「逆だ。君が俺の贈った品を楽しんでくれたら、俺の気持ちが晴れるではないか。それに夜斗も君に新しい着物をと求めていた。彼女のためにも着てやると良いと思うが」
香月の身なりで玄侑の気持ちが変わるとは思わなかった。パチパチと瞬きをして玄侑を見つめていると、見つめられた玄侑の耳がほんのり赤くなる。そしてゴホンと咳払いをして、なおも言った。
「買い求めたときも言っただろう。俺は君と居ると気分が良い。ただ居てくれるだけでそうなのだから、俺が贈ったもので美しく着飾ってくれたら、より嬉しいと思う」
自分が着飾ることを求められ、加えてそれを嬉しいと思われるなど、夢にも思わなかった。男性からそのようなことを言われるのはもちろん初めてであり、香月の頬に朱が走る。
彼が嬉しいと思ってくれるなら、袖を通してみようか。玄侑の顔と着物を交互に見、逡巡のあげくそう思って、香月は問うた。
「では……、玄侑さまのお見立てのお品を、着てみたい……、と思います。私が装いたいと思うのは、玄侑さまに喜んでいただきたいからですので……」
贈りたいのだ、と玄侑は呉服屋で言った。彼の欲求が香月を喜ばせることにあるのなら、香月だって同じだ。玄侑が心平らかにあること、そして喜びに満ちた時間を過ごしてもらうこと。それが香月の望みだった。
香月の言葉に、玄侑は目をやや見開いた。そして部屋に並べられたたくさんの着物をじっくり見、腕を組んで悩み始めた。眉間にしわを寄せ、口をへの字にするものだから、もしやとても難しいことを要求してしまったのかと困惑した。もちろんその様子に夜斗も口を出すことが出来ず、香月と夜斗はひたすら玄侑が言葉を発するのを待った。
長考の末、玄侑は白地に朱をぼかしたあの着物を指さした。白陽と丹早の色だといい、縁起が良いと言ってくれたものだ。
「色に込められた意味のためだけでなく、やはり君の白い肌に良く映えると思う」
理由を述べた玄侑の耳が、やはり赤く染まっている。肌が白いなどとも、鮮やかな色が映えるなどとも、誰からも言われたことのない言葉を、それも玄侑から言われたことで、香月もとっさに何も言葉を発せず、ただ頬を赤くしてうつむいた。すると、ふ、と息の漏れる音がして、かわいいことをしてくれるな、とやわらかい声が降り注いだ。
「君を、誰の目にも触れないよう、閉じ込めてしまいたくなる。いけないことだと、分かっているから、しないが」
俯いて頬に掛かる髪の毛を長い指で梳き、耳に掛けてくれる。そのままするりと顎に指を滑らせるから、朱に染まった顔を彼に見せることになった。その香月を、やさしい月のような瞳でいとおしそうに見つめてくるから、心臓が走り出してしまって、止まらない。
彼の言葉に、嬉しいと、閉じ込めてくださいと、口にしてしまいそうになる。しかしそれは禁忌の言葉だ。あのとき香月に冷水を浴びせた、あの怪しい声もそれを誘っていた。だから香月から玄侑に求めることはしてはいけない。ピリピリとした直感で、香月はそれを理解していた。
香月は玄侑を助けるというその理由だけで彼の傍に居る。鈴鐘の配置が終わり、あとは鷹宵が確認に行った際さえ補強できれば、玄侑は五家を解体し、彼らに配る神力の分で黒神としての力は安定する。そうすれば香月の役割は終わりであり、彼の傍に居る必要はなくなる。だから、彼の傍を要求する言葉は、吐けない。
香月が微笑んでゆるく首を振ると、玄侑は辛そうな顔をした。しかしそれ以上は彼も求めず、夜斗に香月の着替えを手伝うように言うと、一度部屋を出て行った。ほう、と夜斗が大きな息を吐いた。
「玄侑さまがあんなお顔をなさるなんて……。夜斗も、香月さまが人世へお帰りになってしまうのは寂しいです」
若干しょんぼりした様子の夜斗は、玄侑が指さした着物を広げながら、香月の着替えを手伝った。一人で着替えられるが、玄侑の残した言葉について、少し彼女と話をする。
「私は……、玄侑さまが揺れる原因を作っています……。そんな私がまだ神世に居ても良いものなのかと……」
