*
ざわり、と屋敷の外の木々が揺れた。穏やかな神世にしては、珍しいことである。朝食を食べた後のこの時間、玄侑は白陽の薬を飲み、私室で休んでいる。彼の体調の回復にどれくらい掛かるのか、香月はもちろん見当も付かないし、夜斗もまたその答えを持っていなかった。
先の見通せない時間など、蓮平に居た頃は毎日のことだったのに、神世に来てから玄侑に目標を与えられ、鷹宵や夜斗にそれを励まされているうちに、香月は未来を思うようになってしまった。それが、いけないのだと思う。玄侑が元通り健やかであり、その傍に、いっときでも長く居たいと思ってしまうことが。
(契約が終わったら、私は玄侑さまのお側に居たらいけない……。だから心を玄侑さまに残していては駄目……)
そう思うのに、彼が香月を欲したあの甘い声が鼓膜に何度も蘇る。静かに其処に立ち、香月を導いてくれる玄侑が、灼熱の炎を纏うが如く香月を求めてくれた事実に、身も心も委ねてしまいたい衝動が波のように何度も押し寄せてくる。
大きく小さく香月の理性を打ち砕こうとするそれに対して脚を踏ん張ることは、とても難しいことだった。香月の想いは玄侑にとって良くないと分かっていたから、白陽にも、言わない、と言ったのに、自分の言葉に責任が持てないなんて。そんなこと、玄侑の姿を見ていたら出来ない筈なのに……。
(私はなんて弱いんだろう……。でも、心は弱くとも、行いは正しくありたい……)
せめて、そうあることが、玄侑に返せる全てだと思う。そうだと思うのに、思う傍から甘やかで蜜のようなとろりとした彼の声音が蘇って、また香月の気持ちを震わせる。
(駄目よ、駄目……。我慢をして、香月……。これ以上玄侑さまにご負担を掛けては駄目……)
打ち消せない願望を、何とかして堪えようとする。頭の中では感情と理性が表裏を翻し続け、気持ちがすり減っていく感覚がした。
希望を抱くとき、それを喪う闇が足下にある。日々忙しくしていたら気がつかなかったそれに、香月は捕らわれないよう必死でもがく。何処からか、やさしい声がした。
『かわいそうに』
(かわいそう?)
不意に聞こえた声に思わず反応してしまった。独りで自分を制御しようと踏ん張っていた香月の心に寄り添うような声は、玄侑が鈴鐘への封入を褒めてくれたときのような、労りがあった。
『そんなに我慢をして、何になるの。彼だって君を愛し求めているのに』
声は、香月が思い描きたい未来へ誘(いざな)うようだった。感情が声についていこうとし、理性が踏み留まろうとする。気をしっかり持とうとかぶりを振れば、しゃら、りん、とかんざしが鳴る。ふっ、と気持ちが改まるが、声は更に囁いた。
『君だって、彼と共にある未来を夢見ているんだろう?』
人の声で聞く自分の欲望は、明らかにもうひとつの香月の願望と相容れず、はっきりと、声に対してそれは違う、と思った。玄侑は香月を得るために体に負荷を強いている。玄侑以外が、香月の想いの味方になったって、玄侑に帰る体への負担を解決できるわけもない。それは香月の望むところではないのだ。
(この声を聞いていては駄目だわ……)
これ以上、この声に自分の気持ちを預けてはいけない。声に頷きたい自分を抑えて立ち上がり、意深く辺りを見渡した。しかし部屋の何処を見回しても、勿論香月以外の人は居ない。分かっていることなのに、確認せずには居られなかった。
あのときのように、足下から冷気が這い上がってくるようだった。香月は無意識に脚を動かす。部屋から出て、声から逃れるように。
部屋から廊下へ。廊下から玄関へ。玄関から外へ。外へ出たら、まっすぐ屋敷から遠ざかるように。
りん、りん、と鈴の音がする。せわしなく鳴る音に危機感を募らせるが、あの声が追ってくるような気がして、足を止められなかった。そのとき。
ザッと光が弧を描いて風を斬った。庭木の葉が舞い、その場に落ちる。
「桔梗……」
そこに居たのは、桔梗だった。ぎらりと光る破妖刀を握り、袴にブーツ、豊かな髪をなびかせて彼女はそこに居た。何故、神世に桔梗が……、と驚愕する香月に、彼女は憤怒の形相で怒号した。
「お姉さまがこんなところに居るから!」
ザッと、もう一閃、刀が舞う。人世で妖魔の手から逃れていた容量で、とっさに避けるが、地面に躓く。地に這う香月と、剣を構えて見下ろす桔梗。この場で次の結果は歴然だが、香月は震える声でもう一度呟いた。
「何故……」
その様子に、桔梗が口の端をあげる。
