましょう。ええ、玄侑さまに文句は言わせません。夜斗の腕を信じてくださいませ!」
そういう出来事があって、香月は青年――黒神――が自分を連れて家族の前に立った時も、言葉を発しなかった。ただ家族からの、死んだはずなのに、という言葉に、自分は本当に家族にとって疎んじられた存在だったのだ、と心を暗くした。必死に妖魔の前に身を投じていた日々は何だったのか。家族の役に立っていたのではなかったのか。そういう痛苦が胸の中を埋め尽くしていた。
そんな香月を黒神はどう思ったのか、家族を一蹴した彼は香月を抱いたまま、鏡からこぼれ落ちる光の粒に包まれた。眩しさに目を閉じれば、ふう、と風の通り抜ける感触がし、それにつられて目を開けると、目の前には見たこともない風景が広がっていた。
抜けるような雲一つなく明るい空の色。その下には裾野広く白くそそり立った山が遠方に見え、輝く丸い月を戴いている。月と言っても香月の知る月の明かりとは全く異なり、その月は透明な光で地上をあまねく照らし、香月たちの姿もくっきりと照らしていた。
また、何処からか微かにりん……、りん……、という鈴に似た音が響いており、月の冴えたる明かりにその音(ね)は、とても心が落ち着き、風情があるものだと思った。
そしてそれらを背景に、眼前には荘厳な日本家屋が建っている。蓮平の母屋も香月には大きく感じられたが、この家はその五倍の広さはありそうだ。他にも小屋があるようで、ここには一体何人の人が暮らしているのだろうと思う。さらに家屋を彩るのは萌黄の庭木や今を盛りとばかりに咲き誇る色とりどりの花々だった。視線を下に移せば、滾々と水が湧く池が配されており、天の月を映して、贅をつくした家だと分かる。
「……、…………」
香月がその景色に圧倒されていると、黒神は、どうした、と尋ねた。
「いえ……。光の満ちている景色が初めてだったので……」
香月は妖魔をおびき寄せる餌として蓮平に居た。家から逃げ出るなどの気持ちは毛頭なかったが、それでも父親は香月を狭く暗い牢に閉じ込めて、仕事の時だけ外に出した。曰く、
『お前が不用意に外に出れば、街は妖魔で埋め尽くされる。我が家の強固な結界の中に、お前は居なくてはならない』
とのことで、香月も自分の体質について理解したころから、それは当たり前のことだと思っていた。だから、牢から出るときは夜に限られていたし、光あふれる風景を見たことがなかった。
「景色がはっきりと見えるということは、こんなにも心を動かされるものなのですね……。空も月も、緑も花も、池の水も、蹲踞で跳ねるしずくの一つすらも輝いていて、とても綺麗……」
口元をほころばせ、目を大きく見張って辺りを見ている香月に、黒神は、そうか、と言った。
「これからはここに居ることになるのだから、好きなだけ見たら良い。誰も君がすることを邪魔しない」
黒神の言葉に、香月は初めて彼を仰いだ。先程家族に見せた冷徹な表情とは違い、無表情だが香月を厭っている色はない。彼の様子を認識して、香月が彼の要求に応える限り、それは約束されるのだ、と理解した。
「ではその為に、私は何をしたらよいのでしょうか」
香月は黒神が自分に求めた約束の内容を知ろうと口を開いた。しかしその時、屋敷から人が出てきた。
「おかえりなさいませ、玄侑(げんゆう)さま!」
「お疲れさまです、玄侑さま。無事に神力の付与は出来ましたか? ……おや、そちらのかたは?」
黒神を出迎えに出てきたのは、齢十ほどの外見の少女と、二十四~五の青年だった。彼らの言から、黒神が『玄侑』という名であること知る。黒神――玄侑――は、彼らに対してにこりともせずに、儀式はしなかった、とだけ応えた。
「鷹宵(おうしょう)、この娘に屋敷を案内してやってくれ。夜斗(やと)、香月の着替えを」
夜斗と呼ばれた少女が笑みを湛えて、香月を屋敷の奥へと促した。磨き抜かれた廊下を夜斗に案内されて進めば、いくつもの襖を通り越した先にある部屋に案内される。部屋は新しいイ草の香りがし、飾られてはいないがこの屋敷の主……、つまり玄侑の好みを表しているようにも思えた。
夜斗は部屋にしつらえられている桐の箪笥から着物を出して畳の上に並べ始めた。
「玄侑さまのお色でもありますので、黒の着物しかございませんが、どれも良い品でございます」