香月はあの契約の時からの玄侑しか知らないが、香月自身も玄侑の変化を感じている。香月以上に長く玄侑とともに居る夜斗がそんな風に言うと言うことは、彼は香月の所為でかなり以前と変わってしまったと言うことだろう。白陽の薬を飲まなければならない事態も、香月が居なかったら起こらなかった。自らが招く玄侑への悪影響に対する不安は、浮き出ては心の澱みに溜まる。しかし夜斗はきっぱりと首を横に振った。
「夜斗は今の玄侑さまが好きです。玄侑さまが喜びを覚えてくださったことを、夜斗は嬉しく思います」
にっこりと太陽のように微笑んで夜斗が言うものだから、香月は知らず詰めていた息をそっと吐き出した。
(不安を否定してもらって安心するなんて、なんてずるいのかしら……)
自分の吐息にそう気づき、香月はもう一度項垂れる。落胆の色濃い香月に、夜斗はテキパキと着替えを行った。黒の扇面柄の着物を脱がされ、白と朱の明るい色の着物を身につける。するとどうだろう。不思議と気分が変わるのだ。彼の色を身につけていたいと思うのに、それに気持ちが反するのを、香月は情けなく受け止めた。その香月を夜斗が励ます。
「香月さま。香月さまはこのお着物のように、明るく微笑んでいてください。玄侑さまのお色に染まることだけが、玄侑さまをお支えすることではございません。玄侑さまはもうずっと苦しんでこられました。玄侑さまを照らす光となってくださるなら、お顔を陰らせては駄目です」
夜斗の言葉にはっとする。そうだ。彼が香月と居て嬉しいと、楽しいと思って貰えるようにしたい。それが、香月に心を寄せてくれた玄侑に返せる、月の光なのだ。香月は夜斗にこくりとうなずき、微笑んだ。
「そうですね。私は玄侑さまを、契約が終わるそのときまで、お支えしたいのでした」
香月の言葉に、夜斗もにこりと微笑みを返す。そして部屋の外で待っていた玄侑を部屋に誘った。玄侑が着替えた香月を見て目を瞬かせ、そして、よく似合っている、と口元をほころばせた。
「君はやはり、明るい色が似合う。部屋に花が咲いたようだ」
笑みをたたえたまま歩み寄った玄侑は、懐から小さな鈴の音をさせて銀色のかんざしを取り出した。……人世であの青年に連れ去られたときに落としてしまった、鈴鐘を模したあのかんざしだった。
「人世ではこれが外れて守りが出来なくなった。出来れば屋敷の外に出るときは、外さない方が良い」
「神世で……、でもですか?」
「そうだな、出来れば……」
その玄侑の言葉を引き継いだのは、夜斗だった。
「心配性だったんですね、玄侑さま……」
意外、という色を滲ませた夜斗に、玄侑が反論出来ず、耳を赤くして口ごもる。そんな玄侑も初めて見るので、香月は目をしばたたかせた。
「ご心配いただかなくても、神世で私がなにかされるとは、思いませんが……。でも、玄侑さまがそのようにおっしゃるのでしたら、そういたします」
香月の返答を聞いて、玄侑は安心したように頷き、髪にかんざしを挿してくれた。頭を動かすと繊細な細工がしゃら、りん、りん、と小さくてやさしい音をさせる。
「聞いていて気持ちのいい音ですね」
夜斗の言葉に本当にそうだと思う。玄侑のやさしさの音だ。おなご二人が微笑み合うと、玄侑は安心したように、ではしばし休む、と言った。
「もしかして……、このかんざしの修理にお力をお使いになられましたか……?」
白陽の薬を飲んでいるから、神力の安定のために休息も必要だと言うことだったが、そんな中、体調を押して穢れてしまった鈴鐘に力を注いでくれたのだったら、悪いことをしたと思ってしまう。案じる香月の頭に手を乗せ、君も心配性だな、と玄侑は笑った。
「君と永久にありたいと願った俺が、君のために力を尽くすのは当たり前だ。大事ない。君は夜斗と茶でも飲んでいてくれ」
そう言って部屋から出て行く玄侑の背中を見送った。夜斗は広げた着物を箪笥にしまいながら、お茶にしましょうか、と話しかけてくる。
「白陽さまのお薬もありますし、大丈夫ですよ」
