「玄侑さま! 香月さま!」

神世に戻ると夜斗が屋敷から飛び出してきた。手の印から光を発し、意識のない香月に、夜斗は顔を青ざめさせた。

「玄侑さま、これは一体……!? 香月さまはどうされたのですか!?」

夜斗は何も知らない。『定めの儀』のために玄侑と香月が人世に降りたことと、その際に帝都を散策することが、夜斗の知りうる情報だ。だからそう聞かれるのも当たり前なのだ。夜斗の顔を見ることも出来ない。玄侑は俯き、痛苦の表情を浮かべながら、すまない、と夜斗に謝罪した。

「俺が悪かったんだ……。俺が香月を傷つけた……」
「そんな……」

香月に奴が封印を施していることを知っていたのに、彼女を己の炎で焼いた。自分の力は、あの封印を焼き尽くそうと彼女の身をひどく傷つけた。驚愕する夜斗に、鷹宵は、違います、とはっきりした声で否定した。

「これは事故です。故意ではない。そうですね? 玄侑さま」
「しかし、結果として香月を傷つけたことは、間違いないんだ……」

香月なら、自分が怒りにまかせて人を傷つけることを止めるだろうことは想像できたはずなのに、自分は感情に支配されて、己を律せなかった。完全に自分の落ち度だ。
加えて封印を焼いてしまったことで、封印が外れ掛かってしまい、其処から彼女の体から力があふれ出してしまっている。神世に連れてきた以上、この力をそのままにはしておけない。この力は玄侑の力を強くするのと同じ作用で神世の神力を強くするので、他の界との均衡が悪くなってしまう。
己の行いに絶望する玄侑を、夜斗が励ました。

「玄侑さま、まだ小屋に香月さまの力を封入してない鈴鐘がありますよね!? それに蓄えたらどうでしょうか!」

そうか。際固めは終わったから暫く必要ないかと思ったが、そういう手があるか。玄侑は直ぐに鷹宵に鈴鐘を持ってくるよう命じた。夜斗は玄侑に続いて屋敷に入ってくる。

「大丈夫ですよ、玄侑さま! きちんと息をしてらっしゃいますし、きっと香月さまは目を覚まされます!」

夜斗の言葉に、顔を上げる。そうだ。喪ったわけではない。ならばこの先、やり直す方法はいくらでもあるではないか。玄侑は口の端をなんとか上げて、夜斗の頭に手を置いた。

「……そうだな。お前の言うとおりだ。とにかくあふれ出る香月の力を封入しなければ。夜斗、香月を寝かせてやってくれるか」
「はい!」

はじかれたように夜斗が屋敷の奥へ行く。続く玄侑の背中を、鷹宵がじっと見ていた。







りん、りん、と澄んだ音色が辺りを満たす。
黒髪の長い彼女が、辛そうに微笑んだ。
あの子を、頼みます、と言って。





ふう、と意識が浮き上がるような感覚で、香月は目覚めた。

「香月!」
「香月さま!」

格天井を背に、玄侑の心配そうな顔が香月の視野いっぱいに広がった。その後ろには夜斗の泣きそうな顔もあった。視線を巡らせれば、部屋の隅に控えている鷹宵も居る。そして寝ている香月の周りにはたくさんの鈴鐘が置いてあった。

「玄侑さま……? 夜斗さん……?」

なにがどうなっているのかさっぱり分からず、香月は疑問を伝える。その香月を躊躇なく抱き起こし抱きしめた玄侑が、君は一週間も意識を失ったままだったんだ、と言った。

「一週間……」
「そうだ。俺の発した炎を浴びてしまったんだ……」

その言葉で思い出す。人世で子犬に持ち去られた巾着を探しに行ったら、路地で背後から身を拘束され、そのまま蓮平地区に連れて行かれた。帝都の真ん中だったはずなのに、蓮平地区へ移動させられたことにも驚いたが、連れて行かれた先で、家族たちが待ち構えていたのも衝撃だった。
香月を拘束した男性は、何故か玄侑のつけた印のことを知っていた。そこから香月の力を得ようとして、それを止めようと、玄侑が炎を発した。