「あら、お姉さま。神世に来たくらいで、お姉さまが忌み嫌われることがなくなるなんて、お考えだったの? じゃあ、私がどうして神世に居るかも、全くおわかりにならないのね。随分と脳天気で、うらやましいわ」
香月の動揺に、桔梗は平静を取り戻したようだった。嘲笑を浮かべながら、獲物をいたぶる捕食動物のような目つきで香月を見る。
「お仲間だと、すっかり思い込んでらしたのよね。でも、あの人は、お姉さまなんて居ない方が良いのですって。それはそうよ。黒の血なんて持っているお姉さまが、神世に居る意味も、ましてや黒神さまに守られる意味も、ないじゃない」
桔梗の言葉に、香月が殺されるかもしれないことを知っていながら、桔梗を神世に連れてきた人が居るのだと知る。
「あの人……、って……」
背に汗が伝う。嫌な動悸が、激しく心の臓を叩く。さく、と庭の草を踏む音がした。そこに居たのは……。
「鷹宵さん……」
静かな目をした鷹宵が、桔梗の後ろにたたずんでいた。彼が腕をゆるりと上に上げると、地面に円形状の黒くて大きな印が描かれた。その印は、玄侑が香月の手のひらに描いた印に、よく似ている。
「玄侑さまにとって悪い要因を、私は排除するのみです」
感情を乗せない……、まるで出会った頃の玄侑のような口調で、鷹宵は言った。そして彼が高く掲げたままの手をひらりと翻すと、ざあ、と円形の縁から黒い膜が立ち上がった。
悪い予感がしてとっさに立ち上がり、その向こうへ逃れようとするが、ドン! と体に堅いものが当たった感覚があった。黒い膜で庭の向こう側を見ることが出来なくなり、遮蔽されているのだと気づく。
「……っ!」
振り返って膜を背に、円の中央にいる桔梗を見る。ブーツの底がさくり、と草を踏んだ。
「お姉さまの変な力を全部この刀に吸い取ってしまえば、浩次朗さまだって、私を捨てるなんてしないわ。浩次朗さまだって、利用するものがなければ、利害が一致する私と結婚せざるを得なくなるのよ。そうすれば蓮平は安泰だし、桐谷にだって良い縁談だったと思って貰えるわ」
全く邪気なく、桔梗は鈴を転がすように言う。そしてうっそりと笑い、刀を上段に構えた。神世の月は黒い膜に遮られているはずなのに、刃は煌々と輝く。
「ありがとうございます、お姉さま! 私のために、死んでくださいな!」
死ねと言われて、恐怖していることに気づく。蓮平に居た頃は、いつもそれは隣に居たのに。
ビュッと切っ先が風を切る音がして、刀は振り下ろされる。しかし、ガキン! という音とともに、香月は誰かに抱えられて地面を転がった。
「光るものは、大好きですよ。キラキラしていて、とてもきれい」
背後から発せられた声に振り向くと、そこには桔梗の刀を銜えた夜斗がいた。
「や……、夜斗さん!」
「でも、あなたのなさりようには、反吐が出ますね。相手は丸腰の、しかもごきょうだいでしょうに」
好戦的な目で桔梗を睨み付ける夜斗は、平素の彼女ではなかった。香月が恐れた桔梗を、醸し出す殺意で圧倒する。
「私は玄侑さまの眷属です。玄侑さまのお力になるためでしたら、相打ちだって厭わないですよ」
桔梗だけに向けた言葉なのだろうか。背後から抱えられている香月には、夜斗の言葉の向く先が特定できなかった。
「う……」
進退窮まったかに見えた桔梗が、かすかに呻いた。次の瞬間。
「うるさいわね! 私だって、蓮平がなくなってしまっては、生きていけないのよ!」
地面を蹴って懐から刀を取り出した桔梗が、それを振りかざして香月に覆い被さり、手の印に突き立てようとしたとき。
ガッ! と、金属が何かに当たる音がした。香月の目の前には、豊かな黒髪を結わえた玄侑の背中があった。大きな背にかばわれながら、香月は彼の名を呼ぶ。
「玄侑さま……!」
確か玄侑は薬を飲んで休んでいたはず。体は大丈夫なのだろうか。心配する香月を振り向き、玄侑は笑った。
「来るのが遅れてすまない。夜斗も働いてくれると思ったからだが」
「お体は……!」
気遣う香月に、大事ない、と玄侑は力強く微笑んだ。そしてまなざしを鋭くして、桔梗を見据える。桔梗は懐刀を握ったまま、離していなかった。
「私は間違っていません! だって元はといえば、黒神さまお力を下さらなかったことが発端のはず!」
桔梗は玄侑に噛みつきそうな勢いで叫んだ。しかし玄侑は彼女を見据えたままだ。そしてゆっくりと口を開く。
「お前の愚行、その身で償え」
