「お姉さま、ごきげんよう」

香月は目の前に現れた桔梗に愕然とした。手を後ろ手にひねり上げられ、体は地面に押しつけられている。香月を見下ろしている桔梗は鬼畜なまでに残酷な笑みをたたえ、ギラギラと光る刀をむき身で持っている。

「ご令嬢に乱暴を働くのは気が乗らないのですが、ご勘弁ください」

香月を拘束している栗毛色のくせ毛の青年は、全く申し訳ないと思っていない声音でそう言った。桔梗が彼の言葉に噛みつく。

「浩次朗さま。姉は令嬢なんかじゃございませんわ。蓮平の出来損ない。妖魔に好まれるだなんていう、破妖の一族にあるまじき忌み子なのですわ」
「そのようですね」

丸眼鏡をキラリと光らせた浩次朗と呼ばれる青年が、桔梗の言葉に頷く。ねじられた手首から、ぞわぞわとした嫌な感覚が香月の体を這い上がった。

「しかし、この方が居ないと力を授かることも出来ない。そういう意味では、使い出がありますよ」
「そうですわね。お姉さまが人世に捨てられていたなんて、やっぱり何処に行っても災いしか呼ばなかったのね。神さまのお側でなんて、その黒の血は嫌われたでしょうからね」

哀れむように見下す桔梗の視線に、違う、と思う。しかし体に力が入らない。まるで四肢の力を吸い取られているような感じだった。桔梗が香月の前にきて、髪の毛をぐいっと引っ張っる。香月を忌み睨む桔梗と、その背後に両親。更には数人、人が居る。その更に背後には昼間の日の光の下(もと)にあふれた、妖魔の数々。

「お姉さまが黒神さまを惑わしてのうのうと生きていた間、蓮平の地区はこんなに妖魔があふれてしまったのよ。街の人たちに迷惑を掛けたという自覚はおあり?」

桔梗の口火に、見知らぬ人々が怒号を浴びせてきた。

「お前が神さまをそそのかしてから、街はめちゃくちゃだ!」
「夜も昼も、時を構わず妖魔におびえる暮らしなんだぞ!」
「妖魔を引き寄せる忌み子のくせに! お前なぞ居なくなってしまえば良いんだ!」

浴びせられる怒りの言葉に、彼らが蓮平地区の住人であることを知る。確かに玄侑は桔梗たちに神力を付与せず神世へ戻ったから、その間に妖魔が溢れてしまったと言うことは、考えられる。しかし、闇の中でしか生きられない妖魔が、何故昼間にもわいているのだろう。
その妖魔たちは、桔梗たちの背後からは近づかないようだった。どうやら父が結界を張っているらしく、その外からこちらを窺っている。いつものように目をギラギラとさせて、口を大きく開け、牙や爪をむき出しにしている個体もある。少しでも結界が解れたら、なだれ込んでこようという意図がありありと分かった。

「ねえ、お姉さま。お父さまの結界の外に群れている妖魔たちは、お姉さまの血が欲しくて欲しくてたまらないのよ。いつもの夜を思い出さない? お姉さまがひとり、あの前に立って下されば、あいつらはみんなお姉さまに群がって、私たちが仕留めやすくなるの。街の人たちだって、それを望んでいるって言いたくて、わざわざ此処に居るの。大丈夫。私の刀で斬ったって、お姉さまは無事だったじゃない。きっと忌まわしい黒の血が、お姉さまを生かしてくれるわ」

コツリ、と剣を構えた桔梗が香月に歩み寄る。体を引きたいが、力が入らず、かなわない。香月の眼前に、袴の裾から伸びるブーツの靴先が近づき、そこと香月の目の前を、ひゅっと刃が走った。はらりと香月の前髪がその場に舞う。