並べられた品々は、成程どれも正絹の手触りの良さそうな着物が夜斗の手によってどんどん並べられていく。柄は控えめなものが多いだろうか、桔梗が着ていたような洋風の大柄なものはなく、古くから親しまれてきたやさしい柄のものばかりだ。
だが、それが良い、と香月は思う。自分は桔梗のような華やかな風貌ではないし、そもそも傷んだ紺の絣の着物をずっと着ている。袖口が擦り切れてなかったりするだけ、並べられた着物はどれも香月にとって上等なものだ。
ぼうっと見とれていると夜斗が、お気に召すものはありますか? と笑みを絶やさず問うてきた。
「え……っと……」
選択権を与えられたのは初めてである。玄侑が香月に契約を持ちかけてきた時だって、彼は否を待つ雰囲気ではなかった。今までの生活に至っては、言うまでもない。
夜斗が香月の顔を、じっと見つめている。期待をはらんだ目だ。どれを選ぶことが夜斗にとって良いのだろうか。考えに考えた挙句、香月は弱々しく口を開いた。
「え……、選べません……。どれも、私には過ぎるお品です……」
この屋敷に仕える使用人がここにいたとして、彼らと同等の着物だったらまだ選べた。しかし夜斗が並べたのは、どれも夜斗が身に着けているものよりも上等だ。おそらく玄侑が身に着けているものと同等の。玄侑に拾ってこられたばかりの香月が、そんなものを選べるはずがない。
好意で選ばせてくれようとしている夜斗に申し訳なく思っていると、夜斗は、では私が選んでもよろしゅうございますか、と微笑んだ。
「夜斗の頭を存分にお使いください。玄侑さまがお連れになった香月さまには、その権利があります」
そう言って、夜斗は並べた着物を端から香月に当てていった。桜花文(おうかもん)、乱菊、唐花(からはな)と様々な色柄が香月の体を覆っていく。
「これは少し地味ですね……。こちらは黒が地とはいえ、ちょっと派手派手しいかしら……」
畳に並べ置かれた着物をどんどん香月に当てて、どんどん却下していく。最終的に残ったのは、椿文、秋草の霞取り、扇流しのみっつだった。
「これだけ絞れば、選べますか? 香月さまの自由を奪うわけにはまいりませんからね。こちらからお好きなものをお選びください。どれを選んで頂いても、夜斗の折り紙つきです」
さあどうぞ、と自信たっぷりに夜斗が促す。椿文様の着物は金の縁取りに赤や白の椿が地色の黒に良く映えており、また霞取りの着物は柔らかな風情を感じる逸品だ。扇流しの着物には大輪の菊がちりばめられており、桔梗が着用していた流行り柄の着物よりもよっぽど豪華だ。柄は言うに及ばず、そっと触れるとその上等さが分かり、それだけで腰が引けてしまう。
「え……、えと……」
みっつの着物を見比べる振りをして内心おろおろしていると、ふと目の端に留まった着物があった。並べられた着物よりも若干生地がくたびれているように見受けられる。しかし見ればわかる上質な鈴柄の着物だった。
「……あの、こちらはどのようなお着物でしょうか……」
香月がその着物を指し示して問うと、夜斗はあっ、と気づいたように鈴柄の着物を他の着物に紛れ込ませた。
「これは随分古いものでして、香月さまがお召しになるのには、相応しくないものです」
やや動揺したように、夜斗が言う。しかし香月は夜斗が隠した着物を、体を乗り出して触った。……やはり良いものだ。手に馴染む感じは、この着物の持ち主が、この着物をとても大事にしていた証拠。指先に感じる触感に確信して、香月は夜斗に懇願した。
「ですが、鈴は神事にも使われる、縁起の良い柄だと思います。玄侑さまは神さまで在られますから、お傍に居るのにこの柄は大変相応しいかと思います」
ひた、と夜斗を見つめると、夜斗はうろうろと視線をそらした後、ちらり、と香月を横目で見、そしてかくり、と首を垂れた。大きく零れるは、盛大なため息。
「……分かりました。香月さまは玄侑さまがお連れになったお方。夜斗は玄侑さまをお支えする身ですので、香月さまのお望みをかなえて差し上げるのも、夜斗の役目でしょう」
そう言うと、夜斗はパッと顔を上げ、ドン、と右手で胸を叩くと袂を巻き上げた。
「そうと決まれば、お召し替えいたしましょう。ええ、玄侑さまに文句は言わせません。夜斗の腕を信じてくださいませ!」