ざわり、と屋敷の外の木々が揺れた。穏やかな神世にしては、珍しいことである。朝食を食べた後のこの時間、玄侑は白陽の薬を飲み、私室で休んでいる。彼の体調の回復にどれくらい掛かるのか、香月はもちろん見当も付かないし、夜斗もまたその答えを持っていなかった。
先の見通せない時間など、蓮平に居た頃は毎日のことだったのに、神世に来てから玄侑に目標を与えられ、鷹宵や夜斗にそれを励まされているうちに、香月は未来を思うようになってしまった。それが、いけないのだと思う。玄侑が元通り健やかであり、その傍に、いっときでも長く居たいと思ってしまうことが。
(契約が終わったら、私は玄侑さまのお側に居たらいけない……。だから心を玄侑さまに残していては駄目……)
そう思うのに、彼が香月を欲したあの甘い声が鼓膜に何度も蘇る。静かに其処に立ち、香月を導いてくれる玄侑が、灼熱の炎を纏うが如く香月を求めてくれた事実に、身も心も委ねてしまいたい衝動が波のように何度も押し寄せてくる。
大きく小さく香月の理性を打ち砕こうとするそれに対して脚を踏ん張ることは、とても難しいことだった。香月の想いは玄侑にとって良くないと分かっていたから、白陽にも、言わない、と言ったのに、自分の言葉に責任が持てないなんて。そんなこと、玄侑の姿を見ていたら出来ない筈なのに……。
(私はなんて弱いんだろう……。でも、心は弱くとも、行いは正しくありたい……)
せめて、そうあることが、玄侑に返せる全てだと思う。そうだと思うのに、思う傍から甘やかで蜜のようなとろりとした彼の声音が蘇って、また香月の気持ちを震わせる。
(駄目よ、駄目……。我慢をして、香月……。これ以上玄侑さまにご負担を掛けては駄目……)
打ち消せない願望を、何とかして堪えようとする。頭の中では感情と理性が表裏を翻し続け、気持ちがすり減っていく感覚がした。
希望を抱くとき、それを喪う闇が足下にある。日々忙しくしていたら気がつかなかったそれに、香月は捕らわれないよう必死でもがく。何処からか、やさしい声がした。
『かわいそうに』
(かわいそう?)
不意に聞こえた声に思わず反応してしまった。独りで自分を制御しようと踏ん張っていた香月の心に寄り添うような声は、玄侑が鈴鐘への封入を褒めてくれたときのような、労りがあった。
『そんなに我慢をして、何になるの。彼だって君を愛し求めているのに』
声は、香月が思い描きたい未来へ誘(いざな)うようだった。感情が声についていこうとし、理性が踏み留まろうとする。気をしっかり持とうとかぶりを振れば、しゃら、りん、とかんざしが鳴る。ふっ、と気持ちが改まるが、声は更に囁いた。
『君だって、彼と共にある未来を夢見ているんだろう?』
人の声で聞く自分の欲望は、明らかにもうひとつの香月の願望と相容れず、はっきりと、声に対してそれは違う、と思った。玄侑は香月を得るために体に負荷を強いている。玄侑以外が、香月の想いの味方になったって、玄侑に帰る体への負担を解決できるわけもない。それは香月の望むところではないのだ。
(この声を聞いていては駄目だわ……)
これ以上、この声に自分の気持ちを預けてはいけない。声に頷きたい自分を抑えて立ち上がり、意深く辺りを見渡した。しかし部屋の何処を見回しても、勿論香月以外の人は居ない。分かっていることなのに、確認せずには居られなかった。
あのときのように、足下から冷気が這い上がってくるようだった。香月は無意識に脚を動かす。部屋から出て、声から逃れるように。
部屋から廊下へ。廊下から玄関へ。玄関から外へ。外へ出たら、まっすぐ屋敷から遠ざかるように。
りん、りん、と鈴の音がする。せわしなく鳴る音に危機感を募らせるが、あの声が追ってくるような気がして、足を止められなかった。そのとき。
ザッと光が弧を描いて風を斬った。庭木の葉が舞い、その場に落ちる。
「桔梗……」
そこに居たのは、桔梗だった。ぎらりと光る破妖刀を握り、袴にブーツ、豊かな髪をなびかせて彼女はそこに居た。何故、神世に桔梗が……、と驚愕する香月に、彼女は憤怒の形相で怒号した。
「お姉さまがこんなところに居るから!」
ザッと、もう一閃、刀が舞う。人世で妖魔の手から逃れていた容量で、とっさに避けるが、地面に躓く。地に這う香月と、剣を構えて見下ろす桔梗。この場で次の結果は歴然だが、香月は震える声でもう一度呟いた。
「何故……」
その様子に、桔梗が口の端をあげる。