朗らかに言ってくれる夜斗に救われる。香月は彼女のすすめに従った。
香月の身なりで玄侑の気持ちが変わるとは思わなかった。パチパチと瞬きをして玄侑を見つめていると、見つめられた玄侑の耳がほんのり赤くなる。そしてゴホンと咳払いをして、なおも言った。
「買い求めたときも言っただろう。俺は君と居ると気分が良い。ただ居てくれるだけでそうなのだから、俺が贈ったもので美しく着飾ってくれたら、より嬉しいと思う」
自分が着飾ることを求められ、加えてそれを嬉しいと思われるなど、夢にも思わなかった。男性からそのようなことを言われるのはもちろん初めてであり、香月の頬に朱が走る。
彼が嬉しいと思ってくれるなら、袖を通してみようか。玄侑の顔と着物を交互に見、逡巡のあげくそう思って、香月は問うた。
「では……、玄侑さまのお見立てのお品を、着てみたい……、と思います。私が装いたいと思うのは、玄侑さまに喜んでいただきたいからですので……」
贈りたいのだ、と玄侑は呉服屋で言った。彼の欲求が香月を喜ばせることにあるのなら、香月だって同じだ。玄侑が心平らかにあること、そして喜びに満ちた時間を過ごしてもらうこと。それが香月の望みだった。
香月の言葉に、玄侑は目をやや見開いた。そして部屋に並べられたたくさんの着物をじっくり見、腕を組んで悩み始めた。眉間にしわを寄せ、口をへの字にするものだから、もしやとても難しいことを要求してしまったのかと困惑した。もちろんその様子に夜斗も口を出すことが出来ず、香月と夜斗はひたすら玄侑が言葉を発するのを待った。
長考の末、玄侑は白地に朱をぼかしたあの着物を指さした。白陽と丹早の色だといい、縁起が良いと言ってくれたものだ。
「色に込められた意味のためだけでなく、やはり君の白い肌に良く映えると思う」
理由を述べた玄侑の耳が、やはり赤く染まっている。肌が白いなどとも、鮮やかな色が映えるなどとも、誰からも言われたことのない言葉を、それも玄侑から言われたことで、香月もとっさに何も言葉を発せず、ただ頬を赤くしてうつむいた。すると、ふ、と息の漏れる音がして、かわいいことをしてくれるな、とやわらかい声が降り注いだ。
「君を、誰の目にも触れないよう、閉じ込めてしまいたくなる。いけないことだと、分かっているから、しないが」
俯いて頬に掛かる髪の毛を長い指で梳き、耳に掛けてくれる。そのままするりと顎に指を滑らせるから、朱に染まった顔を彼に見せることになった。その香月を、やさしい月のような瞳でいとおしそうに見つめてくるから、心臓が走り出してしまって、止まらない。
彼の言葉に、嬉しいと、閉じ込めてくださいと、口にしてしまいそうになる。しかしそれは禁忌の言葉だ。あのとき香月に冷水を浴びせた、あの怪しい声もそれを誘っていた。だから香月から玄侑に求めることはしてはいけない。ピリピリとした直感で、香月はそれを理解していた。
香月は玄侑を助けるというその理由だけで彼の傍に居る。鈴鐘の配置が終わり、あとは鷹宵が確認に行った際さえ補強できれば、玄侑は五家を解体し、彼らに配る神力の分で黒神としての力は安定する。そうすれば香月の役割は終わりであり、彼の傍に居る必要はなくなる。だから、彼の傍を要求する言葉は、吐けない。
香月が微笑んでゆるく首を振ると、玄侑は辛そうな顔をした。しかしそれ以上は彼も求めず、夜斗に香月の着替えを手伝うように言うと、一度部屋を出て行った。ほう、と夜斗が大きな息を吐いた。
「玄侑さまがあんなお顔をなさるなんて……。夜斗も、香月さまが人世へお帰りになってしまうのは寂しいです」
若干しょんぼりした様子の夜斗は、玄侑が指さした着物を広げながら、香月の着替えを手伝った。一人で着替えられるが、玄侑の残した言葉について、少し彼女と話をする。
「私は……、玄侑さまが揺れる原因を作っています……。そんな私がまだ神世に居ても良いものなのかと……」