「うふふ。お姉さまのために、ちゃんと研いでもらいましたのよ。次はあの外に放り出したお姉さまの首と胴を切り離して差し上げる」

見せつけるかのように剣の切っ先を光らせて楽しげな桔梗を、しかし浩次朗が止める。

「桔梗さん、お止めなさい。姉上殿を斬っても、何の解決にもならないでしょう」
「浩次朗さま」

獲物をいたぶる獣のごとく爛々と輝いていた桔梗が、浩次朗の制止に鼻白む。このまま体を真っ二つに斬られるのかという恐怖から、浩次朗の言葉が香月を救った。しかし。

「あなた方の希望は、妖魔あふれるこの地区から彼らを一掃し、その働きで陛下への忠誠を誓い、爵位を維持することのはずだ。その為に、姉上殿を最大限利用しなければ」

利用、と言って、浩次朗は香月の右手のひらを自分の手にぐっと押し当てた。瞬間、体の内側で大きななにかが暴れ回る。それは胃の腑を、心の臓を内側から叩いた。圧迫感に吐き気を催していると、浩次朗は冷静に、ああ、と呟いた。

「此処に、ありますよ。武具に込める力への入り口が」
「まあ、なんですって!? 本当ですか!?」
「黒神さまのお力ですか!?」
「まあ、どういう理由で!?」

桔梗たちは浩次朗の言葉で目を丸く開き、輝かせた。浩次朗が香月の右手をぐいっと高く持ち上げる。力が入らない香月は浩次朗に引っ張られるがままだ。

(何故玄侑さまの印のことをこの人が知っているの……。印を通して力をお使いになれるのは、印を施した玄侑さまだけのはず……)

「ほら、此処に、黒神の施した印が」

浩次朗はそう言って持ち上げた香月の右の手のひらを、べろりと舌で舐めた。ざらざらとした舌の表面が手のひらの敏感な部分をなぞり、ぞわぞわと肌が戦慄いて悪寒が走る。結界の外で妖魔たちがギャアギャアと叫び声を上げた。

「まあ! 黒い模様が! それが黒神さまのお力の証!?」
「では、早く力をもらわなければ!」
「どのようにして!?」

うわずった家族の声が興奮の度合いを表している。浩次朗が彼らに告げた。

「簡単ですよ。あなた方の武具で、この印を突き刺せばいい」

さも簡単なことのように、浩次朗が言う。しかし言われた家族はぎょっとした顔をした。街の人たちも同じ反応をしている。それはそうだ。香月を斬れば黒の血が流れ、妖魔がそれを目当てに襲い来る。結界の外の妖魔の数に対し、父の力がどのくらい及んでいるか分からないが、父がひるむくらいには、彼の力はあの妖魔の数に対して脆弱なのだろう。そして、それを聞いた街の人たちは一斉に悲鳴を上げた。

「止めろ! 何故安全な結界の中でこいつの血を流させるんだ!」
「あの数の妖魔に襲われたら、いくら蓮平殿でもどうにもならないだろう!」

彼らの非難を無視し、浩次朗は笑顔を浮かべたまま怯えた様子の家族に対し、やりませんか? と問うた。

「刺して、力を得て、なだれ込む妖魔を一掃すればいいだけのことです。黒神が神事を放棄した今、あなた方の武具に力を込めるのに、他に方法がありますか?」

ひやりとした温度で、浩次朗が家族に迫る。震える声をあげたのは、桔梗だった。

「わ……、わたし、やりますわ! だって、蓮平地区を妖魔から開放して、陛下に私たちの力を認めていただかないといけないんですもの……!」
「桔梗殿! 止めろ! 止めてくれ!」
「安全だからと誘ってくれたんじゃないのか!」
「死にたくてこの場に居るわけではないんだぞ!」

街の人たちの悲鳴は続く。
香月を傷つければ、父の結界が持たないことを、桔梗は理解しているのだろう。しかし彼女は剣の柄を上にして、両手で握った。浩次朗は桔梗の意図を理科して、掲げ持っていた香月の右の手首を地面に固定することで手のひらを桔梗に示して見せた。

「お姉さま! 私のために力になってくださいな!」