「あら、お姉さま。神世に来たくらいで、お姉さまが忌み嫌われることがなくなるなんて、お考えだったの? じゃあ、私がどうして神世に居るかも、全くおわかりにならないのね。随分と脳天気で、うらやましいわ」
香月の動揺に、桔梗は平静を取り戻したようだった。嘲笑を浮かべながら、獲物をいたぶる捕食動物のような目つきで香月を見る。
「お仲間だと、すっかり思い込んでらしたのよね。でも、あの人は、お姉さまなんて居ない方が良いのですって。それはそうよ。黒の血なんて持っているお姉さまが、神世に居る意味も、ましてや黒神さまに守られる意味も、ないじゃない」
桔梗の言葉に、香月が殺されるかもしれないことを知っていながら、桔梗を神世に連れてきた人が居るのだと知る。
「あの人……、って……」
背に汗が伝う。嫌な動悸が、激しく心の臓を叩く。さく、と庭の草を踏む音がした。そこに居たのは……。
「鷹宵さん……」
静かな目をした鷹宵が、桔梗の後ろにたたずんでいた。彼が腕をゆるりと上に上げると、地面に円形状の黒くて大きな印が描かれた。その印は、玄侑が香月の手のひらに描いた印に、よく似ている。
「玄侑さまにとって悪い要因を、私は排除するのみです」
感情を乗せない……、まるで出会った頃の玄侑のような口調で、鷹宵は言った。そして彼が高く掲げたままの手をひらりと翻すと、ざあ、と円形の縁から黒い膜が立ち上がった。
悪い予感がしてとっさに立ち上がり、その向こうへ逃れようとするが、ドン! と体に堅いものが当たった感覚があった。黒い膜で庭の向こう側を見ることが出来なくなり、遮蔽されているのだと気づく。
「……っ!」
振り返って膜を背に、円の中央にいる桔梗を見る。ブーツの底がさくり、と草を踏んだ。
「お姉さまの変な力を全部この刀に吸い取ってしまえば、浩次朗さまだって、私を捨てるなんてしないわ。浩次朗さまだって、利用するものがなければ、利害が一致する私と結婚せざるを得なくなるのよ。そうすれば蓮平は安泰だし、桐谷にだって良い縁談だったと思って貰えるわ」
全く邪気なく、桔梗は鈴を転がすように言う。そしてうっそりと笑い、刀を上段に構えた。神世の月は黒い膜に遮られているはずなのに、刃は煌々と輝く。
「ありがとうございます、お姉さま! 私のために、死んでくださいな!」
死ねと言われて、恐怖していることに気づく。蓮平に居た頃は、いつもそれは隣に居たのに。
ビュッと切っ先が風を切る音がして、刀は振り下ろされる。しかし、ガキン! という音とともに、香月は誰かに抱えられて地面を転がった。
「光るものは、大好きですよ。キラキラしていて、とてもきれい」
背後から発せられた声に振り向くと、そこには桔梗の刀を銜えた夜斗がいた。
「や……、夜斗さん!」
「でも、あなたのなさりようには、反吐が出ますね。相手は丸腰の、しかもごきょうだいでしょうに」
好戦的な目で桔梗を睨み付ける夜斗は、平素の彼女ではなかった。香月が恐れた桔梗を、醸し出す殺意で圧倒する。
「私は玄侑さまの眷属です。玄侑さまのお力になるためでしたら、相打ちだって厭わないですよ」
桔梗だけに向けた言葉なのだろうか。背後から抱えられている香月には、夜斗の言葉の向く先が特定できなかった。
「う……」
進退窮まったかに見えた桔梗が、かすかに呻いた。次の瞬間。
「うるさいわね! 私だって、蓮平がなくなってしまっては、生きていけないのよ!」
地面を蹴って懐から刀を取り出した桔梗が、それを振りかざして香月に覆い被さり、手の印に突き立てようとしたとき。
ガッ! と、金属が何かに当たる音がした。香月の目の前には、豊かな黒髪を結わえた玄侑の背中があった。大きな背にかばわれながら、香月は彼の名を呼ぶ。
「玄侑さま……!」
確か玄侑は薬を飲んで休んでいたはず。体は大丈夫なのだろうか。心配する香月を振り向き、玄侑は笑った。
「来るのが遅れてすまない。夜斗も働いてくれると思ったからだが」
「お体は……!」
気遣う香月に、大事ない、と玄侑は力強く微笑んだ。そしてまなざしを鋭くして、桔梗を見据える。桔梗は懐刀を握ったまま、離していなかった。
「私は間違っていません! だって元はといえば、黒神さまお力を下さらなかったことが発端のはず!」
桔梗は玄侑に噛みつきそうな勢いで叫んだ。しかし玄侑は彼女を見据えたままだ。そしてゆっくりと口を開く。
「お前の愚行、その身で償え」