「あ……、あの方は……」

香月は玄侑にそう問うた。人世で会った、丸眼鏡のスーツの青年。玄侑が黒の炎を向けた相手。
無事だったのだろうか。玄侑の炎が、万が一にも人を傷つけてなど、居ないだろうか。そう問うと、玄侑がぐっと香月の肩を抱き寄せ、広い胸に抱きしめた。そして鼻先を香月の髪に埋め、頬ずりをしながらその長い指で髪を梳いた。その手が、震えている……。

「げ、玄侑さま……?」
「無事だ」

急なことに焦る香月に、玄侑は絞り出すような声でそう言った。

「無事だ。悔しいことに、あいつの思う通りになるところだった。君が……、君が助けてくれたんだ。俺が墜ち神にならずにすんだのは、君のおかげだ」

聞いている香月の胸がぎゅっと締め付けられるような、苦しそうで辛そうな声。

「しかし、君を喪うくらいなら、墜ちた方がましだ」

その未来を思ったのか、泣きたいのを我慢してるような限りなく寂しそうで小さな声に、香月は彼の頭を撫でたくなる。香月のために、自らを捨ててもいいなんて言ってくれる人に、今まで出会ったことがなかった。そして、そんなことあってはならないのに、そう言われて胸のどこかで甘美な思いを感じてしまった自分を、本当に浅ましいと思う。

だから、己を、戒める。
そんなことには絶対にしないと、心に深く誓って。

「もう俺のために無茶はしないでくれ……」

小さい子供のような懇願に、しかし香月は頷くことは出来ない。だって、彼は、神だ。

「ですが、私は、玄侑さまがお役目を果たす未来で苦しまないために、行動したいのです」
「香月……」

自分の懇望を受け入れない香月に対して困ったように、玄侑が彼女の顔を覗き込んだ。香月は微笑みを浮かべて、応える。

「私は月の名を両親から頂いております。玄侑さまと契約したのは偶然ですが、私はこの名に恥じないよう、私を拾ってくださった玄侑さまの未来を照らす、神世の月であれるよう、務めたいのです」

信頼してくれた玄侑に、信頼され続けたい。やさしくしてくれた彼に、包み込む神世の月のようなやさしさを差し出したい。溢れるほど愛してくれた彼に、受け止めきれないほどの愛を返したい。全部、全部、玄侑が最初にくれたもの。香月が不器用ながらに返すなら、それがいい、と思っている。

(玄侑さまのことを考えると、心が震えるのは、だからなのだわ……)

玄侑に会えなかったら、自分は胸が震えるこの感覚を知らずにいた。知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。でも、それがいい、と思っている。その思いが、香月の生きる道を彩っていく。しかしそれは、玄侑にとっては泡沫の出来事で良いのだ。
心にいつかの別離を抱いて微笑み、玄侑を見つめる。玄侑は目を見張り、それから息を漏らして微笑んだ。

「それならば、その光で永久(とわ)に俺を導いてくれ。俺は君を離したくない」

香月の心をどう捉えたのか、彼はそう吐息に乗せながら、今度は壊れ物に触るように、香月をゆっくり抱きしめた。そしてやはり、絹を触るように髪の毛を梳く。
深く、深く。落ち着いた彼の言葉は心に染み入り、香月を満たした。
これ以上の幸せはない、と、震える気持ちを、涙に乗せないように堪える。


……香月は、知らない。玄侑が彼女を抱きしめながら、憂いの瞳をしていたことを。





「玄侑さまと香月さま、良かったですね!」

玄侑の私室を後にした夜斗が鷹宵にニコニコと話しかけた。彼女としては、孤独に責を負ってきた玄侑に相愛の主が現れたことが嬉しいのだろう。確かにそういう意味では、鷹宵も頷ける。しかし。

(安定しておられた気が、あそこまで振れてしまってはいけない……。やはり、どうにかせねば……)

思案の色に、夜斗は気づかなかった。神世の夜は、更けていった。