香月はあの契約の時からの玄侑しか知らないが、香月自身も玄侑の変化を感じている。香月以上に長く玄侑とともに居る夜斗がそんな風に言うと言うことは、彼は香月の所為でかなり以前と変わってしまったと言うことだろう。白陽の薬を飲まなければならない事態も、香月が居なかったら起こらなかった。自らが招く玄侑への悪影響に対する不安は、浮き出ては心の澱みに溜まる。しかし夜斗はきっぱりと首を横に振った。
「夜斗は今の玄侑さまが好きです。玄侑さまが喜びを覚えてくださったことを、夜斗は嬉しく思います」
にっこりと太陽のように微笑んで夜斗が言うものだから、香月は知らず詰めていた息をそっと吐き出した。
(不安を否定してもらって安心するなんて、なんてずるいのかしら……)
自分の吐息にそう気づき、香月はもう一度項垂れる。落胆の色濃い香月に、夜斗はテキパキと着替えを行った。黒の扇面柄の着物を脱がされ、白と朱の明るい色の着物を身につける。するとどうだろう。不思議と気分が変わるのだ。彼の色を身につけていたいと思うのに、それに気持ちが反するのを、香月は情けなく受け止めた。その香月を夜斗が励ます。
「香月さま。香月さまはこのお着物のように、明るく微笑んでいてください。玄侑さまのお色に染まることだけが、玄侑さまをお支えすることではございません。玄侑さまはもうずっと苦しんでこられました。玄侑さまを照らす光となってくださるなら、お顔を陰らせては駄目です」
夜斗の言葉にはっとする。そうだ。彼が香月と居て嬉しいと、楽しいと思って貰えるようにしたい。それが、香月に心を寄せてくれた玄侑に返せる、月の光なのだ。香月は夜斗にこくりとうなずき、微笑んだ。
「そうですね。私は玄侑さまを、契約が終わるそのときまで、お支えしたいのでした」
香月の言葉に、夜斗もにこりと微笑みを返す。そして部屋の外で待っていた玄侑を部屋に誘った。玄侑が着替えた香月を見て目を瞬かせ、そして、よく似合っている、と口元をほころばせた。
「君はやはり、明るい色が似合う。部屋に花が咲いたようだ」
笑みをたたえたまま歩み寄った玄侑は、懐から小さな鈴の音をさせて銀色のかんざしを取り出した。……人世であの青年に連れ去られたときに落としてしまった、鈴鐘を模したあのかんざしだった。
「人世ではこれが外れて守りが出来なくなった。出来れば屋敷の外に出るときは、外さない方が良い」
「神世で……、でもですか?」
「そうだな、出来れば……」
その玄侑の言葉を引き継いだのは、夜斗だった。
「心配性だったんですね、玄侑さま……」
意外、という色を滲ませた夜斗に、玄侑が反論出来ず、耳を赤くして口ごもる。そんな玄侑も初めて見るので、香月は目をしばたたかせた。
「ご心配いただかなくても、神世で私がなにかされるとは、思いませんが……。でも、玄侑さまがそのようにおっしゃるのでしたら、そういたします」
香月の返答を聞いて、玄侑は安心したように頷き、髪にかんざしを挿してくれた。頭を動かすと繊細な細工がしゃら、りん、りん、と小さくてやさしい音をさせる。
「聞いていて気持ちのいい音ですね」
夜斗の言葉に本当にそうだと思う。玄侑のやさしさの音だ。おなご二人が微笑み合うと、玄侑は安心したように、ではしばし休む、と言った。
「もしかして……、このかんざしの修理にお力をお使いになられましたか……?」
白陽の薬を飲んでいるから、神力の安定のために休息も必要だと言うことだったが、そんな中、体調を押して穢れてしまった鈴鐘に力を注いでくれたのだったら、悪いことをしたと思ってしまう。案じる香月の頭に手を乗せ、君も心配性だな、と玄侑は笑った。
「君と永久にありたいと願った俺が、君のために力を尽くすのは当たり前だ。大事ない。君は夜斗と茶でも飲んでいてくれ」
そう言って部屋から出て行く玄侑の背中を見送った。夜斗は広げた着物を箪笥にしまいながら、お茶にしましょうか、と話しかけてくる。
「白陽さまのお薬もありますし、大丈夫ですよ」
朗らかに言ってくれる夜斗に救われる。香月は彼女のすすめに従った。



